恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

お金が降ってきた!

2006年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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 下北半島がようやく春らしくなってくるこの時期、恐山には周辺各地の町や村から「地蔵講」の人たち(ほとんどが中高年の女性)がお参りに来ます。

「講」とは、信心を同じくする人たちが集まって寺に詣で、先祖供養をしたり、住職の法話を聞いたり、皆で食事を共にして一日を過ごすという仏教行事で、こうしたものは今でも全国でかなり行われています。ちなみに、私の住職している福井県の寺にも同じようなことをする講があります。

 古くは、修行僧がお経などの講義を受けたり、教義の議論を行う「講会(こうえ)」だったのでしょうが、仏教が庶民信仰として浸透していく過程で、現在のような形の「講」になったのでしょう。

 恐山の講は、地蔵菩薩信仰に基づき、彼女たちは数人から三十人程度のグループをつくり、午前9時ごろ上山してお供え物を準備し、地蔵殿で祈祷や供養のお参りをし、持ってきたお弁当でお昼を食べ、午後は温泉につかり、仲間とゆっくり四方山ばなしをして、3時ごろ帰っていきます。

 去年はじめて法要の導師をしたときには、びっくり仰天してしまいました。法要の最中に後ろからお賽銭が飛んでくるのです(携帯電話で撮った写真が不鮮明ですみません)。最初はパラパラッと、そのうちババババッ、ババババッ、中にはドスンというのもあります。ビニール袋に入れた、ソフトボールくらいの小銭の塊が落ちてくるのです(畳の上で光って見えるいくつかの丸いものがそれです)。ときには、後ろの方に坐っている人が野球の投手なみに振りかぶって投げてくるので、それが耳元をかすめると、ビュッと風を切る音がするほどの勢いです。当たると痛い。怖いです。

 私の後ろで読経する僧侶は心得たもので、丸柱に身を隠し、微妙に体を動かして上手にかわしているのですが、ど真ん中にすわっている新米院代の私は全員の標的で、導師たるもの身動きもできず、地蔵菩薩に自分の頭の無事を祈るばかりでした。

 なんだか大衆演劇一座の役者になったような気分でしたが、これもこの地方に長く生きてきた信仰の形なのです。

 おそらく彼女たちは、「投げたい」とか「投げなければならない」と思って投げているのではないでしょう。そうではなくて、「投げることになっている」から投げるのです。それが習慣というものです。「したい」「しなければならない」は、所詮、人の感情や意思によります。それは変わりやすく、習慣のように長く続くことは困難でしょう。

 私が禅道場で修行していた頃、ある老僧がこう言っていました。

「好きでやっている坐禅は凡夫だな。しなければならなくてやっている坐禅も素人だ。するのが当たり前になった坐禅が本物だ」

「するのが当たり前になった坐禅」、これこそが生き方にまで練り上げられた坐禅であり、そうなっていくことを修行というのでしょう。

 習慣を持っている人は強い。その人は生き方の形を持っています。どうしてそれが必要なのか。それは、我々がそもそも、「自分でありたくて」自分なのではなく、「自分でなければならなくて」自分なのでもなく、「自分であることになっている」時、はじめて自分を受け容れていられるからだろうと、私は思います。