このところ、青森県は連日大雪。5年前にむつ市に生活の本拠地を移して以来、12月のこの時期、これほど毎日雪が降るのは、私もはじめての経験です。というわけで、毎朝5時半起きで雪作務(ゆきざむ・禅道場では雪搔きをこう呼ぶ)です。福井もずいぶん降ったようですから、年末年始に帰ったときには、しっかり雪作務に励まないといけないかもしれません。
禅寺では、「一作務、二坐禅、三看経(いち・さむ、に・ざぜん、さん・かんきん)とも言い、道場生活を支える労働が、修行として非常に重要視されました。これは、僧侶の労働を原則として禁じるインド仏教とは大きく異なる、中国禅仏教における新機軸です。
この労働に宗教的な価値を見出すという考え方には、インド仏教に比較して、人間の存在と現実世界のあり様をずっと肯定的にとらえる、中国の思想・文化のスタイルが影響していると言ってよいでしょう。
私もまた、中国的な発想とはいささか別に、「関係から存在が生起する」という縁起の教えにおいて、その縁=関係を具体的に実現するものとして行為を考える立場から、労働の様式などに強い関心を持っています。つまり、人間と人間の、あるいは人間と物との関係の様態に、労働の様式やシステムが決定的に作用していると思うからです。
また、そういう理屈はさておき、私は修行僧時代に、作務のような単純な肉体労働の効用を実感しています。
ことわっておきますが、私は決して、作務が好きなわけではありません。また、好きでやるようなことは、修行とは言いません。修行というのは、やって当然、やらねばならないことを、やらないと不調を感じたり、罪悪感が出てくるようなレベルまで持っていくことです。
その意味では、「効用」を云々しているようでは、私の修行も今なお大甘ですが、実際、はっきり効果を断言できるのは、込み入った理屈を考え続けて行き詰まったり、難題を打開するアイデアが出ずに苦しんでいるような場合です。そういうとき、雪作務だの草取り作務などの、単純作業を続けていると、その最中に、極めて高い確率で、突如として結構な考えが浮かんでくるのです。本当に、水中深くから大きな泡が湧いて出るようです。
これは思索に没頭する人間が、往々にして散歩を好むのと同じようなものかもしれませんが、経験上、効果は確かです。これを「身心一如」などと言うと、浅はかな理屈に落ちる話になりますが、将棋の羽生名人が、理屈で使う左脳よりも、右脳の直感で勝負するというような話をきくにつけても、やはり人間の理屈の底に横たわる何ものかを想像せずにはいられないところです。