恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

千の手、千の眼

2011年04月10日 | インポート

 思いつき禅問答シリーズ、そろそろここでもう一回。

 仲良く修行に励む弟弟子が兄弟子にこう質問しました。

「千の手と眼を持つ慈悲深い観音様(いわゆる千手観音)は、あんなに沢山の手と眼で、どうしようというのでしょうね?」

「それはね、人が夜の真っ暗闇の中で、頭から外れてしまった枕を、寝ながら後ろ手であちこち探って捜すようなものさ」

「あ、わかった!」

「どうわかったね?」

「体中が手と眼だ、ということです」

「うん、言うべきことはちゃんと言っているが、言い切っていないな。まあ八分目というところだ」

「では、あなたはどう言うのですか?」

「頭の先から足の先まで、手と眼だ」

 この問答、私はこう思います。

「闇の中、後ろ手で枕を捜す」とは、つまり当てがない行為を意味しています。それはすなわち、観音様の慈悲とは、あらかじめ超能力(それが千の手と眼です)を備えていて、救うべき人間とその苦悩を熟知した上で、片っ端から救済していく、ということではない、と言っているのです。

 実際、救う対象を熟知している人が、それに十分な救う能力を駆使しているだけなら、要するにただの仕事で、慈悲行と言う必要はありません。

 それが慈悲行と言えるのは、人それぞれの苦しみを、ああだろうかこうだろうかと、想像力を必死で働かせ、多くの失敗を重ねながら、決してあきらめずに、苦悩する他者に関わり続けようとするからなのです。その想像力を千の眼といい、その努力を千の手というのです。

 あらゆる人の苦を一発必中で見抜き、そこにピンポイントで最善の手段を下すことを「千手千眼」というのではありません。一人の苦しみに対する千の努力のうち、九百九十九が無駄になろうと、決してあきらめない意志と行為こそ、観音の慈悲なのです。

「体中が手と眼だ」とは、観音様があらかじめそれ自体で存在して、千手千眼的超能力を持っているのではなく、人の苦に対する必死の想像力と決してあきらめない関わりの努力を、他者に向け続ける存在の仕方こそを、我々は「観音様」と呼ぶのだ、という意味です。つまり、行為が存在を規定する、というわけです。

 兄弟子が「80パーセントの出来だ」と言ったのは、弟弟子のように「体中」と言ってしまうと、行為以前に、体それ自体で存在しうる何ものかが想定される言い方に聞こえるからです。

 縁起の考え方は、そうした存在を受け容れません。だから、あえて趣旨を明確にするため、存在まるごと行為だと、兄弟子は言い直したのです。

 本当に蛇足ですが、私は自分のこの解釈が好きです。