久しぶりに、思いつき禅問答シリーズ。
禅問答の中には、たとえば「仏とは何か」「仏教の根本的な教えとは何か」「仏を超越する真理とは何か」という質問に、「それは庭先の柏の木だ」「麻が三斤(約1.8キログラム)だ」「胡麻餅だ」などと答えるものがあります。
この問答の意味としてよく出てくる解説は、仏だの教えだの真理だのと言っても、何も特別なものがあるわけではない、目の前に存在するものすべてに、それらがありのままに現れているのだ、などという安直な代物です。
例によって、私はそうは考えません。そもそも、人間は、ある対象を「ありのまま」に見ることは出来ません。常に一定の見方、認識方法で見るのであって、それ以外に見ようがなく、その見方や方法に相関する一面が見えるに過ぎません。
柏の木だ、麻だ、餅だなどと答えるのは、そのありのままが仏なのだ、などということではないのです。
それは、そこにあるそのものの存在の仕方を問えという、挑発なのです。その問いを繰り返し問う中で、その根源的な問いの方法として、仏法を自覚せよ、ということなのです。
「仏を超越する真理とは何か」と問われて、「胡麻餅だ」と答えた禅師に、こういう話があります。
禅師が弟子たちに語りかけます。
「人々は皆、ことごとく光り輝いている。ところが、それは見ようとすると見えない。真っ暗闇だ。だとすれば、人々の輝きとは、いったい何だ?」
弟子たちが黙っていると、禅師が言いました。
「台所と寺の門だよ」
ここまで読むと、これまでのステレオタイプな解釈と同じに聞こえます。人々の輝きとは、もともと人間誰もが内在させている仏としての本質、つまり仏性のことである。ただし、仏性そのものを何か特別な実体あるものとして考えてはならない。そう考える限りはわからない。つまり真っ暗だ。その輝きとは、ほかでもない、すぐそこの、台所や門のありのままの姿なのだ。万物はそれ自体、仏性の現われだ、云々・・・。
ところが、禅師は、この退屈極まりない解釈を見事に裏切ります。「台所と寺の門だよ」と言ったとたんに、こう言うのです。
「そういううまい話は無いほうがましだな」
要するに、何かわかったような答えを出した時点で、話はもう仏教ではなくなる、というわけです。自らの問いは何なのか、それをどういう方法で問うのか、そこから出てきた答えの有効範囲と賞味期限をどう設定するのか。それが「無常」の自覚の上でものを言う立場の智慧というものでしょう。