恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

独学と独善

2013年08月20日 | インポート

「神を見た」とか「悟った」という当人の体験それ自体は、それが錯覚か否か、本人も含め誰にも区別できません。当人とは別の誰かが何らかの方法で同意してはじめて「奇跡」「悟り」として語られるようになるのです。まさにこの点に宗教が共同体、つまり教団を形成する必然性があるわけです。

 イエスにしてもブッダにしても、彼ら以前にすでに「ユダヤ教」や「バラモン教」と呼ばれる宗教共同体があり、その存在を前提に、今度は自らの新しい共同体(「十二使徒」「十大弟子」など)を作り出しました。

 では、宗教において(ここでは「宗教」の定義は問いません)、「独学」は可能でしょうか? この問いを言い換えると、この「独学」が「独善」に陥る危険は無いのか? ということです。

 学問において、あるいは教養や知的興味において、「宗教」の独学は可能でしょう。なぜなら、「学問」なり「知識」の場合は、学問的・知識的に整理され体系づけられた言説の集積がすでにあり、それが「学会」のような共同体から相対的に独立した、原則として誰にもアクセス可能な基準として機能しています。

 である以上、「独学」の言説もその基準によって計られるからです。優秀な「独学」説は、ユニークな「新説」と評価され、そうでないものは「独善的妄説」とされるでしょう。

 ところが、原理的に、あるいは定義として、言語の埒外の領域(いわゆる「超越的」「絶対的」領域)との関係の仕方が最重要のテーマである「宗教」は、「独学」の「独善」性を明確に判断する基準(完全に言語化された基準)を持ちません。それはひとえに、教団内部の暫定的な手続き(たとえば「奇跡」の承認、「印可証明」)において、承認されるか否認されるかにかかるのです(「正統」と「異端」)。

 したがって、当然、教団が間違う可能性もあります。教団が「独善」と否定した言説が、後から実は正当だったと変更されることもあり得るのです(それは学問の世界でもそうでしょう)。

 
 ただし、そうであっても、変更するのはあくまで「教団」であり、「独学」者本人が「独善」性を否定できるわけではありません(学問の世界なら、学会の意向がどうであろうと、「正しいものは正しい」と主張できるでしょう)。

 つまり、教団をまったく否定した「独学」宗教者は、自身の「正しさ」を主張する根拠を確保できないのです。彼は、自分が「独善的な間違い」を犯していないかという疑念を決して払拭できません。というよりも、間違いなのかどうかが、「独学」であるかぎり、いつまでも不明のままでいるほかないのです。

 私は何も、何らかの立場で教団に属さない限り「宗教」にアクセスできないと言いたいのではありません。そうではなくて、たとえ間違うことがある「教団」「宗教的共同体」であったとしても、その存在を前提としない「独学」は、「宗教」においては不可能だと、そう思うのです。つまり、それは、学んでいるのかどうかさえ、わからないのです。