恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

衣を着たお地蔵さま

2006年05月25日 | インポート

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 今回は、恐山のご本尊、地蔵菩薩を紹介します。インド仏教においては、「地蔵」の「地」は文字通り大地を、「蔵」は「母胎」を意味していました。「菩薩」とは、最初は仏になることを目指して修行する者くらいの意味でしたが、大乗仏教になると、成仏できるのにあえてそうせず、この世にとどまって迷える人々を救済する者、という解釈になり、如来と同じように超越的存在と考えられるようになりました。

 地蔵菩薩は、観世音菩薩と並んで、最も人々に親しまれ、信仰された仏さまでしょう。

「お地蔵さま」と呼ばれ、様々な形や名称の彫刻・絵画が今もさかんに作られています。

歴史的には、特に中国で地蔵菩薩を主題とする多くの経典が作られ、地蔵信仰が広まる大きなきっかけになりました。教義上は、釈迦牟尼仏が入滅してのち、次にこの世に現れるはずの弥勒如来(これも有名な弥勒菩薩は、いま現在、天上世界で成仏前の待機中なのです)が、実際に現われて人々を救済するまでの間、地蔵菩薩が地獄の底から天上世界まで巡り歩いて、あらゆる人々の苦悩を救う、ということになっています。

 この「あらゆる人々の苦悩を救う」というところが、人々の気持ちに訴えたのでしょう、特に子供をあわれみ救済する菩薩として深く信仰されるようになりました。

 地蔵菩薩の像は、一般に子供を思わせる可愛らしいものが多いですが、恐山の地蔵菩薩像は、2メートル近い木造彫刻で、顔もけっして優しいとは言えません。そして左右には、左に仏心を育てる掌善童子(しょうぜんどうじ)、右に煩悩を滅ぼす掌悪童子(しょうあくどうじ)が付き従っています。

言い伝えでは、この仏像は、恐山を開かれた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)様が刻まれたとされ、本当だとすれば、千年以上経っていることになります。以前、修理したおりに木材を鑑定してもらったところ、そのくらい前の木だと言ってもおかしくはないとのことだったそうです。

この像の他にほとんど類を見ない特色は、僧衣を着ているところです。写真の赤い衣は、現在曹洞宗の住職が着ている衣と同じものです。私はこういう姿をしている仏像を他で見たことがありません。また、いつごろからこういう姿になったかもわかりません。

ただ、恐山には、すでに江戸時代ごろから地蔵菩薩をめぐる伝説がありました。このお地蔵様は、昼間はお堂に立って人々の参拝を受けるけれど、夜になるとお堂から出て、恐山の地獄に見立てられる岩場を巡って、苦しむ魂を救って歩くというのです。その証拠に、菩薩像の着ている衣の袖がぼろぼろに裂けているではないか。あれは亡者がその袖に取りすがって救われることを願うからなのだ・・・・

おそらくこの言い伝えは、当時単なる伝承ではなく、実際の衣の袖を前に、その通りの現実として僧侶から説かれ、この菩薩像が本当に歩くと、人々には思われたのでしょう。これは、今の時代からすれば、馬鹿々々しい話かもしれません。また、当時でも、そう思う人が多かったでしょう。しかし、ある人にとっては、まぎれもなく「現実」だったのです。皆が承認する「客観的現実」ではないにしろ、その人にとっては、本当にお地蔵様は歩いていたのでしょう。

 人間の意識から独立した、それ自体で存在する「客観的現実」はありえません。あるのは、何を「客観的現実」と決めるかというルールです。昔、「神がかり」と言われた人は、今「精神病者」と言われるかも知れません。このルールの変更は社会の意思として起こるのであって、自然の成り行きではありません。

 かつてこの裂けた衣の袖を見て、お地蔵様の前に深く額づいた人々にも、今の我々とルールの違う、彼らの「現実」があったのです。その「現実」は、今の我々のそれよりも、おそらく切なく、そしてもう少し安らかだったでしょう。それがよいのか悪いのか、もはや誰にもわからないことです。