恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

弔うということ

2011年04月30日 | インポート

 人が死んで物理的に消滅したとしても、その人をめぐる人間関係とその枠組みが一挙に消滅するわけではありません。関係と枠組みは、記憶とともに残存し、生きている者に具体的な影響を与え続けます。

 ということはつまり、遺された者は、物理的に消滅した存在を、残っている関係の中に、一定期間(関係の残存期間)、位置付け直さなければばりません。つまり、「死者」という存在として、再構成しなければならないのです。それによって、関係性をもう一度安定させる必要があるわけです。

 私は、このことが弔いという行為のもっとも重要な意味だと思います。

 単なる「死体」と「遺体」の違いは、まさにここです。死によって、すべての社会的な関係性を喪失して、一度ただの「物体」になった存在を、「誰かの遺した」体として人格を呼び戻し、社会的に位置づけ直したものが「遺体」なのです。弔いの最初の仕事は、まさに「死体」を「遺体」にすることでしょう。

 とすると、関係性の安定を「安心」と言い換えられるとすれば、我々は人の死に臨んで、十分に悲しむ必要と同時に、心から安心する必要があるでしょう。形式は様々であっても、弔いとは、この生者の喪失という悲しみから死者の受容という安心にいたるまでの、決して短くない過程なのだと思います。

 その意味で、昨今の弔われることのない「無縁死」「孤独死」の増加は、残存するような人間関係が、もはや生前に失われてしまい、人間が生きているうちから「物体」化し、そう扱われている証拠だと思います。

追記:次回の講義「仏教・私流」は、5月20日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。