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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

中村元 「仏教における人間論」

2017年11月20日 | 抜き書き
 『講座 仏教思想』4「人間学 心理学」(理想社 1975年7月)収録、19-63頁。

 では人間の価値または意義はどこに存するのであろうか?
 ギリシア思想においては、人間を人間たらしめるもの、自己は、つねに理性と同一視された。
 これは或る意味でインド人の見解にも対応する。古くヴェーダ文献では人間をマヌ (manu) と呼ぶこともあったサンスクリット文献一般ではマヌシャ (manuşya) と呼んだが、これらは〈考えるもの〉という意味である。〈考える〉ということは合理性を内含する。
 ところでギリシア人によると、理性は人間を獣から区別するばかりでなく、人間を神的なものに連絡すると考えられた。これはインド人の人間観といちじるしい対比をなすものである。インド人は人間や獣を通ずる生命の一体感を認めていたし、その一体感は時には植物まで及ぶと考えられていた。
 この見解からの帰結として、ジャイナ教徒、あるいは仏教諸国のあいだでは、生きものに対する憐れみを尊ぶのである。シナ・日本の寺院では捕らえた魚鳥を放つという「放生会」の儀式が行われ、また菜食主義で通す人々もいた。こういう態度は古代西洋には見られぬものであった(ただし菜食主義は古代西洋にもあった)。 
 これに対して人間と獣とを峻別する見解が諸国にあった。エピクテイトスは獣を軽蔑していた。〔後略〕
 (同書20頁)

 ※2015年11月01日「大井玄 『呆けたカントに『理性』はあるか」 より」をも参照すること。