父の逝去に御丁寧なお悔やみをいただき、ありがとうございました。
ともかく他人のお葬式に出かけていくことがあっても、お坊さんを頼んで葬式をしてもらうことは今度が初めてでしたので、いろいろと感じることもありました。
中で一つ驚いたのは、気丈で割り切りが早く、息子と違って宗教などにこだわりも関心も薄いと思っていた母が、葬式の仕方を強く主張したことです。「寂しいのはイヤだから、盛大にやる」。
これは見栄とは違うでしょう。いわば、趣味です。父自身がそういう葬式を望んでいたわけでもありません(嫌がっていたとも思いませんが)。
その結果、住職の父親ということもあり、多くの方々の御協力もあって、一般人にしてはかなり大掛かりな葬儀になってしまいました。いささかやりすぎだったかなと、思わないでもありませんでしたが、4年半にわたり片時も離れず看病し続けた母が、「ああ、いいお葬式でよかった」と最後にしみじみ言ったとき、まあ、これでよしとしようと思いました。
自分の葬式に細々と希望を遺して死ぬ人もいますが、それで遺族が後のことをしやすくなるなら結構でしょうが、私は所詮余計なことだと思います。死んでいく人間は後のことは一切任せて、あっさり去っていくべきです。
弔いとは、死者ではなく、遺族のものです。遺族ができることを、したいようにすればよいのです。それ以外の人は口を出さないほうがよい、私はそう思います。
ついては助言を一つ。私たちは、自分が意思決定できなくなったり、死んだ後の事について、決定を任せるに足る人間を一人(複数に任せるのはモメる元です)、普段から準備しておき、それを少なくとも家族には周知徹底させておくべきでしょう。
今回私たちの家族は、末期の看病や葬式に関して、すべて母の判断に従いました。それは父が母を深く信頼していることを、よく知っていたからです。
これは、任される側も覚悟のいることですから、普段の人間関係を深めておくという「準備」が最も大切です。しかし、この準備は、人が安らかに死に、また彼を安らかに死なせるために、是非必要だろうと思いました。