『講座 仏教思想』4「人間学 心理学」(理想社 1975年7月)収録、19-63頁。
では人間の価値または意義はどこに存するのであろうか?
ギリシア思想においては、人間を人間たらしめるもの、自己は、つねに理性と同一視された。
これは或る意味でインド人の見解にも対応する。古くヴェーダ文献では人間をマヌ (manu) と呼ぶこともあったサンスクリット文献一般ではマヌシャ (manuşya) と呼んだが、これらは〈考えるもの〉という意味である。〈考える〉ということは合理性を内含する。
ところでギリシア人によると、理性は人間を獣から区別するばかりでなく、人間を神的なものに連絡すると考えられた。これはインド人の人間観といちじるしい対比をなすものである。インド人は人間や獣を通ずる生命の一体感を認めていたし、その一体感は時には植物まで及ぶと考えられていた。
この見解からの帰結として、ジャイナ教徒、あるいは仏教諸国のあいだでは、生きものに対する憐れみを尊ぶのである。シナ・日本の寺院では捕らえた魚鳥を放つという「放生会」の儀式が行われ、また菜食主義で通す人々もいた。こういう態度は古代西洋には見られぬものであった(ただし菜食主義は古代西洋にもあった)。
これに対して人間と獣とを峻別する見解が諸国にあった。エピクテイトスは獣を軽蔑していた。〔後略〕 (同書20頁)
※2015年11月01日「大井玄 『呆けたカントに『理性』はあるか」 より」をも参照すること。
では人間の価値または意義はどこに存するのであろうか?
ギリシア思想においては、人間を人間たらしめるもの、自己は、つねに理性と同一視された。
これは或る意味でインド人の見解にも対応する。古くヴェーダ文献では人間をマヌ (manu) と呼ぶこともあったサンスクリット文献一般ではマヌシャ (manuşya) と呼んだが、これらは〈考えるもの〉という意味である。〈考える〉ということは合理性を内含する。
ところでギリシア人によると、理性は人間を獣から区別するばかりでなく、人間を神的なものに連絡すると考えられた。これはインド人の人間観といちじるしい対比をなすものである。インド人は人間や獣を通ずる生命の一体感を認めていたし、その一体感は時には植物まで及ぶと考えられていた。
この見解からの帰結として、ジャイナ教徒、あるいは仏教諸国のあいだでは、生きものに対する憐れみを尊ぶのである。シナ・日本の寺院では捕らえた魚鳥を放つという「放生会」の儀式が行われ、また菜食主義で通す人々もいた。こういう態度は古代西洋には見られぬものであった(ただし菜食主義は古代西洋にもあった)。
これに対して人間と獣とを峻別する見解が諸国にあった。エピクテイトスは獣を軽蔑していた。〔後略〕 (同書20頁)
※2015年11月01日「大井玄 『呆けたカントに『理性』はあるか」 より」をも参照すること。