仏教には「勝義諦(第一義諦)」と「世俗諦」という言い方があります。教義的立場によって解釈は様々ですが、たとえば中観系の解釈だと、おおよそは以下のようになるでしょう。
「勝義諦」は、「空」「悟り」「解脱」「涅槃」など、仏教の究極的境地や認識を意味し、これは言葉で表現することができない「真理」だとされます。
これに対して「世俗諦」は、そうは言っても、何も言葉で表現しなければ、「真理」の存在さえ知ることはできない。この言語化された限りでの「真理」を「世俗諦」と言うわけです。
この二諦説が俗化すると、仏教本来の真理(勝義諦)は世間を超越しているから日常生活と無縁になる。であるから、それはそれとして、日々の暮らしは世間の法律や習慣・道徳(俗諦)に随順すべきだという、安直な二元論に堕することとなります。
では、私流に二諦を解釈するとどうなるでしょうか。
「勝義諦」には二つの側面があります。
一つは、それ自体として存在するわけではない事物の実存を、言語がそれとは真逆の、それ自体に根拠を持って存在する「実体」のごとく錯覚させることを、暴露し批判することです。
もう一つは、では「実体」と錯覚されている事物は、実際にはどう実存しているのかを説明することで、その核心となるアイデアが「縁起」です。すなわち、関係が存在に先立ち、存在を生成するという考え方を言うわけです。
これに対して「世俗諦」は、ならば、その関係はどのように構成されるべきかを考え・実行すること(これには言語の機能が必須)です。このとき、その「考え方」や「実行の仕方」は、常に一定の条件に規定された暫定的なものであることを自覚しているべきであり、この自覚が「勝義諦」の言語批判に由来しているわけです。
したがって、「勝義諦」は「世俗諦」に作用する限りにおいて有意義なのであり、「世俗諦」は「勝義諦」に依拠しない限り「諦」にならず、ただの「世俗」でしょう。
このとき、私が排除するのは、「勝義諦」をなんらかの特殊な「境地(心身状態)」として存在論的に特権化し、これを「言葉で語りえない真理」として実体視することです。
この考えは、結局「世俗諦」とされる「言葉で語られた教説」を二次的なものとして切り離し、最後には世間の道徳話同然に仕立ててしまいます。
かくして、一方が実体論になり、他方が道徳話になったら、もはや仏教ではありません。
要は、「勝義諦」と「世俗諦」を区別しただけで事が片付くと考えるのは誤解の元であり、大切なのは二諦の関係を定義することなのです。
「勝義諦」は、「空」「悟り」「解脱」「涅槃」など、仏教の究極的境地や認識を意味し、これは言葉で表現することができない「真理」だとされます。
これに対して「世俗諦」は、そうは言っても、何も言葉で表現しなければ、「真理」の存在さえ知ることはできない。この言語化された限りでの「真理」を「世俗諦」と言うわけです。
この二諦説が俗化すると、仏教本来の真理(勝義諦)は世間を超越しているから日常生活と無縁になる。であるから、それはそれとして、日々の暮らしは世間の法律や習慣・道徳(俗諦)に随順すべきだという、安直な二元論に堕することとなります。
では、私流に二諦を解釈するとどうなるでしょうか。
「勝義諦」には二つの側面があります。
一つは、それ自体として存在するわけではない事物の実存を、言語がそれとは真逆の、それ自体に根拠を持って存在する「実体」のごとく錯覚させることを、暴露し批判することです。
もう一つは、では「実体」と錯覚されている事物は、実際にはどう実存しているのかを説明することで、その核心となるアイデアが「縁起」です。すなわち、関係が存在に先立ち、存在を生成するという考え方を言うわけです。
これに対して「世俗諦」は、ならば、その関係はどのように構成されるべきかを考え・実行すること(これには言語の機能が必須)です。このとき、その「考え方」や「実行の仕方」は、常に一定の条件に規定された暫定的なものであることを自覚しているべきであり、この自覚が「勝義諦」の言語批判に由来しているわけです。
したがって、「勝義諦」は「世俗諦」に作用する限りにおいて有意義なのであり、「世俗諦」は「勝義諦」に依拠しない限り「諦」にならず、ただの「世俗」でしょう。
このとき、私が排除するのは、「勝義諦」をなんらかの特殊な「境地(心身状態)」として存在論的に特権化し、これを「言葉で語りえない真理」として実体視することです。
この考えは、結局「世俗諦」とされる「言葉で語られた教説」を二次的なものとして切り離し、最後には世間の道徳話同然に仕立ててしまいます。
かくして、一方が実体論になり、他方が道徳話になったら、もはや仏教ではありません。
要は、「勝義諦」と「世俗諦」を区別しただけで事が片付くと考えるのは誤解の元であり、大切なのは二諦の関係を定義することなのです。