恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

妄想終末論

2011年07月01日 | インポート

 世の中に大きな災難があったり、そうでなくても、なんとなく閉塞感が高まってくると、いろいろなバージョンの人類「終末論」や「滅亡論」がどこからともなく出てくるものです。

 聖書の「黙示録」やノストラダムスの「予言」などは、この種のものの「古典」でしょうが、人の思いつきは色々です。

 私も中学生の頃、ひとつ思いついたことがあります。

 当時の理科の教師が、授業中に大昔の生き物の話をしていたついでに、こんなことを言いました。

「生物のある種が進化し、繁栄した果てに、滅亡する。その滅亡の前には、様々な奇形的形態のものが増えてくる。巻貝であるアンモナイトの巻きが崩れて妙な形態になったり、マンモスの牙が異常に巨大になったり、曲がりがおかしくなったり。恐竜だって、考えてみれば、あれほどの巨大化は、生物としておかしいよな」

 およそ、こんなことだったと思います。彼の説の当否はともかくとして、そのとき、私が瞬間的に思いついたのは、もしそうなら、ひょっとすると、人類自体がこれまで地球上に現れてきた生物における滅亡前の「奇形」なのではないか、ということでした。

 私が何を「奇形」だと感じたかというと、それは「言葉」の存在、そして「自意識」でした。そんなものをこれほどあからさまにもっている生物は、人類だけでしょう。なぜ、こんなものがあるのか、どうして必要なのか、いくら考えてもわかりませでした。

 そのうえ、当時、米ソ(旧ソビエト連邦)の持っている核兵器の総量は地球を数回破壊できるほどのものだ、などと新聞かなにかで読み、実は地球自体に意識があって、最終的に地球が「自殺」するために人類を進化させたのではないか、と思ったりしました。

 まったくばかげた妄想ですが、こういう妄想は決して消えてなくなることはありません。なぜなら、妄想はある欲望に基づいているのであり、その欲望が解消しない以上、無くなるわけがないのです。

 では、その欲望とは何か。それは他人と一緒に死ぬ欲望です。おそらく、「死を共にする」ことが、我々の最も深い苦しみ、「孤独であること」の究極的な解決になる、と錯覚するから、それを欲望するのでしょう。

「死を共にする」が錯覚であることは言うまでもなく、したがって、世に出回る「終末論」もすべて、冗談以上でも以下でもない代物、ということです。確かに人類にも地球にも終末は来るでしょう。しかし、その「論」が娯楽ではなく、大真面目で人に語られるなら、それは単に馬鹿げている以上に有害です。

 仏教がつまらぬ「終末論」を持たないことは、当たり前ながら、まことに慶賀すべきことだと思います(いわゆる「末法」思想は、人類や地球、宇宙の「滅亡」や「終末」とは何の関係もありません)。

追記:次回「仏教・私流」は、7・8月は休み、9月15日(水)午後6時半より、東京・赤坂の豊川稲荷別院にて、行います。