恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

師走の「偏見」

2011年12月10日 | インポート

 この種のことは、あまり当ブログに書きたくないのですが、あえてひと言。

 福島の原発事故が収束もせず、きちんと原因の検証もされないうちから、原発輸出や再稼動が話題に出ていますが、私はやめた方がよいと思います。

 その最大の理由は、原発の安全担保は不可能だと思うからです。

 いくら安全装置やシステムを「テスト」しようと、そのテスト項目や方法は人間が決めます。しかも、その「テスト」は「客観的」である必要上、数値化できるものに限られるでしょう。ということは、「テスト」を実施する当の人間の「質」は勘定に入らないわけです。

 ところが、とんでもなく危険で、恐ろしく複雑な原発プラントの、安全維持を含む管理・運営をする組織は、人間の集団です。

 この集団が十分に機能するには、安全装置やシステム自体もさることながら、不可欠の前提として、それを運用する組織内において、トップから現場までの意思疎通に障害がなく、さらに組織の内外に対して「正直」でなければならないでしょう。

 このことは、どのような組織にも必要なことでしょうが(オリンパスや大王製紙の例)、原発ほど事故が重大な事態を惹起するものの場合は、最高度に必要な条件だと思います。

 今回、原発に関わる政・官・財・学、さらにはメディアの各組織は、この条件を満たしていないことが明らかになりました。そして、将来も決して満たすことはありません。なぜなら、人間は「正直」のような倫理を持ち得ますが、組織自体が倫理を持つことはないからです。

 だとすれば、個人の役割が相対的に大きい小規模集団であれば、個人の倫理意識が比較的強く反映して、結果的にその組織が倫理的に振舞うこともありえるでしょうが、組織が大きくなれば、それに比例して、倫理的に振舞うことは著しく困難になります。原発ほどの規模になれば、もうそれは不可能でしょう。

 したがって、個々の人物はともかく、およそ組織に関しては、我々は原則「性悪説」をとるべきです。どれほど「厳しいテスト」をしても、何重の安全装置を施しても、原発の安全はけっして担保できません。

 ならば、人の口から出る「安全」など当てにせず、けっしてゼロにならない事故のリスクを評価した上で、誰に対するどの程度の被害なら許容するのかを明確にして、今後のことを進めるべきです。けだし、原発の事故は、もはやその許容限度をこえる厄災です。

 さらにまた、たとえば「事故は1000年に1回です」というような確率論的もの言いも、私に言わせれば、ただの詭弁に過ぎません。事故の実際の確率は、50パーセントです。起きるか、起きないか、それだけです。今日か、明日には起きるかもしれない。それが毎日続くのです。起きれば災難は甚大です。

 それは合理的な考えではない、という人がいるかもしれません。が、合理的な考えが正しいという保証は、まったくありません。「合理性」を保証する条件そのものが、無条件に正しいことはあり得ないからです。

 原発が増えれば、桁外れの大災害の危険は大きくなり、減れば小さくなる。そう考える方が、私はよいと思います。 

 電力が足りないと脅迫されるなら(その根拠は曖昧です)、総使用量を国内の合意をはかって制度的に低減し、足りるようにしたらよいのです(個人の心がけに期待すべきではありません)。そうしてさらに、原発につぎ込んできた税金を、一度、代替エネルギー開発と電力供給体制の再編成に集中的に注ぎ込んでみるべきでしょう。

 以上、「偏見」です。