あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
新年早々、思いつき禅問答シリーズ。
行脚の修行僧が、ある老師の下に至り、その坐禅する場所を三周してから、手に持った錫杖をひとたび振るうと、その場に端然と直立しました。
すると、老師いわく、「よし、よし」
ところが、この話を聞いた別の老師はコメントして、「間違ってるな」
行脚の僧は、さらにもう一人の老師を訪ねて、前の老師の時にしたことと同じことをして、直立しました。
すると、この老師は「ダメ、ダメ」
それを先のコメントの老師がまた、「間違ってるな」
行脚の僧は、「ダメ」と言った老師に訊ねます。
「前に行ったところの老師は『よし』と言ってくれましたよ、どうしてあなたは『ダメ』なんです?」
老師は答えます。
「前の老師の答えはよい。お前がダメなのだ。老師によいと言われた、お前の立っているところは、結局は無くなってしまうものだ」
この話を私はこんなふうに読んでいます。
行脚僧が「立っているところ」とは、彼が「真理」だと思っているアイデアです。それを最初の老師は肯定しました。
次の老師が「ダメ」出ししたのは、最初の老師が行脚僧の真理だと思うことを肯定したことではありません。それは一つの見解としてあり得る話でしょう。
しかし、その肯定によって、一定の条件下でしか成立しない見解を、行脚僧が絶対の真理のように錯覚することを、老師は「ダメ」と言ったわけです。
ですが、この問答の核心は、コメント老師の「間違ってるな」にあります。この老師は、「よし」も「ダメ」も、両方間違いだと言うのです。
なぜなら、「ダメ」の老師も自分の見解を言っているだけで、そこに絶対の根拠は設定できないからです。すなわち、およそ自分の立っているところには、コメント老師の「間違ってるな」も含め、無条件に通用し得る、何ら確実な支えもないということです。
新年早々、思いつき禅問答シリーズ。
行脚の修行僧が、ある老師の下に至り、その坐禅する場所を三周してから、手に持った錫杖をひとたび振るうと、その場に端然と直立しました。
すると、老師いわく、「よし、よし」
ところが、この話を聞いた別の老師はコメントして、「間違ってるな」
行脚の僧は、さらにもう一人の老師を訪ねて、前の老師の時にしたことと同じことをして、直立しました。
すると、この老師は「ダメ、ダメ」
それを先のコメントの老師がまた、「間違ってるな」
行脚の僧は、「ダメ」と言った老師に訊ねます。
「前に行ったところの老師は『よし』と言ってくれましたよ、どうしてあなたは『ダメ』なんです?」
老師は答えます。
「前の老師の答えはよい。お前がダメなのだ。老師によいと言われた、お前の立っているところは、結局は無くなってしまうものだ」
この話を私はこんなふうに読んでいます。
行脚僧が「立っているところ」とは、彼が「真理」だと思っているアイデアです。それを最初の老師は肯定しました。
次の老師が「ダメ」出ししたのは、最初の老師が行脚僧の真理だと思うことを肯定したことではありません。それは一つの見解としてあり得る話でしょう。
しかし、その肯定によって、一定の条件下でしか成立しない見解を、行脚僧が絶対の真理のように錯覚することを、老師は「ダメ」と言ったわけです。
ですが、この問答の核心は、コメント老師の「間違ってるな」にあります。この老師は、「よし」も「ダメ」も、両方間違いだと言うのです。
なぜなら、「ダメ」の老師も自分の見解を言っているだけで、そこに絶対の根拠は設定できないからです。すなわち、およそ自分の立っているところには、コメント老師の「間違ってるな」も含め、無条件に通用し得る、何ら確実な支えもないということです。