恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

疑う人の信じ方

2014年07月20日 | インポート

 まるで疑いを持たない人は、信じることはできません。「疑い」が無いなら、彼は「理解」したり「了解」したりするだけです。

 しかしながら、「理解」や「了解」も、実は根本的にはそう「信じて」いるのです。そのとき、疑うことは忘れられています。

「ここにコップがある」「1+1=2である」ということを、人は普通「わかっている」とは言うでしょうが、「信じている」とは言いません。

 ところが、この「コップがある」の、「ある」とはどういうことか、と一たび考え出したら、ことはそう簡単に「理解」できなくなります。

「1+1=2」にしても、別々の「1」をまとめて一つに見る意識作用が無ければ、「2」にはなりません。人はどうして、別なものを一緒のものとして見ることができるのか。「+」とは何か。なぜそれが、ただの「1と1」ではなく、「2」になるのか。考え出したらキリがありません。

 こういう「無駄な」考えや疑いを通常は意識化しないから、人は物事を「当然のこと」として「理解」できるのです。つまり、「理解する」とは、「疑う」ことを忘れたまま「信じている」ことなのです。

 これに対して、「確信する」と言われる態度があります。「確信する」人間は、「疑い」があることを明瞭に知っています。それを知ったうえで、「疑う」人と、さらに疑っても信じてもいない「第三者」に対して、彼なりに説明可能な「根拠」を示して、その「疑い」を否定しようとします。これは通常「知的」「学問的」と呼ばれる態度でしょう。

 では、普通に「信じている」とは、どういう態度でしょう。それは、「根拠」を説明しないまま、あるいは説明できないまま、「疑い」を排除・無視する態度(つまり「疑わない」こと)です。これはかなり心理的に大きな負担でしょうから、しばしば極端に振れて、「盲目的」で「耳を貸さない」状態に陥ることもあるわけです。

  さらに、もう一つの「信じる」態度があります。これは「疑い」を当然の前提として「信じる」のです。つまり、否定も排除もせず、「疑い」を受容して「信じる」。これはもう「信じる」とは言いません。通常は、「賭ける」と言います。

 「宗教を信じる」と言うとき、その意味は通常、上記の「確信している」か「普通に信じている」のどちらかでしょう。

 では、「宗教に賭ける」と言ったら、それはどういう意味か。それは可能なのか。

 おそらく「賭け」た瞬間、「信じること」と「疑うこと」は対消滅してしまいます。「賭けた」者はもう「信じ」ても「疑って」もいません。それまで自分が「信じてきた」「疑ってきた」教えに、いわば「身を委ねる」だけです。その善悪は問えず、吉凶を知ることもないでしょう。そしてどんな希望も期待も無意味になるでしょう(いくら希望しようと、サイコロの目がどう出るかは、それと関係ない)。

 「信じる」行為そのものを「疑う」ような人間が、宗教にコミットしようというなら、この「賭け」以外に方法がないのではないか、私はそう思うのですが。