恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「理念」の毒

2013年06月10日 | インポート

 「独裁」であれ「体罰」「いじめ」であれ、または「カルト」であれ、ある集団において、少数の者が多数の者を圧倒的に支配するためには、いくつかの要件があります。

 一つは、集団が閉鎖されていること。そうでないと、外部からの干渉を受けて、支配ー被支配の関係が安定しません。

 二つ目には、支配者側が暴力を実際に動員できるか、あるいは、動員できると被支配者側に信じさせること。「圧倒的」支配は、顕在的であれ潜在的であれ、暴力の恐怖がない限り、持続しません。

 三つ目は、被支配者側が分断されていること。支配者によって行われる、被支配者の服従レベルに応じた利益誘導や供与によって、被支配者側を階層化し、結束して対抗できないようにするためです。

 四つ目は、支配者側が、支配によって一定の具体的利益(金品・地位・心身の保護安全など)を受け続けることです(もちろん、それは被支配者側の犠牲に基づきます)。このことが、「異常な支配」を支配者側から終わらせることのできない大きな理由です。

 最後に、そして決定的に重要な条件は、支配者側が「自分たちのしていることは正しい」と信じることができ、被支配者側が「この支配は仕方がない」と諦めてしまうような、一貫した理屈を用意することです。

 この理屈がなければ、支配者側は自分たちが行っていることが犯罪か、犯罪に等しいことなのだと、すぐにわかってしまいます。同時に、被支配者側にとっては、反抗こそが「正義」ということになり、あっという間に集団の支配ー被支配の関係は崩壊してしまいます。

 ということは、社会集団における「圧倒的支配」という現象を防ぐには、その集団の形成当初から機能している、集団の「目的」や「基本理念」(=「一貫した理屈」)を、特定の条件下でしか正当化されえない、常に賞味期限のある、暫定的アイデアなのだと、メンバーが自覚していることこそ、特に必要でしょう。

 ただし問題は、この自覚がないからこそ、「強力な」集団を構成できるということです。しばしば、「圧倒的な支配」が行き渡っている集団こそ、「強力」なのです。

 したがって、「圧倒的支配」を忌避するならば、我々としては手始めに、「強力な集団」を望む自分たちの心的傾向そのものを相対化する努力をすべきでしょう。それはつまり、「強力」の意味を根本から問い直すことなのです。

追記:次回「仏教・私流」は、6月26日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。