恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

忘れてよいこと

2006年09月21日 | インポート

 恐山にいるときは、朝、坐禅をしています。場所は地蔵殿。なんとなくそこが落ち着くので。大体5時ごろから1時間ほどです。6時になると開門するので、参拝の方が入ってくる前にやめます。

 ただ、時々、早起きした宿泊の方が散策や外湯の入浴のついでに地蔵殿までお参りにくることがあり、坐禅している私の後姿に出くわすことになります。先日もそういう中年の男性がいて、帰りがけにわざわざ受付に寄られ、「いやあ、和尚さんの坐禅の姿は美しいですね。見事でした」とほめられました。

 それなりの年月坐禅をしていれば、誰でも形にはなっていくものなのですが、やはりほめられれば嬉しいものです。が、そのとき、私は反射的にある禅僧の逸話を思い出しました。

 昔、中国で、ある禅僧が昼夜をわかたず、熱心に坐禅の修行に明け暮れていました。それを空から見ていた天人は、その修行ぶりに感心して天から舞い降り、すばらしい食べ物や飲み物を供養しました。その様子をたまたま見ていた人がいて、天人が供え終わって再び天に舞い上がると、おそるおそる近づいてきて、坐禅を続けていた修行僧に声をかけました。「お坊さま。あなたの坐禅はすばらしいですね。天人が供養に降りてきましたよ」。すると、修行僧は答えました。「なんだ、天人に見つけられてしまうなら、自分の坐禅はまだまだだな」

 私にも経験がありますが、本当に円熟した坐禅は美しくなど見えません。それどころか、人間が坐っているという気配が消えて、置物がそこにある、とでもいうような感じになります。いかにも坐禅しています、というところがないのです。

 まあ、何をするにしても、人からほめられているうちは、まだまだダメなのかもしれません。「陰徳」という言葉があり、隠れて人知れずよいことをするという意味ですが、これも何だか、わざわざ隠れるところに嫌味な気配があります。

 あるとき、仕えていた老僧が私に言いました。「お前、ほめられたことは紙くずを捨てるように忘れてしまえ。恥をかいたことは、宝を護るように大切にしろ」。そうできるといいなと思います。