恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ぶっちゃいました。

2016年01月10日 | 日記
 新年早々、思いつき禅問答シリーズ。


 昔の中国で、雲門という禅師が旅の雲水に訊ねました。

「どこからやって来たんだね?」

「西禅老師の道場からです」

「老師は最近、どんなことを言ってるんだ?」

 すると、雲水は両手を開いて差し出しました。

 とたんに、雲門禅師は雲水に平手打ち一発!

 雲水、あわてて

「自分にはまだ言うことがあるんです!」

 雲門禅師、すかさず両手を開いて差し出す。

 雲水、びっくりして無言。

 ここで、雲門禅師また雲水の横っ面に一発!!


 この話を、私はこのように考えています。

 雲門禅師の「どんなことを言ってるんだ?」という問いは、「西禅老師は悟っているのか? その悟りをどう語っているのか?」という意味です。

 これに対して、雲水が両手を差し出したのは、悟りは体験として把握されるもので、言語化はできないということを表しているのでしょう。ですから、行為としては何でもよかったのであって、手を差し出そうが逆立ちしようが、構わない話です。

 これに対する雲門禅師の平手打ち一発は、悟りだろうが何だろうが、体験それ自体は無意味だと言っているのです。問題はある「体験」をどのような文脈に乗せて語るかなのです。その語りによってのみ「意味ある」事象になるわけです。

 「悟り」として語られる経験は、心理学などの文脈で語られれば「変性意識」とでも呼ばれるでしょうし、禅や仏教に興味も関心も無い人に言わせれば、「馬鹿じゃないの」ですませる話でしょう。つまり、「意味ある」何かになるためには、語られなければならないのです。

 そこで雲水は「まだ言うことがあるんです」と弁明します。

 すかさず雲門禅師が手を差し出したのは、体験は語られなければ無意味だが、どう語ってもそれは、体験そのものを「正しく」言語化することはできないと教示するためです。

 事ここに至って、雲水は進退窮まって言う言葉を無くします。

 雲門禅師の平手打ち二発目は、「言語化できない」でとどまってはいけないことを示しているます。とどまれば、それは「言葉にできない真理」として概念化され言語に固定されてしまいます。

 したがって、「言語化できない」事象を言語化し続け、かつ言語化に失敗し続ける行為以外に、「悟り」体験を語る方法はないということになるでしょう。


 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いいたします。