仏教徒というからには、少なくとも、ゴータマ・ブッダが「悟っ」て「涅槃」に入ったという話を、それが現実に起ったことだと認めなければなりません。これが最低条件です。
ここで最も困るのは、何が「悟り」で何が「涅槃」なのか、あるいは「悟った」まさにそのとき何が起きたのか、「涅槃」とはいったいどういう状態なのか(そもそもそれは「経験」の対象と言えるのか)、皆目わからないことです。どの経典にも、ブッダ自身がこれらを直接テーマとして解説した部分は見当たりません。
しかし、そうは言っても、何しろ仏教の核心ですから、とりわけ後に仏教の「プロ」化した弟子たち(民衆からお布施もらって生活している者たち)にとっては、ただ「わかりません」では済みません。
すると、ブッダが残したとされる言説(様々な経典)から、「悟り」「涅槃」を自分たちなりに推定して語ることになります。これらの推定はしばしば「ブッダの真意だ」と勝手に強弁されますが、要するにすべて推定ですから、その是非を「客観的に」決定する基準はどこにもありません。
しかし、一度それなりの「悟り」「涅槃」が言説として設定されると、今度はそこに到達する方法が考案されます。目的が「わからない」のに手段だけが正当化されることはあり得ませんから、方法も結局、とりあえず設定された「悟り」「涅槃」に適合するように制作された、とりあえずのものにすぎません。
かくして、目的たる「悟り」「涅槃」が設定され、そこに至る方法の用意もでき、ある程度の規模の支持者も集まって来るとなると、次には、人々はそれぞれの考えや体験を出来合いの目的と方法に当て嵌めて考えるようになります。この態度が昂進すれば、当て嵌まらない考えや経験を無視することになるでしょう。
となれば、「悟りたい」人や「涅槃に入りたい」人は、「プロ」が提示する目的と手段に合致するように、無理にでも自分の考えと経験を操作するようになるはずです(いわゆる「修行」)。
このような経過は、何も仏教の場合に限らず、およそ「真理」なるものを目指すあらゆる営為に共通でしょう(「真理」それ自体も人間には認識できないから、事情は仏教と同じ)。
だったら、「真理」だの「悟り」だの「涅槃」だのを大っぴらに掲げて世間に打って出るような者は、まず自分の言葉で明確に「真理」「悟り」「涅槃」を定義して、あくまでそれが「自分なりの解釈による」ものだと宣言した上で、それらに到達するために有効だと自分が考える方法を提示するべきです。あとは、話を聞いた人々がどの程度納得し支持するかだけの問題になります。
すなわち、語る者はすべて手の内を明らかにして語るべきなのであって、思わせぶりな「言葉で言い表せない真理」などという無用の長物は、一切持ち出すべきではありません。
ここで最も困るのは、何が「悟り」で何が「涅槃」なのか、あるいは「悟った」まさにそのとき何が起きたのか、「涅槃」とはいったいどういう状態なのか(そもそもそれは「経験」の対象と言えるのか)、皆目わからないことです。どの経典にも、ブッダ自身がこれらを直接テーマとして解説した部分は見当たりません。
しかし、そうは言っても、何しろ仏教の核心ですから、とりわけ後に仏教の「プロ」化した弟子たち(民衆からお布施もらって生活している者たち)にとっては、ただ「わかりません」では済みません。
すると、ブッダが残したとされる言説(様々な経典)から、「悟り」「涅槃」を自分たちなりに推定して語ることになります。これらの推定はしばしば「ブッダの真意だ」と勝手に強弁されますが、要するにすべて推定ですから、その是非を「客観的に」決定する基準はどこにもありません。
しかし、一度それなりの「悟り」「涅槃」が言説として設定されると、今度はそこに到達する方法が考案されます。目的が「わからない」のに手段だけが正当化されることはあり得ませんから、方法も結局、とりあえず設定された「悟り」「涅槃」に適合するように制作された、とりあえずのものにすぎません。
かくして、目的たる「悟り」「涅槃」が設定され、そこに至る方法の用意もでき、ある程度の規模の支持者も集まって来るとなると、次には、人々はそれぞれの考えや体験を出来合いの目的と方法に当て嵌めて考えるようになります。この態度が昂進すれば、当て嵌まらない考えや経験を無視することになるでしょう。
となれば、「悟りたい」人や「涅槃に入りたい」人は、「プロ」が提示する目的と手段に合致するように、無理にでも自分の考えと経験を操作するようになるはずです(いわゆる「修行」)。
このような経過は、何も仏教の場合に限らず、およそ「真理」なるものを目指すあらゆる営為に共通でしょう(「真理」それ自体も人間には認識できないから、事情は仏教と同じ)。
だったら、「真理」だの「悟り」だの「涅槃」だのを大っぴらに掲げて世間に打って出るような者は、まず自分の言葉で明確に「真理」「悟り」「涅槃」を定義して、あくまでそれが「自分なりの解釈による」ものだと宣言した上で、それらに到達するために有効だと自分が考える方法を提示するべきです。あとは、話を聞いた人々がどの程度納得し支持するかだけの問題になります。
すなわち、語る者はすべて手の内を明らかにして語るべきなのであって、思わせぶりな「言葉で言い表せない真理」などという無用の長物は、一切持ち出すべきではありません。
わからないことを、どう定義するのか?とも思うのですが。。。
自分の解釈としても、断定的には決して語れないはずです。
手段も、本来わからないことなのに、声高に語られている、ということなんですね。
なにが有効なのか?もわからないまま、自分で見つけていくしかないのでしょうね。
①.「神」になったと理解するのか、
②.あくまで「人間」としての範囲内で起きた「悟り」なのか、敢えて言えば脳内の思考の変化(醸成)だったと理解するのか、
という事から自分の態度を決めなければならないと感じます。
①ならば梵我一如系思考、
②ならば自力行系思考、
それぞれ言い分はある訳ですが、
私的には釈迦は②の世界で生きたのだと考えています。
ちなみに①で「仏」という言葉をつかうと「仏」は神であるのか人であるのか定義が混乱するのではないかと思ったからです。
だって言葉ってそういうものでしょ。
でも、私も昨日そういう(だったら…、すなわち…、の前まで)ぐるぐる巡りを感じていたわ。
(きっぱり)
釈迦が真理を会得した(=悟った=ハタ!!と膝を打った)と思って、結局それを世に伝授しようと決心した時点(初転法輪)で、
釈迦は他者に言葉で伝える(自分の発見した真理は~~だ=これが悟りの内容だと明らかにする)義務を背負ってしまった。
しかし釈迦がそれを明確に表現していない???という事は、
つまるところ明確化された「三相」観、「(12支)縁起」法則と「四諦」が悟りの内容で、真にそれを理解した人が涅槃に這入った人と見なされる、と言ったという解釈しか引き出せない。
で釈迦の意味する三相はアートマンを否定して当時のインドの宗教常識を打ち破る事だったから、
現代的アナ~トマン(anaーatoman)世界観から言えば、三相・縁起・四諦はコモンセンスとして容易に理解できるから、じゃあ俺たちは既に悟って涅槃した人間か???ってなってしまう、
何か時代のズレが生じている(と思う)
コアな道元マニアの「悟ってるって言ってる奴は、悟ってないよね~。」っていう雰囲気、大好きです!
だからアドラー曰くの「勇気を持てるのは自分が他の人(社会、あるいは何かの対象物、例えば草花・動物の世話でも、家手入れでも)の役にたっているという共感(実感)を感じる時だけだ」という話につながり、
自分が生かされている事に対する(日々の生活の中で)感謝の気持ちがあるかどうかが、自分の人生を意味あるものとするかどうかを決定するという因果関係があるとかだよね。
「人は自分の為に幸福を求めても幸福にはなりません」とかの法則があるようだからね。自分の為の幸福はすぐ満足度が失せて無感覚になって空しくなるからね、これは釈迦も若い時実体験したよね。
だから左様に意識を変える事は頭の水平飛行の問題なのかもね。自分の考え方次第なんだろうね。幸福は人が与えて呉れるものではない、という事なんだろうね。
釈迦も左様に頭の水平飛行を成し遂げたんだろうね・・・。
其の為にアメリカではマインドフルネスが急激に注目されて来ており、毎日10分をベースに8週間続けると、ストレス信号を発信する扁桃体が小さくなって、心の問題、体の問題が40%軽減したと報告されているようですね。
マインドフルネスはようするに只管打座
の事な訳です。只管打座は幸福感を妨げるストレス撲滅に役立つと脳科学でも証明された訳です。
(注)この番組では他にもストレスのコーピングテクニックも紹介していましたね。これはストレスを感じた時、どういう所作・気晴らしとなる空想等をすればストレスが軽減するか数限りなく列挙しておいて、効果を認知しておくと、前頭葉に記憶されて、ストレスが起きた時に扁桃体の過剰反応(アクセル動作)を前頭葉が抑え込んでくれる(=ブレーキ作用)というものです。ストレスに強い人間に自分を変えられるとかですね。打たれ強い自分に成れるそうです。
いままで此のサイトは「言葉では(真の)真理は表せない」とかの支持派だと思っていたので今回の南さんの言葉は意外でした。
なぜなら、言葉は無明で不具で真理を語り得ないというポーズをこのサイトのコメでズッと見て来たからです(例、「禅」は言葉では表せない、体験しなければ分からない。「無我」は体験しなければ分からない、言葉では語れない。「諸行無常」は体得しなければ分からない、言葉では語れない等々)
そこであらためて『真理』をウィキペディアで引いてみたら「言語による表現である事が真理には不可欠である」とありました。
南師匠のいう通りでした。目からウロコでした。すっきりしました。
>「真理」それ自体も、人間には認識できないから
>思わせぶりな、「言葉で言い表せない真理」などという無用の長物は、一切持ち出すべきではない。
要は、何とでも言えるから、公言する場合は、「前提」を踏まえて語るように、という忠告ですよね。
目的が不明なので、賭けて工夫する、という表現をされていたのでしょうね。
ナァ~ム・・・
友人が自ら命をたちました。
悲しみとともに怒りがわいてきました。
友にも自分にも。
そうだというなら「どういう真理」が必要なのか?
好きなの持ってけばいいよ。
日々の暮らしとなれば、右足から出るか左足から出るかみたいなことだったりするからなあ
意見が一致するかっていうと、そうとも限らない。
幸せになり方は色々あるってことだろうな。
だから好きなの持ってけばいいんだよ、たぶん。
一方マインドフルネスは宗教色を一切排除して、脳活動の運用法として仏教的手法を導入した物。
確かに似て非なる物ともいえますね。
しかしどちらもその所作によって心の平安・安寧を求める為に開発されたという点は同じ事なわけですよね。釈迦は仏教として儀式化する為に瞑想したわけではないでしょう。むしろマインドフルネス的な思考から瞑想したのだとさえ言えそうです。
そして西洋人は自分の心をコントロールする為に仏教的手法を利用しているだけであって、坐禅・瞑想をしたから仏教徒になったと日本人が感激するのはちと早とちりのようですね。
「言葉で表せない真理」なるものが存在するかどうかは興味ある命題ですね。
「壮大さ、悲惨さ、美しさ・・・」等は
感情とか感じ方、感性にからんでいて、それを直接・的確に描写するに適切な言葉が無い。だから一般概念の比喩で例えるしかない。
じゃあ「真理」はどうか??
明らかに「真理」は感情ではないと言える。感情は一瞬一瞬の出来事だけど「真理」は(永遠)普遍性をもった何かであるからだ。
とすれば言葉で言い表せない「真理」などは存在しない。真理とは理法であるからして、言語で言い表せる事が「真理」には不可欠であるのだ・・・、
となって来るのではないでしょうか。
人に(又、自分にも)勇気の出る言葉を投げかける・そういう言葉を駆使する事が必須となる訳です、たとえ少々青くさくても・・・。
この世の生きずらさ、「苦」のネタ話を延々と言葉に表しても其処から忽然と「勇気」が湧き出て来る事はありません。必ず勇気の出る言葉、人生を肯定する言葉(と思考)が裏打ちされないと、この世は負のオーラのみに汚染されて破滅していく訳です。
そういう意味でいっても、言葉で言い表わせない「真理」などは無用の長物になるのでしょう。言葉で言い表せない真理は人(特に他者)を救う事が出来ないから、つまり、人を勇気付ける事が出来ないから無意味なんだ、と言う事でしょうか
人間は永遠普遍じゃないでしょう?
言葉もうまくいって「とりあえず合意が形成されている」みたいなもんでしょう?
「真理」って「混沌」みたいなもんじゃないの?
「混沌」があるかっていうと、そういうことじゃないでしょう。
南さんに100点つけてもらっても、あなたの日常はあなたが生きるはめになるんだよね。
数限りなく存在出きる。
たとえば、「人生は捨てたもんではないよ」、「苦もあるけど楽もあるよ」、「生きてさえいれば、生きていてよかったと思える瞬間もあるよ」、「君が考え方・見方を少しだけ変えられれば、意味ある人生を送れるよ」、
まだまだ幾らでも(創作できます・・)
すべて自分の意識改革の問題ですね。
結局この世はサンスカーラで構成されているのですから、真理云々と言っても
本質的には意味は無いのでしょうか。
どの真理(らしきものに)自分が共感を感じて生きるいしずえにするか、というに過ぎないとも言えるのかなと思います。お札を毎朝夕拝むのもその人にとっては真理であり効果も見込める訳だし・・・。
上記で述べたことはすべて主観の世界の事であって、
これは物理学上の定説、数学上の定理を真理とよぶ客観領域の話ではなく、
哲学上の「真理とは」という議論です。
人の生命は目的が在って生れて来たかどうか??
①.「神」的な超越者が意図的に或る人に命を与えたのなら「目的」があって、それが「真理」だ。
②.アートマン・ブラフマンが存在しないのなら、人生には目的が無い
③.いや親が家族を作りたいと言って
子供を作ったのが「人生の目的なのだ・・・」
④、自分の自由意志で生き甲斐創出するのが人生の「目的」なのだ・・・
言葉は「目的」の周りでいかようにも
言いこなせます。あなたの好きなものを
選んでください・・・、に尽きます。
それにしても「賭けて見る」という言い回しは、賭けてみれば、良い事(=生きていて良かったと思う事)があるかも知れないという希望とか前提があって初めて成り立つ言葉。。
この世は希望がないというのが絶対的真理の決定事項であれば、やっぱり生きている価値はない。さっさと死ぬのが正解となる。
こういう事じゃなかろかの~皆の衆!!
言葉で表せる真理とは物事の道理を述べたもの。
言葉で表せない真理とは、自性した実体があるなにかたるもの。「自性」なるものを認めない派の仏教者には無用の長物
どや~~!!
身近にいる老師は「人は一人一人異なっているから、プログラム化は難しいなあ」って言ってたけど。真理も人によって異なる訳だし。ね、南さん!
只管打座は言葉では表せない真理(神秘体験)なのですよね!!
ちなみにマインドフルネスは「呼吸に注意を向けながら無念無想で坐る事により、脳活動のDefault mode networkを活性化して、扁桃体にブレーキをかけて、ストレス リダクションを図るテクニック。それによって落ち着き・安心感・平安感がえられる」とか定義できますね。
その前に、「生」も不明。
真理など言い現せるはずがない。
その外にとっては「ということになっている」として敬意を払うしかできなくない?
ただただお念仏をって言ってるところと只管打坐と千日回峰行と例のスリランカ人のやつとかじゃ、引き継ぐものが違ってそう。
「生」も明白に定義出来るけど、「どのように生が最初にこの世に生じたのか」は誰もわからない。
「真理」という言葉の意味は定義出来るけど、自分の無明さを取り繕うために「俺だけは言葉では言い表せない真理をを歩いているんだ」と用法を変える。
「自分だけが、言葉では言い表せない奥義の実践者だ」と思って、「他者」との差別化を図るのが「言葉では言い表せない真理」のメカニズム。いわば特権意識の一形態。神秘化すれば自分が偉く見えるからね。
だから、
引き継ぐものも違うよね。
そこの中で、真理がどうのとなるから、ややこしくなるんだろうね。
「神格化」されてるって事でしょうね。
なんかキリスト教では「神は真理なり」、とか言うんじゃなかったっけ。
これが最低条件、っておっしゃられても・・・
「涅槃」に入ったってことは誰にもわからないことですよね。
それこそ「涅槃」に入られたことを否定も肯定もせずに「無記」とか「真理」と言うべきたと思うのですが・・・
感覚(体験・情動)は右脳の世界観で主観的なものだから、それを左脳の論理・言語世界では一般化して比喩的・客観的に語るしかない。言葉を発しても相手の感性がどう受け止めるかは相手しだい。
これは明白な真理だね。
だからと言って「真理は語れない、スカイダイビングは語れない・・・」、というのは何かこじつけの気がするんだね。
スカイダイビングって言葉では語れない事なのかな??「人が重力Gで高い空中から自由落下していく際、空気抵抗を受けているので気流を作って遊泳する動作、どんな感情に襲われるかは疑似体験としては12階のビルより飛び降りて見る事をお勧めする・・」とか「どんな感じかといえば、トランポリンでハイジャンプしている時の感覚??」とかの言語化出来るんじゃあない??
南さん曰くの『思わせぶりな~~』曖昧さで説明する事から逃げてるだけって気もするんだよね。
すみません。
ちょっとウケました。
苺を食べたことのない人に、どうやって苺の味を伝えるか?
みたいな事にならないかな。
人は胎児のときから森羅万象を学び始めて行きますよね。当然イチゴを食べれば自分が食べた範囲内でイチゴ味が学習される。そこに言葉(説明)は本質的には不要である。イチゴという単語さえあれば良い。
じゃあ「真理」はどうか。「真理」という実体が存在するのか(自性なのか)?
実体がないなら「概念」として言葉でキッチリ定義するしかない。
たんなる概念を何か自性している尊い物みたいに一人歩きさせて、しかも個人的利益の為に歪めて言葉を使うのが問題だ、という事なのではないでしょうか。
ああ、「二重敬語」ですか。すみません
「涅槃」=自己中心的な欲望である煩悩や執着をなくして、(心の永遠的な)平和感、至高の喜び感、安楽感の中に存在するという世界観を指す。煩悩の消滅を意味する。
その時「涅槃」した人の感性がどうなっているかの理解は、この言葉を聞いた一人一人の共感度によって異なってくる極めて主観的な体験。
わからないことを、条件化されてる。ってとこね。
「仏教の核心」とおっしゃられても…
>どの経典にも、ブッダ自身がこれらを直接テーマとして解説した部分は見当たりません。
なのだから。
何故なら、左脳の論理・言語域で「或る概念」を作りだすからだ(右脳の感性が感じた事を左脳が言語化して概念を作り出す)。
これを「只管打座」に当てはめて見ると・・・、
「何も考える事無く、ただ坐っている」という実体(=人間)があって、何やら脳内で実体のない概念を感じている。
とすればどんな概念かは言語化出来るはずだ、となる。
これは「真理」とても同じことだ。
真理と言う「概念」は言語化して初めて「存在出来る概念」となる。
他方イチゴ(実体)は言語化しなくてもその本質は実存している。
でも真理は言語化しなければ存在出来ない・・・実体ではないのだから。
「只管打座」は人間たるべき坐禅者に「仏性」という実体が乗り移ってくる宗教体験なので、それが信仰を構成している宗教要素だ・・・位に言い切らないと
マインドフルネスとの違いを言い表わせないですね。
で次の質疑は「仏性」は実体なのか概念なのかという論議が待っているわけです。
二重敬語じゃないかも
そんなこと言われても~(受動態)
の敬語表現
涅槃がわからないもんね。
ただ、たぶん、道元てひとは、その「涅槃」なるわからないものについての言語化をしていて、それが南さんの気に入っているとか、そういうことかもね。
「言葉では表せない真理」のほうが、ウケが良かったりするんじゃないの。
「道元が誰に向かって説いたものか、ってこともある」とかいうのが、あるらしい?
こいつにはここまでは通じるけどこっから先は無理、とかあるってことかね?
そして、道元も死んでしまっているので、南さんが受け取っている道元が、道元にとってどういうものかは、直接確認できない。
何故生きるのかの目的を
「神を知るため」 『ジュネーヴ教会信仰問答』
と教えた。
自分が救われる為に信仰をもつのではない。
自分の救いのためを捨てて、
ただ、神を知るためだけに生きる!
道元和尚は教える・・・
『夫れ仏法修行は尚
自身のためにせず、
況や名聞利養のためにこれを修せんや。
ただ、仏法のためにこれを修すべきなり
…行者、
自身のために仏法を修すと念ふべからず、
名利のために仏法を修すべからず、
果報を得んがために仏法を修すべからず、
霊験を得んがために仏法を修すべからず、
ただ仏法のために仏法を修す、乃ちこれ道なり。(学道用心集) 』
『示に云く、学道の人は
吾我のために仏法を学する事なかれ。
ただ仏法のために仏法を学すべきなり。
その故実は、我が身心を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。その後は一切の是非を管ずる事無く、我が心を存ずる事なく、成し難き事なりとも仏法につかはれて強ひて是れをなし、我が心になしたき事なりとも、仏法の道理になすべからざる事ならば放下すべきなり。
あなかしこ、仏道修行の功をもて代りに善果を得んと思ふ事なかれ。
ただ一たび仏道に廻向しつる上は、二たび自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存ずることなかれ。
先証皆是のごとし。
心にねがひてもとむる事無ければ即ち大安楽なり。(正法眼蔵随聞記 巻6-2)』
生活の全てを仏道修行に捧げる人。
でも。世俗?娑婆?も、捨てたもんじゃないな、とここ数日思ってるわ。
神様も仏様もあっさり丸呑みして、悲喜こもごもでしゃんと生きてる人って、いいよなあ。
即ち
自分が曹洞宗の深い信者だと認じると、
龍樹と道元和尚のみが真理であり、中論と正法眼蔵を読むことのみが真理への道である。それ以外のモノ(考えと経験)はすべて偽である。
よってそれを読まない者はすべて愚者であり真理を知らない者であり下劣な人たちなのだ。
・・・と、思わなければ曹洞宗信者たるべきメンツがたたない。
其の位に思っていないと曹洞宗は守れない???
あーあ、選挙どーすっぺ。
って・・・
う~ん、こちら凡夫なりに考えてみます。
頭を空っぽにして只管打座すれば、
言葉では言い表せない「真理」が出て来る、
ポッポちゃん!!
言葉で言い表せない真理なんて無いんだってば。
真理なんて嘘で方便って事じゃないか。
只管打座すれば真理が出て来るって誰が保証してんのかって問題だぜ!!
「プロが提示する目的と手段~」って、
文脈からすると釈迦はそのプロ集団の中には這入っていない(=すべて後世の仏教者の単なる推定)って事だよね。
つまり釈迦自身は自分が悟って涅槃に這入ったという言葉は言ってなかった。この言葉は後世の弟子たちが強弁して作り上げたのだって事になるよね。
なんか思考がグルグル回りしてる感じみたいだな~。
まあ、釈迦が自分は悟って涅槃に這入ったと明言してたのなら、それはどういう意味かを問う弟子が必ずいて、釈迦はそれについて明白に答えていた筈だ、と考えるのは正当な論理的整合性があるけどね。
「ただ仏法を知るため」(に生きる)。
=「これが生きる意味であり目的である!!」
じゃあ何で(南さんは)「人生には(生きる)目的などない」と言うんだろうか??
「何故生きるか??」
「神を知る為」とか「仏法を知る為」とか言う答えって、
それなりにうさん臭さが付いてまわる、って事なんじゃないかなとも思える???
「キリスト教徒としての立場から言うと『生きる目的は神を知る為』・・・」、
「大乗仏教徒の立場としては『生きる目的は仏法を知る為』・・・」、
といえば「あとは、話を聞いた人々がどの程度納得し支持するかだけの問題」だ。
と、なり、言い争いに発展する事はない。(南さんが正解!!)。
自分の言説を絶対的真理みたいな言い方をすべきでない、と南さんは言いたいんだと思うよね。
南さんには、オウムのような団体への批判や、再発防止への思いも込められてると思う。
総理が、「野党はアベノミクスの批判ばかりする」という演説がありましたが、するようなことしてるのは誰?という感じですね。
舛添さんのことにしても、五輪資金の批判する人が減ったとすれば、好都合だったようにも思いますね。
色々騒がれていますが、不信任案出さず、選挙前に解散させないように仕組まれ、無理やり解決させただけでしょ?
経済経済と煽って、税金を搾取しようとする前に、政治家や公務員の無駄遣いを見直してからでないと、民間人には何を言っても届かないでしょうね。
私的流用しているのは、舛添さんだけではないはずです。
みんながみんな考えることが大好きで得意ってわけじゃないし。
ニーズにお応えするのもプロの役割といえばいえるだろう。
やっぱり「通れば真理」でしょう。と思うわ。
子供じゃあるまいし!
「どういう真理が本当の真理だろう?」とかいうところの人にとっては
「子供じゃあるまいし」なんて藪から棒に罵声が飛んできたようなものかもしれないじゃない?
そういうのがやがて「啓蒙」とか「教育」とか言い出すんじゃないか(やれやれ)とか。
「真理なんてない」という真理、とか。
仏教人のプロとアマの境界線は、お布施をもらうかどうかぐらいでならそれなりに明確だろうけど
どこまで何を考えているかみたいなことを基準にしたら、曖昧じゃない?
アマというか、説教を聞く方だって、何を望むかは現実いろいろでしょう?
曹洞宗の中でもいろいろだと思うよ。
というわけで(え?)、ぐるぐる巡るなあ、と思うの。
違法性を第三者に検証してもらう、とか言ってた頃は「残れる」ものとして考えてたよね。
民間といっても、大企業はアベノミクスでいいんでしょ。
税金払うやつは負け組なのよね。
でも、今でも「最終解脱者・麻原尊師」と思う人もいるらしく。
めちゃくちゃ理解に苦しむけど、いるらしい。
何に共鳴するかは、どこで決まるんだろうね
「最終解脱者・麻原尊師」
それを信じている人がいるの・・・って思ったけど
しかし、麻原と私は同じ人間でした。
>何に共鳴するかは、どこで決まるんだろうね
本当に・・・どこで決まるのでしょうか。
「断定的」に言う意見って、自分の見解が絶対的真理って主張している事だから、(他者と)話が合わなくなる。上から目線だと嫌われる。あんた何様と思われる。話が合う筈が無い。
「言葉で言い表せない真理」なんて対話の続行を拒否した断定的物言いだから、
話が合う筈が無い・・もともと話の腰を折る、「思わせぶり」な、自己を正当化しつつ言い逃れしようとする美的表現なんだから。
それは人の直観で決まる。
人の思考(心)は(どんな人でも)90%が感情に支配されていて、感情の応答は即座である。
理性がコントロールできる心の分野は10%に過ぎず、論理の整合性に納得する為には時間が掛かる。
「共感」とは瞬間的な判断が90%、
時を経て後からじわじわ納得してくる形の共感は10%という事でもあろうか。
自分の一生を通して蓄積された学習経験があって初めて(=其れ迄の自分の体験談に基付いて)、
或る時、或る問(命題)が提起された時に、
同意するか不同意かを感情として即答できる脳のシステムである、とも言える。
釈迦が35歳辺りで悟りに達して涅槃に這入ったという事であっても、亡くなる80歳までの45年間で思考の変化が一切無かった筈はないと思う訳です・・・思考の流れも無常な訳ですから。またその後の45年間で新たな経験も一杯する事になる訳ですから…人間である限りは。
とすると悟りとか涅槃とかは「完成」、「思考の終了」という、
もうどこにも行きようの無いエベレスト山頂のまさに尖端を指している訳では無い・・・
その後も成長を続けていく出発点であったという解釈もなりたつのかな、とか。
そゆえばユダヤ教の神でも人の懇願によって
神が考えを変えた(=とりなしを受け入れた)とかもあるしなァ~。
断定的という言葉から絶対真理が導けるとするならば、それはただ単に、あなたの思い込みにすぎないのでは?
断定的な意見は、それが適応できる条件の範囲が限られているはず。絶対真理にまで拡大解釈してしまうのは同意できませんね。
南さんが「プロなら手の内を晒せよ」と言ってるから南さんは手の内を晒しているんだろう
と思ったら実は晒してなんかいないのであった、ということも、もしかしたらあるのかもしれない。
「輪廻」にしろ「言葉にできない真理」にしろ、「それがダメ」ってもんでもなく
使いよう、なんでしょ?
そんなの、何でもそうじゃない。
もし真理を言葉で現わせたとしても、それは語った人の真理であるから、他人には決してわからない事だよね。
言葉で現せる誰かの真理は、自分の真理にはなり得ないないので、そこを踏まえて、語ってほしいものだね。
グローバル化とかいってさ、どうなるんだろう。
非常にまずい。
「弱っている部分を皆で担おう」という意識を、先進国である英国が、先頭きってしまったようだね。
単にわがまま投票なら、後でさらなる不満や愚痴、後悔を生み出しかねないよね。
これを国民投票して接戦になるところがイギリスすごいかも。
議員さん殺されたりしてるのに。
投票率七割超え?
そいで「あー待って待って、やっぱナシで」って言わないんだね。
同じ島国として、少し似たようなとこを感じたりもするけどね。
日本企業も、撤退せざるを得ない状況になってるみたいだけど、そうなると、英国自体に利益もなくなるわけで、もっと状況が悪化したとしても、それを自覚した上での離脱だろうから、どこまで耐えられるかだよね。
離脱派の今の喜びが、いつまで続くことやら。
EUと2年の交渉期間があるから、正式離脱は、状況見ながら決めていかないと、ね。
仏教のことを考えたり、有り難がっていても、世界の動きに対しては無力のように感じます・・・
ニュースを見ると不安情報ばかり。
なんか変。
悟っている人はこの事態にどう対処しているのか、聞きたいです。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ 災難をのがるゝ妙法にて候」
これしか妙法が思いつかない。
仏教諸説を含めて、すべての思想(思考)は、「真理」と考えられる概念を創出して他者の共感を誘おうとする所作に過ぎない。
それ(=思想の実践)を目指すあらゆる営為は実体的真理として認識できないシロモノなのだから、
「これこそ絶対的真理だ」と断定したり、逆に「言葉で言い表せない真理なのだ」とかいう(自分に都合のよい)逃げ口上を使わずに、
(自分が共感した理由、内実を)自分の言葉で明確に定義しなおした上で、自分が信じる独自見解だとして所信表明すべきである。
あとは他者からどの程度納得して貰え、支持されるのか、という問題に過ぎない。
(追記・・・だから只管打座の本質は何か?という問いに対しても、「自分にとっての只管打坐は~~だ」、との自己見解をはっきり表明すべきである)。
この世に絶対的真理とか、言葉で言い表せない真理とかいう実体は存在しない(=すべて
サンスカーラなのだ)という事に尽きる。
勇気を持って生き切るには、
不安情報に対する処世術(=ストレス対処法)を会得するのが良い!!!
気にしている自分が、どうしたら気にならない自分になるかを自分なりに発見して実践する事。
只管打座もよし、マインドフルネス瞑想法もよし、頭の水平飛行で生き甲斐の創出(意識革命)を図るのもよし・・・その他諸々、自我の確立は人それぞれ。
悩みのすべてはサンスカーラ(脳の虚構)であると理解する事。要は自分にとっての、存在の為の自信の回復法を編み出す事。覚悟を決める事。
自利を考えるより利他行をもって社会に役立っているという自覚が人に生きる勇気を与える。
気にするっていうのは生まれつきの感性だから自然に気にしてしまう。それは避けられない。
その感性をどのようにコントロールして気にしなく成れるかを仏教はおしえている。
怒る処は怒り、抗議する処は抗議しろと言う意味にもなるが、それと貪瞋痴(とんじんち)三毒論との折り合いを付けるのはむずかしいよね。
「執着を絶て」=「無関心になれ」、という訳でもない筈だしね。
「考える事は執着だ」=「一切考えるな」、という訳でもないしね。
日本に集中しましょう。
のまとめ、「おーなるほど」と思ったんだけど
すると、仏教における釈迦というのが、悟りや涅槃や…ってところを
「私にとってはこういうものです」つってない(南さん説)ところが
どうなの?
「人生は苦しいものです。おもしろさを見つけなくては生きていけるものではありません。
自然におもしろいと感じると思ったら、それは間違いです。
自分のインスピレーションを使って、とことん物事をおもしろくするのです」。
『アランの幸福論』
「人は幸福だから笑うのではない。笑うから幸福になるのだ」
の質問があまり良く分からないのですが、
今回の南さんの記事は、南さんとしての悟り・涅槃への立ち位置(自分の言葉での再定義)、(それに対して)自分としてはこう思う、という自己見解がハッキリした所信表明だと思います。
(多分曹洞宗僧侶連から)反対意見が出る可能性を含んだ見解みたいですが・・
初転法輪で釈迦が5人の沙門に明らかに語ったのは、「三相」と「四諦」、(初期レベルでの)「12支縁起観」であったけれど、
釈迦自身がそれが「悟り」だとか「涅槃」の意味だとか、或いはそれ以外に自分が別の「悟り」を得て「涅槃」に這入ったのだとか言う言葉を、じかに直弟子にしゃべった形跡は見つからない。(=もし釈迦がそう言っていたのなら、直弟子たちとの質疑応答がおこなわれた筈で、それならその会話記事が経典で記録されていた筈であるから・・・、でもそんな様子はない!!)。
それ故に「悟り」とか「涅槃」は後世の弟子たちが状況判断的に定義したのであろう。
しかしいずれにしても(=後付け、直言に関係なく)、「悟りと涅槃」は釈迦が体験したものとして仏教者の誰もが受け入れる真実としての立ち位置を占めるに至った(=仏教は釈迦一人で出来上がった教理というわけではないから・・)。
南さんはそう言いたかったと私は解釈しました。
し過ぎて疲弊するような状態なら、一旦置いておいてもいいわけで。
結局は、その根っ子に何があるのか?を見定めることが、大事なことで、それがコントロールというか、納得というか、落ち着つかせてくれるように思う。
「悟りと涅槃」がわからないのに、どう定義できるのかも不明だけども、とりあえずでも「言葉」を付けとかないと、語り継いではいけないからね。
「実のところ、真理はわからないけども」を前提に語らないから、あーだこーだなるわけだしね。
釈尊は、こちらに問いを投げかける、問わせる手法だよね。
疑いなさい、考えなさい、みたいな。
自分の身にズドンと入った人は、真理だの悟りだのを、安易に語らないように思う。
注意深く読めるようにならなくっちゃ。
とは言うものの、「涅槃(ニルバーナ)」の意味が辞書にある如く「永遠の平和、最高の喜び、心の安楽・安寧」の意味で、
釈迦が煩悩の滅失が出来た結果、「苦」の滅失が完成されたという事と同義語としての悟り・涅槃ならば、それは自明の理として解釈される訳だから、
何ら後になって論議を呼び覚ます必要性が無い(=後付けではない)という言い方も出来る感じもします(南さんの見解とは異なりますが・・・)。
のだけども、現に論議したり、悟りをわかっているかのように、公言してる者がいるから、批判する必要性はあるよね。
この世に未練が無く、いつ死んでもいいが涅槃。
かもしれないね。
俺は耳が釈迦っぽいから悟りかけてんじゃねーか?と最近考えている。
(≧▽≦)b
耳がシャカっぽいって!?
ホント面白いよね〜!
このような、突き抜けた「思わせぶり」なら、笑えるんだけどね。
この世に未練が無く、いつ死んでもいいが涅槃。
単純すぎ!!!
悟りは、怒りも無智もでしょ。毒抜かなきゃね。
涅槃は、前置きに、為すべきことを為し終えてでしょ。
誰かが言ってたから、とかじゃなくて、自分をよりどころとし、法をよりどころとしてやっていきなさい、と言ったとかなんとか。
なら釈迦は「法」をわかってたんでしょう?
それは何?
だから「言葉にできない真理」と言いたくなるものがあっても不思議じゃないなと。
ただ、それをいう人がどのくらい信用できそうかは、それについての言葉だけの吟味じゃなくて
どこかの、ふとしたはずみの一言とか、ちょっとした行為とか、目つき顔つき声のトーンみたいなものでも量ってると思う。
だから、南さんは「言葉で伝える」のを重視してるみたいだけど、
そのこと自体、そうかなあ?って思ってるかな。
坊さんももっとインフォームドコンセントの重要性を認識すべきだ
とか
おあしをいただくにはそれなりの根拠がいるでしょうよ
とか
そんな感じ?
諸法無我での法は「存在」の事だっけか??
諸々の、存在しているものには、アートマンは見つからない!!
これが釈迦が言った諸法無我。
そして「存在」とは、「在して」+「生きている」。
まあ、「ありのままの世界」っていう事かな。
自灯明法灯明=ありのままの世界を
見つめて自分の足で歩きなさい。
サンスカーラは虚構の世界だから「ありのままの真の世界ではないと気付くべしし!!」
これが2500年前釈迦によって悟られたなら、当時の環境から言って正に「意識革命」だったと言えるね。
色んな解釈って言う事のなかから、当時の釈迦にとってはどの解釈が真っ当そうかって事になるんかな??
だから悟りや涅槃だって2500年前のインドではごく普通の言葉だったかもしれないし、
後世の経典製作者が、そこにもったいぶった、不可解な、考え過ぎの意味をひっつけて複雑化+神聖化したのが混乱を招いているのかも知れないしね。
そうだね。
ただそうなると、「ありのまま」がわかんないわけだから、ありのままの世界に生きよ、といわれても、
ありのままって何?ってならない?
国境のない世界を理想とするグローバリゼーションに対する反発なんだよね。
和尚さんが懸念されてた問題が、浮き彫りになったカタチかな。
EU全体での格差社会を垣間見た感じ。
国単体でも格差はあるはずだけど、EU全体となると、許容範囲が広すぎたってことかな。
思考継続を停止して気持ちを楽に出来る、かっこうの逃げ場でもあるしね。
昔からこの手の『真理論』の議論が在って、一応受容されている定義は、
「真理(=真理ともくされる事柄)」とは言語で言い表わせ得る事が不可欠である、という様だよね(コミュニケーション継続の為にはそうだよね)。
だから南さんはキチンとした所信表明をせよ、と説いているんだと思うよね‥うさん臭さが付いて回らない様に・・・。
相手の見えない不特定多数の人に語り掛ける場合には「言葉で伝える」しかできないからね。
心情的になると、例えば、愛とは何か?とかにもなるよね。
様々な表現方法があるようなものだよね。
ザクッといえば、
諸行無常は「ありのまま」の世界と言える。
諸法無我は「ありのまま」の世界と言ってもよい。
じゃあ「一切皆苦」はどうか。これを「ありのまま」の世界と言ってよいか??
「苦悩する」は脳のサンスカーラなんだから「一切皆苦」観は、人が溺れる「虚構の世界観」なんじゃなかろうか。何故って、これは個人の主観(情感)の世界だからね。
悟り・涅槃によって「ありのまま」の世界を見る(這入る・受け入れる)と言うのが仏教の教え(??)なんだから、ありのままの世界が一切皆苦だは、ちょっといただけないよね。
では釈迦は「この世は一切皆ダッカだ」といったのであって、それは「不完全な世界」の意味なんだとして、その根拠は、
この世を「常」(=完璧)とみなして完全に依拠する事は不可能だ・・・、という意味だと解釈すると、此れは「ありのまま」の世界を描写しているという客観性が出て来るよね。
左様に「ありのまま」を認識したら、
そのありのままの世界で、素直に、しかも巧みに生き抜く方法論は何か?が次に論じられる事となる。
まあ、南さん流「当分これで行きます」なんだけど・・・、一面の真理として成り立つ論議かどうか、共感者を募る、ですです!!。
「知の巨匠」とか言われちゃった立花隆氏が臨死体験(=死後心はどうなっちゃうか=肉体と魂の二元論問題)の探索趣味があって、
23年前大々的な臨死体験者の取材活動をおこなった。で、彼がどういう結論を引き出すか当時とても興味を持った事があったんだけど、当方としては失望を禁じ得なかった。なぜなら彼が言葉を濁してスルリと逃げてしまったから・・・。
で23年後の近年の彼(2014年@74歳)が死に近い自分を感じて再び答えを知りたいと思って再度、臨死体験者取材・脳科学者取材に挑(いど)んで世界を飛んだ。
でで今回の結論は「体が消えれば心も消える」「魂が死体から抜け出て美しい園で光輝く神に出会うというのは脳の仕組みに依る虚構(奇跡的な白昼夢)だ」と結論ずけた。と同時に「昔は心の平安を乱す最大のモノは『死』であったが、今では平安を持って『死』を考えられる時代となった」(=死は怖くない)と述解するに至った。なぜなら人は死ぬ間際に脳が美しい白昼夢幻想を作り上げて幸福感を引き起す物質を大量に放出する事が解ったからだ。
・・・みたいな事をユーチューブで昨夜みました。
仏教的にも大昔から色々と意見の分かれるところだよね。
わたしはね、例えば
「心情的には「言葉で言い表せない真理」っていい響きを持っているから比喩的存在価値はあるんだろうね。この言葉に一人酔ってウットリできるからね。
思考継続を停止して気持ちを楽に出来る、かっこうの逃げ場でもあるしね。」
みたいな言葉とか、かなーり胡散臭いなって思うタチなのね。
この人、こういうこと言う自分に酔ってるんじゃないかなあ、とかね。
そういうこと言い出すと全くきりがないんだけど、でも言葉と胡散臭さってそんなもんでしょ。
今日は日曜日だからね。昼間っから酔ってたっていいじゃない?
俺はみんな愛してるぜっ!ぜっ!
文面に人柄って出るのかな?
それってどうやるんだい?
私もあるとき真にそう思った。
教えて下さり有り難いです。
「一切皆苦」っておかしいです。
空なのに、中道なのに、「一切皆苦」って・・・
偏り過ぎ、極北。
「この世は一切皆ダッカだ」
と悟り、臨終で「この世は美しい」だと希望が持てる。
なんで「ダッカ」が「苦」と訳されたのか。
同じ事はどこでも起きますね。
「うさん臭さ」発言者としては、失言であったと認識致しました。謝ります。済みませんでした。
単に南さんの最後の文の「~~すべきではありません」についての援護射撃のつもりで「・・・何故ならうさん臭く見えるから」という隠された情緒を表に出したつもりだけど、全くの独りよがりだったのかも知れません。
さすが南さんは聞き手の反感を買うような自己の感情用語はおっしゃらないと敬服しました。私も以後慎みます。かしこ
(議論を呼びそうな)微妙な議題の時は感情を排除した論理の世界での意見合わせが「話の合わせ方」だとも言える。
しかし、それを読んだ生身の読者が自分の感情で受け止めて共感(又は反感)作用を起こす。そこに感情の介入が生じる。
でその感情をコメントで発信すると、必ず人々の中で感情対決が起きてしまう。
なにせ真理は人さまざまなのだから・・
そゆこと!!
暫くしてそんなブスの車輪が存在しなくなってしまったから、後世の経典作家が当代の現代語に訳出しなければならなかった。
さて、では何と言えばいいか??
そんな車輪のついたクルマに乗るのは
マッコト「苦痛」だよな~、って思ってダッカ=苦として、(この世は)「一切皆苦」という断定語が出来上がった。
これはこれで一理あるけど、かなり飛んだ意訳っぽい。釈迦がそう意図してたかもしれないけれど、釈迦時代でも「苦」「苦痛」「苦悩」~~という言葉は在った筈だから、なぜ釈迦は直接そう言わずにわざわざ「ダッカ」という言葉を選んだのか?
そう考えると、釈迦の真意が見えて来る・・・(と思う)。
アベノミクスも、EU離脱で混乱するような政策。
矛盾だらけ。
それってどうやるんだい?」
自分の言ってることって辻褄合ってんのかなあとか、どっかで拾ったパッケージを並べてるだけじゃないかなあとか、
曰く;「苦し紛れに書いて(いるのに)絶対の真理の様に読まれる事はものすごく困る、~~」。だから講義をやるとき「絶対に真に受けるな。ぼくの見方は極めて狭い~~、しかも仏教の中でも極めて特殊だ(だから他の人の考え方にも目を向けろ)」(とクギを指す)。
出典、出家の覚悟327、328頁
しかしこれは「自分を信じる事の大切さ(I am OK)」と対になっている。
さもないと(=自我の確立が無いと)、自分を疑う疑心暗鬼に昼夜さいなまれて精神を病んでいくからだ。
すべて中道でなければやっていけない。
楽観主義の行き過ぎに歯止めをかける意図での中道的思考だったと考える事も可能だから、
悲観主義者自虐派である日本人の(言葉の)受け取り方の問題だという見方も出来ますね。
この言葉のポイントは「四諦」で救いの道、解決法が同時に「対」で提示されているという事ではないでしょうか。
「一切皆苦」が「ありのまま」の世界という事では無くて、
「苦」観という脳の虚構を「四諦」によって破る事が出来る世界が「ありのまま」の世界を指す、とセットで考えれば全てが丸く収まるわけです。
「すべてこの世は考え方次第!!」で人生の道はひらかれる、と言えそうです。
救い様の無い、這い出す事の出来ない、解決の方法の無い、不気味な闇の深淵を指す訳でなく、
楽観主義の行き過ぎに歯止めをかける意図での中道的思考だったと考える事も
・・・可能だから、』
『インド人気質』
貴方は、どうやって知ったのですか?
『女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独』一部転載です。
>「ありのまま」とは所詮「何が何だかわからない」事態を言うのであり
「ありのままでありたい」という欲望の意味は、「いま自分であることが苦しいから、それから離脱したい」ということでしかなく、「自分であるために自分でありたくない」という究極の矛盾を言っているわけで、これはどう見ても「他者」が承認しうる「価値」にはなりません。
なぜなら、もし他者から承認されたり、共有されたりするものなら、その時点ですでに他者の評価や思惑に拘束されることになるからです。
それは「ありのまま」の望みから程遠い事態でしょう。
コメント者の意味合いが違うかと思いますが、思い出しました。
どうすっぺ。
「自分を疑う?それってどうやるんだい?」って、ほんとにどういうことかわからない人は、「自分を信じる」もわからないと思う。
「自我の確立」なんかは、私にとっては「実存」の親戚みたいなもんで、なんのことやら系ですわ。
『疑う人の信じ方』
>おそらく「賭け」た瞬間、「信じること」と「疑うこと」は対消滅してしまいます。「賭けた」者はもう「信じ」ても「疑って」もいません。
それまで自分が「信じてきた」「疑ってきた」教えに、いわば「身を委ねる」だけです。
その善悪は問えず、吉凶を知ることもないでしょう。
そしてどんな希望も期待も無意味になるでしょう(いくら希望しようと、サイコロの目がどう出るかは、それと関係ない)。
「信じる」行為そのものを「疑う」ような人間が、宗教にコミットしようというなら、この「賭け」以外に方法がないのではないか、私はそう思うのですが。
なるほどな、と思いました。
信徒が辞任勧告って。。
全く困った人達だね。
仏教ブログでもその事を強調している(=
仏典は日本人が読む時は日本人気質に合わせなおさねばいけないとか主張している)のがあるし、「日本人の常識はインド人の非常識」というネタを書いた本もあります(=逆も又しかり)。
以前の(ここの)記事のコメでも話題にされてました。
何処の国にも国民性があるのは多分当たり前で、ラテン系の人の国民性は何、
日本人の国民性は何などと一般的に描写するやりかたですね。
統計学正規分布上の2σあたりまでの傾向をとらえてるという事です。
外国に住むとその差を感じるものです。
日本がここまで優れた文化を持てたのは
日本人気質からだという言い方もあります。もちろん日本人の中にもおばかさんは いるわけですが・・・
宗教法人法を見直してほしい気がする。
宗教法人法ぐらい見直してよ
あべちゃん
南さん自身はもっと正直に;
僕の本が読まれるのは異常であるとか、
苦し紛れに書いているのに絶対的真理みたいに思われるのは(かえって)迷惑だとか、
僕の言う事を真に受けるな、僕の考え方は極めて狭いんだとか、
僕は仏教者でもアウトサイダーだ、他の僧侶は理解して呉れないとか、
仏典のどこを捜しても答えが見つからなかったから西洋哲学書も読み漁ったとか、
「正法眼蔵」(の真意)は僕にはわからないとか、
「ご著作を拝読しました」などと言われるのがとても辛い、とかとかとか、
わざわざ御自分の異常性を強調するのでしょうか??
釈迦も自分の異常性を感じていたので
悟り直後このまま餓死の道を選ぼうかとも考えた可能性が高いと思われます。
しかし南さんとしても、「自分だけがおかしいのかなァと思って苦しんで来た事」に共感して呉れる人がいて(難しい此の世にあって生き抜く力を、自分の言葉からくみ取って呉れる人もいるんだ)と梵天要請を受け入れた。
釈迦と南さんはよく似てる(・・・みたいですね)。
普通の(=アウトサイダーでない)仏教僧侶は真理の伝達者として人を教諭する立場を取るでしょうから・・・(よしあしは別として宗派の伝説保持に走る)。
懐疑論者は押し付け教諭には反感を感じるモノだけど、賭けなら人好き好きでしょうがないじゃん!!ってなるから、かえって好感度が高まりますね。
ほんと真理の押し付けはいやですけど賭けじゃあね!!!
当時は、特にする事もなく、時間はタップリあったわけだから、悟りを開けたとか何とかも言ってる人いたよね。
ただ気質というのも、風土があってのことだろうね。
結果論でいえば、土地柄も含め、釈迦を取り巻く社会など、全ての要因が揃ってた、ともいえるよね。
って言われても、
信じ続けてるから賭けてるんじゃあないかいな???
信じられなくなれば賭けから降りる筈。ほらやっぱり「信じるか信じないか」がズッと続いているじゃん。。。。。
そのニュアンスなんじゃないかな。
自信も何も、「修行を完成された人」だから、人智に及ばないはずだよね。
そ~そ~、釈迦も言ってるじゃあないですか、ご世間様がそういってるから真実にちがいない、っていう弁論の立て方。
>「自我の確立」は「実存の親戚」・・・
うまい事をいいますね。たしかに、たしかに!!
>「ありのまま」とは「何が何だか分からない事態」を指す・・・
これは辞書には書けない訳し方ですよね。
南さんの独自的独特見解としては!!!という但し書きが必要ですね。
仏教とは「ありのまま」の世界を見つける事が主眼らしいから、
仏教とは「何が何だかわけ分からない世界(に迷い込む事)」と言い換えられないでしょうから、
二つの言葉の等価解釈は出来ませんね。
悟りを拓いた人が「高慢ちき」な事など
言う筈がない・・・は人智の及ぶところ。
俺は悟りをひらいたぜ!!っていう人は
皆(99.99%)偽者。
>いくら信じても絶対的な事はわからない・・・
絶対的な事が解っている時には「信じる」云々と言わない。否定出来ずただ事実として受け入れるだけしかない。
1+1=2は信じるとは言えない。
1+1=3は信じると言う。二人で協力すれば3人分の力が出るよという説得を信じるからだ。
同感ですね。
自灯明=自分を信じて歩め。
法灯明=自分を疑って法に照らし合わせろ。
そういわれても、いまいちピンとこないから、固定概念をぶっ壊すとか、物事を色んな角度からみれるように視野を広げるとかだよね。
「ありのまま」(=虚構の無い状態)に見れないのは脳のサンスカ~ラ(虚構)で考え方が凝り固まった状態(固定観念にがんじがらめになる)という事だから、いろんな角度から物を見る訓練をすれば、客観性が出て冷静にもなれて、よって「ありのまま」に近い見方が出来る。
そゆことになるよね。
南さん曰くの只管打座で自意識の解体を(度々図って常に原点に戻る)も「ありのまま」にちかずくのにいいよね。
皆がそういう意識をもって、接し合うことができれば、争い事や色んな問題も、最小限に収められるんじゃないかなって思うよ。
自己中は視野の狭さや、余裕のなさからきてるよね。
EU問題や、国同士が歴史的問題で衝突したりしてるけど、例えばユダヤ人は、国自体がないわけで、悲惨な迫害を受けながらも、主張や反発もできずに、生き抜いてる民族だよね。
TPPが通ると、似たような状況に陥るのではないかと、懸念しております。
TPPに反対する農政のトップ陣営も、今のシステムで恩恵が受けられなくなるとするなら、末端の農家にしわ寄せがいかない方向へと、早く改善していかないといけないですよね。
まあこういった不満をもたせる政策自体が、結局問題なんだけどね。
日本を貶(いやし)める為の教育で国民を洗脳しつずけてきた韓国と中国が、今こそ世界の中心(中華圏)に帰り咲く・・、の幻覚症状の基で、
難解な南海問題と、ドウカイな東海問題という頭痛難問を日本に押し付けて来た情勢下で、
日本は今どうすべきかの苦衷の選択と決断をせまられている時代となった。
仏教の縁起論のなかに於いて「自灯明」は此の問題に対しては、どんな結論を導き出すのか??
釈迦が仏教にかまけていたから釈迦国は滅び、
自閉症に閉じこもっていたから(発祥の地インドで)仏教は滅びた、
とかの主張も存在する中で、
仏教の正義をどう行為するのか???
そ~かそ~か、『価』値を『創』る学会、ってそ~いう意味だったんかと、再認識・・・よしあしは別として!
そ~かそ~か!!仏教系が支持している自民党が仏教者の総意って事?????
運命論を押し付けたカースト制への反抗の狼煙(のろし)であった。
『戦う仏教』でもあったのだ。
現在のインドで、さる日本人僧侶が、「戦う仏教」を再興させたのも、
今なお続くカースト制思想の下で
あきらめきった最下層を覚醒させる為であった。
平和ボケとか揶揄される日本で「戦う仏教」はありえるのか???自立は???
中国は、それをかなり批判してたね。
戦う仏教かぁ。
これは、中道精神ではないよね。
報われることを目的とするなら、それは仏道ではないように思うよ。
南さん風に言えば、言語発案者さんが意図的に「人に分からせない様に難解に言い回したからだ!!」、とかね(禅問答発祥=頭が良くなる思考法=視野が広くなるテクニック)。
釈迦の縁起は12支縁起説(の原型)で、この世に於いて、その因果関係から抜け出る意味で有る『悟り』(=解脱)に報われる為に努力(=修行)を惜しむな、と教え込んだ・・・
は、「報いを求める所作」と同義語となってしまう・・・、定義上。
(注;『賭けただけだ』という言い方も出来るけど、賭ける以上何か結果を求めている訳だし・・・、『ダメでもともと』風でも期待値ゼロでは無い訳だし・・・、頭をカラにする『無念無想』も何か意味ある新しいモノが自生する筈だという無意識的期待行為だしね・・。
何故なら、全て「絶対的に無駄・無意味・無価値」と決定されている絶対的真理(真実・事実)だったら「信じる(=報いを期待する)」という行為が発生しない訳だし・・)。
しかも誰でも努力すればそうなれるんだと「人皆平道」を唱えたとすれば、カースト制否定(当時の革命的思考)という事だしね。
追;
『全ての想いからの解脱・・・と、いう想いからさえも解脱する』(=見ざる、言わざる、聞かざる、の境地)であるとすると、
禅問答は困った立場に追い込まれるよね。
戦う仏教もなりたたないし・・・、
中論議論もなりたたないし・・・、
仏典議論もなりたたないし・・・、
正法眼蔵議論もなりたたないし・・・、
結局この世はなりたたないし・・・・
困った困ったの「苦」のみ発生するね、まあ頭は良くなるけどね!!!
いかだにのって川の中を漕いでいる間は「思考・思考・思考~~永遠の禅問答」を重ねるが、
向こう岸に渡った瞬間奇跡が起きて、(この世に実存していながら)「考える事」(=思考する事)が突然一切無くなっちゃった(=全ての想いからの解脱、という想いさえも解脱)という(筏も不要となる)事態が生身の人間の『脳』に起こり得るのか??という問でしょうか。
解脱で釈迦が神になった(言葉で言い表せない二元論的真理)ならそうかも知れない・・・、
又はこの世が「一切皆苦」で無く「一切皆無感覚」の世界に変質する(言葉で言い表せない一元論的真理)ならそうかも知れない・・・。
しかし人は無感覚(外からの五蘊の完全遮断)が起きた時には脳は幻想・幻覚・幻聴を発する、と脳科学で証明されてる訳だし・・・
当方、苦し紛れに書いてます!!!
というより、わかっていないことをわからせるのが、正法眼蔵かもしれないよね。
わかっているつもりなだけで、何もわかっていないんだから、思い上がるんじゃないよ、的な要素もあるように思うよ。
とっても難しいことだから、難しくしか書けない、ということでもあるよね。
元々言語化すること自体が、難しい作業だろうから、難しいことを簡単にはできないよね。
答えはわからない、としておかないから、苦しくなるんじゃないかな。
苦が増すようなら本末転倒だろうから、一旦離れてみた方がいいかもしれないよね。
支持するというより、しっかりやってくれよ、という思いでしか入れるとこないんだよな。
空気吸う事は「苦」なんです(笑)
食べる事は「苦」なんです(ワラワラ!)
細胞は「苦」しいから生きてるんです(笑わらわら!!)。
(理屈するのみ「楽」なんです。えへん!!!)
「苦」を理屈して製作し、それをみな面白理屈に変えてけば、この世は楽しく幸せや・・(どや~~ッ!!)
日本系「一切皆苦」;
空気吸う「苦」で窒息死そう(悲鳴)
食べる「苦」観で喉がつまりそ(涙・鼻水・唾の混合)
細胞苦でサイボーグ(人工臓器でいきるのみ、ああ悲惨なるかな我が心!!)。
一切皆苦だ、この世は闇だ、生きてる価値なし、くるちいよ~ォくるちいよ~!(はい皆さんご一緒に!!))
開き直んないの!
真剣に逝こ。
生死に意味を持たせて苦しむのではなく、明らかにしていきましょう。
虎穴に入らずんば虎児を得ず と似てるのかと思ってたら
骨折り損のくたびれもうけ に似てるんだね
ちょうどよい加減を保つことが大事なんだろね。
なして、そーなるかな。