恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

整形と成仏

2009年12月01日 | インポート

 風邪をひいて、丸1日寝ていました(新型インフルエンザではありません。念のため)。ここ1ヶ月あまり、突発的な出来事があったりして、スケジュールが混乱し、5日も同じ場所にいないという、行雲流水どころか、流浪の毎日が続き、さすがに疲労したのだと思います。そこで、ウツラウツラしながら、とりとめもなく考えたこと。

 ちょうど私の「流浪」の最中、例の英国人女性殺害事件が急展開し、市橋某という人物が逮捕されました。文字通り劇的、つまりテレビ的展開となったのですが、その「テレビ的」である所以の大きな部分が、容疑者が整形手術を受けて逃げ延びていたことでしょう。そして彼の整形手術後の顔が公開されて、その変わりように視聴者が驚き、さらに手術を受けようとしたことがキッカケで捕まった顛末が、実に「テレビ的」だと思うのです。最近のメディアで、これほど整形手術が前面に出てきたケースはないでしょう。

 思うに、この事件は、我々が心の底にいまだ持っている、整形手術に関する、なんとなく後ろ暗いイメージ、なにがしかタブー的なイメージを、あらためて喚起したのではないでしょうか。最近は、整形手術もずいぶんカジュアル化して、たとえば韓国などは就職活動の一環として美容整形を受ける人も多いと聞きます。しかし、それでもなお、たとえば化粧や顔以外の他の部位の整形とは、意味あいが厳然として違うでしょう。どう違うか。

 まず、「顔」が我々に対して持つ意味です。「顔」は、我々のアイデンティティーを物質化している部分です。世間で言う「顔が見えない」という比喩は、「正体がわからない」という意味でしょう。その「正体」がアイデンティティーのことです。

 実は、このアイデンティティーが他者から課せられて始まっていることが、整形手術の「タブー」感を引き起こしているわけです。ひらたく言うと、自分が誰かを決めるのは他者なのに、整形手術は、この構造、つまり「人間」であり「自己」であることのを基礎構造を侵害する行為だからです。と言うより、「侵害」の度合いが、化粧などより段違いに高いと他者から受け取られる行為なのです。

 昔は整形手術に対する批判として、「親からもらった顔を変えるなんて」という言い方がありましたが、これは本質を突いた言い方です。つまり、この批判の核心は「親からもらった自己を変えるなんて」というところにあるのです。

 ところで、この「自己を変える」という言い方は、宗教においてもきわめて重要な意味を持ちます。「回心」「発心」などは、まさにその契機をあらわす概念でしょう。ではその「変え方」は整形と何が違うのでしょう。

 宗教においては、「自己が誰かを決めるのは他者である」構造を承認した上で、「自己が誰かを決めるのは他者と『神』『ダルマ』(などの理念)である」という具合に、拡張的に構造転換するのだろうと、私は思います。そして、ここに宗教者として生きる意味と困難があります。ときとして、宗教が社会と深刻な矛盾や摩擦を起こすのは、根底に「自己が誰であるか」を決める者同士の、おそらく解決不能の、原理的相克があるからです。当たり前と言えば当たり前ですが。

追記1:次回「仏教・私流」は、12月はお休み、来年1月25日(月)午後6時半から、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

追記2:拙著『老師と少年』が文庫化されました。茂木健一郎さんとみうらじゅんさん、それと土屋アンナさんの解説があります。人選は編集部。また、NHK出版から出た『ガンジーからの〈問い〉』という本がありますが、そこに著者の中島岳志さんとの対談が収録されています。ガンジーについてはまったく門外漢の私がなぜ対談相手に選ばれたのか、よくわかりませんが、かろうじて切り抜けました。中島さんはとてもさわやかで優秀な、少壮気鋭の学者さんでした。