恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

小水の魚

2020年05月20日 | 日記
 私の在籍した修行道場では、3と8のつく日には、大掃除をします。毎日の掃除では手の届かないところまで、修行僧総出で、徹底的に磨き上げるわけです。その日の晩のお勤めでは、清浄となった僧堂(坐禅堂)に全員が集合して、「三八念誦(さんぱちねんじゅ)」という儀式を行います。

 今でも鮮明に覚えているのは、2年目の冬のとある月18日の念誦です。

 連日の雪の合間、ようやく晴れた夕暮れに、七堂伽藍を覆う雪囲いの竹の間から茜色の光が差し込み、合掌して立つ修行僧の顔は、切れ切れに照らされていました。

 導師の老僧が伽藍を焼香しながら一巡し、僧堂に入って来ると、古参の和尚が入り口正面に進み出ます。そして頃合いを見計らって、堂々たる声を響かせ、以下の言葉を独唱します。

「大衆(だいしゅ)に白(もう)す。如来大師入般涅槃、今令和2年に至って、已(すで)に二千四百九十四歳(いろいろな数え方あり)を得たり。是の日已に過ぎぬれば、命も亦た随って減ず。小水の魚の如し。斯(ここ)に何の楽しみか有らん。衆等、当に勤め精進して頭燃(ずねん)を救うが如くすべし。但だ無常を念じて慎んで放逸なること勿れ。伽藍土地、法を護って人を安んじ、十方の檀那、福を増し慧を増さん。如上の縁の為に念ず」

(修行僧諸君に申し上げる。釈迦牟尼如来が入滅して、いま令和2年に至って、既に2494年が過ぎた。この日が既に過ぎ去ったように、我々の命もまた縮まったのだ。まことに我々は、そこが小さい水たまりに過ぎないことを知らぬまま、安心してとどまっている魚のようなものである。それを思えば、この世に何の楽しみがあるというのだ。だからこそ諸君、まさに時を惜しんで努力し精進して、修行に励むこと、頭にかかる火の粉を払うが如くにせよ。ただ諸行無常なることを思って、慎んで身心を乱すようなことがあってはならない。この伽藍と境内、そして仏祖の教えを護持して、人々を平安にし、すべての信者の人々がさらに幸福となり、いっそう仏智慧を増すように、以上を願って、さあ仏の御名を唱えようではないか)

 この修行僧の独唱が終わると、間髪入れずに堂内の鐘が打たれます。それを合図に以下、修行僧全員が声を長く引きつつ、区切りの鐘の音に合せて、十の仏名を独特の漢音で唱えるのです。

 ちょっとした失敗か何かで、多少気落ちしている時などにこの念誦に立つと、本当に独唱の言葉と仏名が身に染みてきます。同時にまた皆と一緒にがんばろうという気持ちが湧いてきたものです。

 ソーシャルディスタンスを要求する今回の疫病を機に、労働・教育の現場をはじめ、様々な分野の人間関係にITが浸透してくるでしょうが、「早く学校に行って友達と遊びたいです」と訴える小学生や、「何とか早くお客様の前で演じたい」と願う芸能者の言葉を聞くにつけ、かつての修行時代を思い出すと、我々の意識が今のこの肉体に拘束される限り、生身の人間の深い関わり合いがどうしても必要だと、思わざるを得ません。