恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

人間/非人間

2012年10月20日 | インポート

 ある出版社の企画で、今年引退を表明された陸上のハードル競技選手、為末大氏と対談しました。以下は、そのときの私の発言の一部です(要旨)。

 昨今のスポーツ界には、いわゆるドーピング問題というのがありますが、これは結局のところ、何が問題なのでしょうか。どうして禁止されなければならないのでしょう。

 一つは、健康上有害だ、という懸念だと思います。ですが、これは有害でない薬物が発明されれば解決する問題で、いずれ可能になるでしょう。

 二つ目は、ズルい、フェアではない、ということです。しかし、これまた、フェアにすればすむ話です。つまり、薬物使用や人体改造何でもありの、たとえば、「水泳・男子100メートル・薬物使用自由形」とか、「柔道・女子・機械化率30パーセント級」など、条件をそろえた「フェア」な種目をつくればよいのです。

 そもそも、スポーツ競技は、「速い」とか「強い」とかいうことそれ自体に、意味を見出すものです。だからこそ、100メートルを9秒58で走ろうと9秒60で走ろうと、現実的にはまったくどうでもよい差異(だって、たった0.02秒!)に、決定的な価値(「金メダル」)を与えるわけです。

 もし、この「速さ」「強さ」自体に対する純粋な欲望を突き詰めようとするなら、薬物や人体改造を拒否する理由はありません(この局面において、薬物使用と人体改造には、本質的な違いがありません)。

 しかしながら、ここには動かし難い前提があります。それは「人間である」ということです。つまり、単に「速い」「強い」ではなく、「人間はどれだけ速く走ることができるのか」「人間はどれだけ強くなれるのか」ということが、「スポーツ」という営為のテーマであると、いま一度思い起こさねばなりません。

 ドーピング問題は、まさにこの「人間であること」の危機に直結します。先の例でいうなら、薬物使用の自由化は、機械化率何パーセントまでを「人間」の競技と認めるかが問われるような事態にまで、まっすぐ地続きだということです。

 ここに見られるような「人間/間」という区別の曖昧さ、すなわち「人間であること」の脆弱性は、かつても今も、我々の根源的な問いとして露出しています。

 かつての戦争では、日本の細菌戦部隊が実験材料としていた人たちを「マルタ(丸太)」と呼んでいたといいます。また、ヒトラーはユダヤ人の虐殺を「バクテリア」の駆除と考えていたようです。そう呼び、そう扱えるのは、端的に「間」と見ていたからでしょう。

 現在も、人工妊娠中絶がどの時点まで可能で、脳死の判定がどの時点で行われるかを問うことは、死なせても罪にならない範囲(=「間」の存在領域)を定めることと同じであり、それはすなわち、「人間である範囲」を恣意的に決定しようとしているのです。

 かくのごとく、「人間であること」は事実ではなくアイデアであり、アイデアである以上は、暫定的な条件における合意に依拠するしかないわけです。

 この意味で、ドーピング禁止が守ろうとしているものもまた、それ自体としては根拠を持たない、それが何なのか本当にはよくわからない、「人間」という存在の仕方なのです。 (以上)

追記:この対談は書籍として、来年出版されるそうです。