恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

戻っておいで

2016年07月10日 | 日記
思い付き禅問答シリーズ、梅雨のような、夏のような夜の一話。

高名な禅師が、ある大きな寺の住職をあなたの弟子にお願いしたいと依頼されて、門下の弟子の力量を試すことにしました。そこで、自分の前に水差しを一つ置いて、門下の弟子を呼び集めます。そして師匠は集まった弟子たちに問いかけました。

「諸君の前にあるこの物を水差しと呼んではいけない。ならば、君たちは何と呼ぶかね?」

まず師匠から指名されたのは、門下で最古参のリーダー役修行僧です。

「だからと言って、師匠、木っ端と呼ぶわけにもいかないでしょう」

次に答えるように促されたのは、台所係の後輩です。

「お前なら何と言う?」

問われるや否や、後輩は立ち上がると、水差しをいきなり蹴倒して出て行ってしまいました。

禅師は笑いながら、最古参を顧みて言いました。

「お前、後輩に出し抜かれたな」


この話の解釈も色々ですが、私は、仏教の言語観をよく表現している問答だと思っています。

禅師の「水差しと呼ばないで」と言うのは、言語の示す意味を実体視して、物の「本質」と誤解するような概念的思考を止めろという指示です。

その前提でさらに「何と呼ぶ」と問うのは、ただの思考停止ではダメで、通常の思考を初期化した上で、目の前のこの物に新たなアプローチをしなければならないことを教えるためです。

ところが、最古参は「木っ端とは呼べない」と、別の言い方を探るだけで、概念的思考から離れられません。

後輩が蹴とばしたのは、この概念的思考の習慣なのです。つまり、禅師が求めている議論とは土俵がまるで違うため、新しい水差しの呼び方など、出てくるはずが無いわけです。

したがって、実際、この話は新しい呼び方に言及していません。ただ、私は後輩に改めて問えば、「水差しです」と答えたと思います。しかし、その「水差し」は習慣化した概念的思考から出る答えではありません。

彼の台所係の修行において取り扱われるある物が、その取り扱われ方によって「水差し」になっていくのです。水差しとして扱う、使うという「縁」が水差しの存在を「起」こす。後輩はそうした実存の仕方を「水差し」と呼ぶわけです。

この話の続きを私が作るなら、後輩は台所から布巾を持って部屋に戻り、蹴倒した水差しを丁寧に拭き清め、禅師の目の前に戻し、厳かに合掌礼拝して、「これは水差しです」と言いました、というようなオチにするでしょう。

最新の画像もっと見る

196 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2016-07-20 07:30:35
答えか〜。
みんな知りたいと思うよ。

ただ、知ったところで、どうなるどうするが、またあると思うよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 02:26:25
釈尊が説いた世界のありようを前提に、自己を拠り所として生きていく。自灯明 法灯明

人それぞれの答えということですか?
的外れな質問だったらすみません。ただ、答えが知りたくて・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 02:25:19
更新は明け方になるのかなあ。
戻っておいでになるかなあ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 01:40:02
調べた それ
なんかこう抽象的にいえば、そういう悩みって
麻雀しつつ麻雀卓の真ん中にのせた野球盤で遊んでるような違和感がありますね
楽しそうだな いいじゃん
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 01:28:59
答えを知ってて聞いている人ならわざわざ聞かないだろうし
答えを知らないから聞いている可能性があるな

答えとかいう概念自体おかしい

つーか自灯明ってなんすか?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 01:22:25
> 「答えがないってのは嘘ですよちゃんとありますよ」

自灯明ということですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 01:09:47
結局、自己責任ですけどね
なんたらの笛吹きみたいになって
それがそうとうしゅうの広告塔になったら
もうそれは仏教じゃないですし
自分は釈尊より道元派だから嫌だわ
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 00:51:37
救われたと思うのは一瞬だったりする

長く続くと
自分とかの人の区別がつかなくなって
流されて、投げられたロープを掴む筋力さえ衰えてしまう
自分で不幸人のキャラクターを演じてしまう
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 00:51:22
届きましたよ、


禅談。
澤木 興道著
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-20 00:47:55
流されやすい人達の潔癖症が強くなってきているきがする
むかしは人は完全ではないのが当たり前だったが、
不完全な人間は欠陥品、病気は悪、
だから医療開発費を大量に投入して、
便利な商品を発明して完全にならなくちゃ。
悩む人間は欠陥品だ、どうにかしなくちゃ
貧乏や死は嫌なだけのものだから、見ないようにしなくちゃ。

悩まないで年を取ると醜くて薄っぺらでつまらない人間になる
きれいごとではなく。
南さんも稼ぎ頭でありつつ、実は救世主ではなく、人一倍悩んでいるけれど、
でももういい大人だからいい加減決着つけるところを見てみたい。
という観客心理。
答えがないってのは嘘ですよちゃんとありますよ
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-19 22:58:33
そ~いえば、南さんは本のどこかで、
自分にとって、自殺を禁じている仏教に逃げ込むしかない、・・・みたいな事も言ってたよね。

自死を禁じ手としておいて、初めて
勇気を振り絞って生き抜く道を探求する!!!

そこまで自分を駆り立てる問題意識の根源って何なのだろうか??

正解のない問に向かって考え続ける姿勢を表明する事で、それに共感を感じ、救われたと思う人も確かに存在するよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-19 17:31:13
実存苦は、貧富には関わっていないから、さらに厄介だよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-19 17:26:30
裕福で承認を得られているような人でも、本人が承認を得られていない、と思えば満たされないわけで、端から見ると何故?というような人が、自殺したりしてるよね。

飢え死にしたくない、という裏返し欲求でもあるのかな。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-19 17:20:27
承認欲求って、貧困や老化でなくても、強い人は強い感じする。
というか、そんなに生活苦で困ってない人の方が、大きいようにも思う。

いずれにしても、自我の強度やプライドの高さが、そうさせてるんじゃないかな。
さらに困った人は、自覚がないのか、それから逃げて認めていないからか、さらに苦しんでるように思う。
返信する
Unknown (浅野)
2016-07-19 17:06:49
年輪を重ねたり、貧困だと実存の苦悩より、生存苦(生活苦)が優位になると思う。実存の苦悩は、贅沢な悩みでもあると思うのです。
目下、若い人たちは、承認欲求に飢えているようなので、貧困だとしても、承認を得られなければ、飢え死にしてもよい、という認識らしいのです。僕自身は、飢え死には嫌ですが、社会的な承認欲求は高めだと感じています。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-19 10:18:57

ぼんやりと生きていると、なかなか把握できない五蘊。

人間が感じる感覚は、実は「痛み」だけとか。

「神経で感じる情報は痛みだけである」ということは、最近の医学でも言われているとか。

お釈迦さまも「感じるものはすべて苦」だと。。

年齢を重ねると、五蘊が鈍くなるってこと?
返信する
Unknown (浅野)
2016-07-19 06:55:13
なぜ生きるのか~どう生きるのか、どう存在するのか、これら思春期以降特有の悩みを大半の人たちは自ら答えを見出すか、忘れてしまうと思うんです。
ひきこもりの方たちは、実存の苦悩に葛藤してると思うのです(平均年齢32歳)。
最近、精神科医の斎藤環さんのひきこもりの講演を聴きに行きまして、そこで親御さんたちのリアクションを拝見すると、失笑したりしていたので、もう過去の出来事のように、痛みを忘れてしまったんだろな、という印象を受けました(もしくは鈍感)。
南さんは、その痛みをずっとキープしているのではないでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-19 04:24:57
南さんの抱えている問題!!っていうのが実はよく理解出来ていないのだけど、
脳内の中だけに存在する苦悩ならば、
ぬこ爺さんと同じく時が解決するのかも知れない。

ぬこじいさんも若い頃は問題意識にさいなまれていたけど試行錯誤をしていくうちに、いつしか問題自身の方が自然にフッと離れて行ってしまった。歳の功的ボケ効果なのか壮年性悟り病なのか??

此れは実存する現実社会の在り様が変化したという事ではなく、単に自分の見方が変わった。つまり意識世界での脳内変化(=解脱)という意味である。

釈迦の仏教はそれを教えているのであって、肥溜めとか泥沼とか苦世界を「変える事が出来ない普遍の真理・実質・本質」とみなしている訳では無い。
単に「無常する概念」と見做しているのに過ぎない。

何故なら「変える事が出来ない厳然たる実存」なら、人はただ只、忍従して諦め切って、死によって解放されるを願うのみ、となるからだ(蓮の花など存在しないインドカースト最下層以下の人間扱いされない階級の様に・・・)。

だから仏教は「この世はすべて考え方次第」(でどうにでもなる)と言っているに過ぎないという事だ。肥溜め世界をしっかり実存として認知せよ・・が仏教の主眼では無い。だから一元論になるのだ。

残された疑問は、
社会変革(=外的変化)が無ければ解決出来ないタイプでの、現実に襲いかかっているかも知れない苦(悩)に対し、それだけ(=仏教的内的意識変化だけ)で、対応し切れるのかどうかが現在の仏教に問われているとも言える。

それとも「私には関係ありません」と突きはなすか(S長老の様に??たぶん)。
又はぬこじいさん(70頁)「仏教という経典では人は救えません。結局は自分の身体で感じて(自分で)解決するしかない」、も一つの答えか??

ぬこじいさんの場合で言えば、もし「生活苦」が一生彼について回っていたのなら「この世はありのままで完璧である」と言い切れたのか???
現実の生活苦は人の思想(思考)を変えるのに・・・。

瑩山禅師の悟りの内容が「腹のすいた時は食べ、疲れた時には眠る(=平常心こそ仏法ナリ)」ならば、常にそれが可能であると保証されているのか??それが許されない時でも人は坐禅のみで救われるのか??

此れがぬこじいさんが「息身佛」28頁「坐禅(すれば)たいていのものは治ります」と言い切れた世界における悟りと、

南さん「出家の覚悟」128頁「それはあなた、坐禅すれば(すべて)一度にわかるのです」(とか言われると~~)「私としてはそんな簡単な話では済まないだろう、と思いますね」という、

ぬ~さんとみ~さんの問題意識の差が浮き彫りになって来るのでありましょう。

南さん的には正解の無い「問」をズッと考え続けていく事になるのか、そのうち老衰して脳の思考機能停止となるのか?

気のもめる処ではありまする・・・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 10:17:40
自然動物は暇

動物園の飼育係のお話しで
自然界の動物は「食べる」ことにすっごい真剣というか、エネルギーを傾けてるんだって。
その人が担当していたのは、猿系だったか、なんかちょっと器用な、
いろいろ考えるような種類の動物だったと思うけど
餌をわざと摂りにくく置いてた。
へんな容器の中に入れて、取り出すのにいろいろ工夫がいるような。
「動物を退屈させちゃいけない」って言ってた。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 10:02:05
「救われるという人がいるから書いている。」

別に、問題なんかないでしょ。
同じものを読んで「へんなのー」と思う人がいるのも、それだけのことだし。
何か問題が?
返信する
生死一如 (Unknown)
2016-07-18 09:46:49
>「泥中の蓮の花」新説


生と死は、台所と便所のようなもの。

台所は、明るく楽しいからみんながあつまる好ましいもの。
一家の団らんは台所。
便所ではしない。

便所は、暗くて、くさくて、苦しいのに、一人一人いかねばならぬいやなもの。

だけど、便所はいやだから台所しかつくりません、なんていってたら、たちまち台所で食べたものがゆきづまって困っちゃう。

だから、いつでも安心してゆくことのできる、便所があって初めて、台所で明るく楽しい食事ができているんだけども、
大体の人は、どうすれば、明るく楽しく生きていけるか?ってことばかり考えている。


『一如』とは、二つであって一つ、一つであって二つ。

切ってもきりはなせないもの。

ちょうど、どんなに薄い紙でも、表があって裏があるようなもの。

表だけあって裏がない紙はない。。


つまり、生きることと死ぬことは表裏一体、泥と蓮も一体だよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 07:54:38
南さんは自分の抱えている問題の解決を得る為に仏教を道具として利用している。
でそれ(=自分の考え方)に対して共感して呉れる人がいて、彼らの心が救われるって言ってくれる人もいるから書いている。
そうハッキリ表明しているんだからそれだけで充分じゃないのかな??

釈迦だって自分の思考を語る事で救われる少数の人がいる(初転法輪)という事に気付いて(=梵天に説得されて)教えを説き始めたんだから・・・・、
それがなにか???
(=全然おかしくないじゃん!!)。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 07:03:05
ちなみに、どちらの寺の子なんです?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 05:53:11
謙虚というか、そんな格式ばらず
自然体になったらいい
肩に力入りすぎて
ありのままをみるための筋肉が
無駄に長い思考の積み重ねで変形して
かたまってしまっとるんだ
坐禅はそのコリをほぐすためのもんじゃないすかね
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 05:43:50
あと英才教育受けてる寺の子をなめたらいけないとおもう
色々なレベルがいるだろうけど、
死を見つつ、生きている基盤がしっかりした親の下でそだつのと、
普通の何も考えていない家庭で育つのとは全然違うよ
人格の素質によって全然違うだろうけれど
返信する
「泥中の蓮の花」新説 (Unknown)
2016-07-18 05:36:34
肥溜め、もとい、泥の池の中・・・、に、
うごめいている愚者連から自分だけ這い上がって蓮の花の上に鎮座して、泥中の哀れなヤカラと自分は違うんだとえらくご満悦!!
これは二元論となるね。「天国と地獄」の実存支持説だからね。ZIP君流思考だね。

初め周りが泥だらけだと思ったが、(謙虚になって、達観して)よく見ると、ありのまま、そのままで完璧な世界だったという板橋師、この世は美しく人生は甘美だったという釈迦、結局道元さんも瑩山禅師もそれに気付いたのだという思考は方式は、
「実は泥池では無かったのだ」という脳内での世界認識の変化(=脳内コンピューターのOSの差し替え)だから一元論だよね。

どちらの思考体系に共感するかは今自分が社会から受けている圧迫感の差から来るよね。ZIPさんも頑張ってね!!!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 05:28:45
畜生界ってよくわからんが、
生きているときと地獄は別物なのだろう
自然動物は暇だから日々脳波が瞑想状態とおもわれる
喋れないから考え事をしないんだ
ただたまに神経質な性格のペットがいる
彼らは不安と隣り合わせでいきているとだろう

なので、ペット飼ってる人は犬猫の側で坐禅すると
脳波が同調して禅定に入りやすいかも
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 05:17:44
いや多分誰かに辛さをわかって欲しかったのかもしれない
でも止めてもらえなくて
器用すぎてここまで大成してしまったんだ
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 05:12:30
なんというか、世知辛い話ですが
管理人さん、
そんなに出世したいなら社内一の販売員にとか、教員とか
舞台俳優とか芸能界にはいればよかったじゃん
得意分野ならイケるとおもったのかな。
業界変えたい気持ちもあるんだろうけど、
本来の教えをつたえたいのか、若者に寄り添いたいのか、
日々出会う人々を見守りたいのか、精神の危機への打開策を作りたいのか、
辛かった本山時代の鬱憤をはらしたいのか、
ルールを改革することによって不適応を覆い隠したいのか、
政治批判をしたいのか、スピリチュアル商法を残滅したいのか、
自分の居場所や無くした自己を探しているのか他色々。

南さんは色々手を出しすぎて、どれも中途半端になっている
師匠がいないからそんな初歩的なこと
だれも助言できなかったんだろうとおもう。

しかし、名が売れてるから野望は達成したんだろうね
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 05:04:15
「畜生」の方が人間より賢くて悟りをひらいている、とか言った禅師は輪廻転世を信じていたのかどうかちょっと不思議だよね。

来世の自分が「畜生界」に陥らない為、現世せいぜ良い事を行いましょうっていう輪廻観は、畜生界は苦しみ悩む苦痛世界だという前提があって初めて成り立つからね。
猫犬狸の畜生様は実際には悩みが無いらしいから、論説が矛盾して来るね。
返信する
自問自答 (Unknown)
2016-07-18 02:57:28
後輩が水差しを蹴飛ばしたのは、蹴飛ばしても壊れないと知っていたから・・・
床にこぼれた(?)水も後で拭き清められると知っていたから・・・。

もし油で満たされた火の付いた行燈(あんどん)なら壊れるだけでなく、火事になるから蹴飛ばせない。

じゃあ蹴飛ばした事をもって、習慣的な概念思考を捨て去ったとは言えない。
結局習慣的な概念思考の中での(多少の変則的な)行動の枠内に留まる奇抜な頓智に過ぎない。
これで本山の跡継ぎを決められては他の弟子たちはやるせない。

全く理不尽な社会だなァ~。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 02:25:06
仏教の目指すところってさ、智慧と慈悲の完成じゃないの?
肥溜めから脱出しなくちゃ、くちゃいくちゃいままだよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 02:18:13
肥溜めか〜。

せめて泥の中にしない?
蓮が仏教の象徴なんだし。。
返信する
Unknown (ZIP)
2016-07-18 02:02:50
世の中が肥溜めである事の理由
① 宗教の存在
② 哲学の存在
③ 娯楽の存在

① 肥溜めの中で苦しむ人々を救う為に、世の中が肥溜めである事を自覚させる。あるいは、浄化作用を持つ救済者の存在を知らしめる。

② 世の中が肥溜めである事の理由を考える。

③ 肥溜めに居るのを忘れさせる。

肥溜めに居る事が自覚出来ない者はある意味幸福と呼べる。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-18 01:07:35
今回のコメの中にも登場した「ぬこじいさん」こと板橋師、
「(息身佛46ページ)《政治に支配された》本山の修行道場では目にした事がない井上老師の解脱した圧倒的な存在感と無重力のような仏法に参ってしまった私は、~~本山を正式に退籍し~~、電気も無い小さなお堂(で)ランプ生活をしながら井上老師に参禅したのです」。

これは南師が、習慣化された既存概念(=仏教プロ野球団のルール)が平然とまかり通る永平寺での生き易さに沈んで、(未来の)奥さんから「あんた、それでは人間的にだめになるよ」と忠告されて、恐山への下野を決意する経緯と共通する処があります。

で板橋師も色々問題意識があって悩み苦しみ煩悶したが、50歳を過ぎる頃になって、自然と問題意識がなくなって、

(63頁)「(この世の全てのモノは)そのまま(ありのまま)で完璧である」という心境に自然となって(=達観する、突き抜ける)、(76頁)「ごく当たり前に、ごく自然に、道理にかなった生き方」(が出来る様になった)。

(187頁)それは道元禅師の悟り「眼は横に在って、鼻は縦に在る。(仏法がなんだかんだとケンケンガクガクは不要ナリ)」や
瑩山禅師の「腹のすいた時は食べ、疲れた時には寝る、平常心(こそ)道(である)」(の境地と同じである)、という結論に至った。
(それは釈迦が晩年「この世は美しい、人生は甘美だ」といったと言う心境に通じるのだ)。
(よって吾輩は猫を30匹飼っているんじゃよ、むにゃむにゃ!!)。

さて皆さん、諸行無常の世に在って、
ミナさん(=南さん)が板橋師の歳になる迄にどのように化けるか(31歳違い)。慈悲の眼で見守りましょうや、エヘン!!

注)人はウンチを喰って生きては行けない!!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 23:58:51
たかだか1つの生き物から発せられた音。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 23:43:51
だから言葉なんかいくら狩ってもしょうがない
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 23:42:39
慈悲という名の人を斬る道具 も「あり」

「ポア」みたいなもんだな
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 23:40:57
「思考すべて脳のサンスカーラだからね。
JIPちゃんの脳が「無慈悲な肥溜め」ってことになるね、結局!!!
君の脳のエネルギー源はウンチなのかな??」

これって、なに?
慈悲心にあふれた安らかな発言なの?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 23:39:07
Zip君、俺は君がこのコメ欄を見てる意味が解らないのよ。(イエスちゃん含め)
博識で自分なりの確固たる考えを持っている様に見える君が。。
バカはムカつくから?
勉強不足な奴を正したい?
解った様にコメする奴を論破したい?

余計なお世話だと解った上で、最近の君のコメを見ていると、リアルで問題が有るのではないか?と思えて仕方がない。
論理的には一番近くに居るかもしれないが、現実的には一番遠くに居る様に感じる。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 23:26:09
非戦でしょ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 23:06:48
>およそ無慈悲な肥溜め~~

思考すべて脳のサンスカーラだからね。
JIPちゃんの脳が「無慈悲な肥溜め」ってことになるね、結局!!!
君の脳のエネルギー源はウンチなのかな??
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 22:58:52
そゆえば、芥川賞を取った玄侑宗久さん(臨済宗)の小説「中陰の花」で臨終のおばあさんの「自分が死んだらどうなるんでしょうか??」とかの質問に答えるシーンがあるよね。

で、彼の論理の持ってき方が、「どうやら人は死ぬ時1グラムだか体重が減る。これが魂の重量に違いない。物理学専行の友達の計算によるとそのエネルギーは100メートルプール何個分(?)かの水を一瞬の内に蒸発させるほどの莫大なエネルギーを放射する。オ~これこそ魂存在の科学的証拠!!!」とかなんとか。

で、直ちに私の反論は、「じゃあ殺人された被害者はそのエネルギーで相手(殺人鬼)を即座に焼き殺しちゃえる筈なのになぜそんな事世の中に起きていないのだ、おかしいな~」、と言うモノ。

ほんと人は色々でありまする。
返信する
Unknown (ZIP)
2016-07-17 22:52:03
そろそろ幼稚園児のような物言いは止めたらどうだろうか。
およそ無慈悲な肥溜めの様な現実世界で生きていかなければならない我々にとって、あの世だとか、輪廻だとか、安らかだとか、おためごかしの言葉は無用である。肥溜めの中でクソを喰らう様なものである。
それでも美味そうに見えるのであれば、好きなだけ喰らえばよい。そして満腹して自分の人生を肯定して死ねばいいのである。肥溜めのクソにまみれた、さも美味しそうに見える言葉と共に。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 22:14:19
人間は皆弱い
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 21:43:54
わたしに慈悲心がなくても
あなたはわたしに慈悲心を持って接して下さい

と言って、通りますか?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 20:53:48
慈悲心をもって、お互い安らかでありたいよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 14:58:51
例えば南さんがわたしに
「オレ、良いとこ行けるかなあ?」って聞いてきたら、
「え?今なんて?」
とか言って臨終を待つ自信がかなりある。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 14:55:11
「っていうケースは、相手を憎んでいて地獄に落ちろと思っているケースだよね」

まあ、それでもいいけど
そんな100:0みたいなんじゃなくても
「聞こえなかったことにしとこー」とか。
「行ってみたらわかるじゃん、今答えなくてもー」とか
そういう感じで自分の気持ちをキープする、みたいなの。
やりそう、わたしw
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 14:21:43
ハエや蚊をバシッと殺すけど、もし彼らが輪廻信奉者で「俺って良いとこにいけるかな~」って君に聞いて来たら、殺虫鬼の君は何と答えるかね???

輪廻転生って怖いよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 14:15:33
>具体的に考えると「言えないかも」って思うケースはある

っていうケースは、相手を憎んでいて地獄に落ちろと思っているケースだよね。
これは慈悲・利他行の大乗仏教の対極の感情。現実世界では十分ありえる。で自分自身の心も汚す。そういうどうしようもない感情の時もある。

>真理の教師で有ろうがなかろうが、「俺、良い処にいけるかな~」って不安がっていたら、「いけるよ、絶対!!」と安心させるのが慈悲・利他行だよね。自分の感情・信仰とは関係なく。

さもなくばここぞとばかり、相手に復讐する絶好のチャンスと見なすか???
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 13:38:40
例えば、わたしが南さんだとして。

(ああ、もう、ここで全部、意味なくなってるなあ)

「ああ、こいつも『真理の教師』だな」と思ってる人が、
臨終の間際に「オレ、良いとこ行けるかなあ?」って苦しい息の下から問いかけてきたら。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 13:34:54
あ、でも、具体的に考えると「言えないかも」って思うケースは、あるな。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 13:22:23
…そんなの「普通のこと」だと思うけど。

逆に、そんなことにまで「真髄」持ち出さないと、やれないの?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 13:13:16
「臨終時、「良いとこに行けますかね」と問われれば、「きっと、いけるよ」と答えてあげるのが慈悲・利他行。大乗仏教の真髄じゃないかな。」

真髄なんか知らなくても、たぶん間違いなくそう言いますね、わたしも。
ま、まかり間違ってわたしに向かってそういう問いが発せられた場合は、というとてもまれなケースを「想定して」の話ですけどね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 13:05:07
死後は「無記」ですが、
「極楽浄土に行ける」と思って生きている方が楽です。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 12:42:29
そいえば思い出しました。
私の知りあいの85歳の男性の仏教会でのお葬式。私から見ると非常に温厚で地域社会でもよく活躍していた仏教徒。

焼香済ませた後、住職の講話で曰く(参列者150人位??)「ご主人が奥さんに向かって言った最後の言葉で奥さんが悩んで泣いています。
彼は奥さんに向かって『お前は地獄へ行け』って叫んで脳溢血を起こして死にました」。
何か夏目漱石の『虞美人草』の結末みたいです。

ご住職様教えて呉れてありがとう。
バカ住職め、そんな事、参列者の前で暴露して何がいいのか!!(怒)
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 12:15:14
臨終時、「良いとこに行けますかね」と問われれば、「きっと、いけるよ」と答えてあげるのが慈悲・利他行。大乗仏教の真髄じゃないかな。

自分がどう信じているかは一切無関係。なぜなら、自分の信心も仮説に過ぎない。誰も
証明したわけでない。なぜ固執せねばならぬのか。神でもないのに・・・。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 11:09:45
それを「僧侶として、言いますよ」って。
「密室の中で」「2人の間に成立するだけ」のことを「想定して」
「密室の外の人間に宣言する」って、なんなんですかね?
それはもしかして「承認欲求」とかいうものでしょうか?
それが「卑しい」とかいえるほど、わたしはきれいさっぱりな人間じゃない。
でも、「すりかえてませんかね?」って思うんですよ。
「僧侶は生き方です」
「僧侶として『おばあちゃん行けるよ』って言います」
「(でも)輪廻は不要です」
じゃあ輪廻は不要ですって言ってる南さんは「生きてない」んですか?
わたしは「それすり替えてるでしょ?」って思うので、そういう人に「全財産つっこむ覚悟」の相談はしないと思う。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 10:57:44
だからといって「輪廻というアイディアは不要、もっと言えば有害だ」という南さんに「よく言った!」とかって拍手したい気持ちはサラサラない。
だって南さん、六道輪廻のお地蔵さんのお膝元の肩書で商売してるじゃない?
そういう人が言う「輪廻は不要」なんてご高説より「私良いとこいけますか?」って全財産つっこむ覚悟のばあちゃんのほうが「凄い」の、わたしにとっては。
私に言わせれば、そこで南さんが「行けますよ、ばあちゃんが行かなくて誰が行くんです!?」って言ったのは、ばあちゃんの覚悟に気圧されたんだよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 10:48:57
わたしは、とりあえず今のところ、輪廻については「そりゃないわー」と思っている。
それは、南さんのご意見によって開眼したとかいうたぐいのものではなく
南さんが何を言っているのか知る前から「ないわー」と思っていた。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 10:45:03
それは、南さんが輪廻を不要としていて、良いところに行けると言ってほしいわたしの気持ちにそぐわないことがわかっているから
「ではない」
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 10:29:32
あ、もうちょっと正確を期するとだな
「少なくとも南さんに向かって『わたし、良いとこ行けますかね?』とは聞かない」
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 10:28:20
密室の中でのことを
スリランカ人に宣言する必要性ってなんなんですかね?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 10:27:22
ばかじゃねえの?
そもそもわたしは「良いとこに行けますかね?」って聞かねえんだよ。
返信する
貴方には「地獄などない」と答える これこそが方便 (イエスちゃん)
2016-07-17 10:00:08

『おばあちゃんに聞かれたら答えますよ
良いとこいけるって
たとえそれ言ったら地獄に落ちるぞって釈迦に言われても言います』

これは「そのおばあちゃんと南師との二人の間だけで、密室の中で」で言える事。

貴方との間には、成立しない!

貴方は、「輪廻」とか、「地獄」とかに彷徨っているので・・・
「地獄など存在しない」と答える。筈だ。
返信する
「吾輩は猫である!!」 (Unknown)
2016-07-17 09:58:14
①.高名な禅師の膝に猫が寝て居ました。
禅師は弟子たちに問うて言いました。
「私の膝の上に居るモノを猫と呼んではいけない・・・。では何と呼ぶかね」。

食事係の後輩が何も言わずに猫を蹴り上げて出て行きましたとさ・・・。

これってありやなしや??。

②.禅師が弟子たちに問いました。
「私の事を禅師と呼んではいけない。ではなんと呼ぶかね??」

後輩弟子は禅師を蹴倒して出て行きました。これはありやなしや???

(もし蹴飛ばす事がないとすれば)なぜ後輩は対象によって異なる行動をとるのか??

返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 08:33:11
>初老のおじさんの思考回路

ふ~~ん。そういう言い方をする君は未熟者の思考回路なのかな??
それとも自分こそは何でも分かっていると思っている賢者の思考回路なのかな??

89歳の板橋師は古老の思考回路と呼ぶべきなのかな??
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 08:02:45
まあ、南さんは大卒で永平寺に何十年も在籍したんだから、資格に不足はないんだろうな。
わからないのは「法を嗣ぐ」に関するシステムだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 07:55:02
ちょと調べてみた
お寺の格によっては住職になる必要資格が違うらしい?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 07:37:42
ああ、でも、無住のお寺に住職さんで入るってなったら、前任者から引き継ぐことはできないんだから、一回なってればいいのかな?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 07:31:52
それとも、服従殖産
もとい、副住職さんに就任してる時点で厳重殖産から
もとい、現住職さんから法を嗣いでいるのか
それとも、どこかで住職さんやれるようになっていればあとはどこでもOKなのか
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 07:28:38
お坊さん業界というか、曹洞宗僧侶業界のしきたり?全然知らないんだけど、
南さん、住職さんやってるから、誰かの法を嗣いでるんでしょ?
先年亡くなったお師匠さん?
でも、恐山(というか、本坊)は副住職さんでしょ?
そこの住職さんになるにあたっては、現住職さんから法を嗣ぐ必要があるの?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-17 06:45:15
知性だか知識だか知らないけどね

そういう分け方自体、やれやれな感じする
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 23:42:01
「知性」とは、
答え(正解)のない「問」を問い続ける能力。生まれつきそういう事が出来る人は人間の中の5%位か?
持続エネルギーがいるしタフでなければならない。これは少数派。
南さんはそういうタイプの人と言ってよい。

一般的な教師は既に答え(正解)を持っていて、人に正解を伝授することを役務とする。
「知識」の有無が主眼。これが多数派。

どちらもこの世に必要!!
返信する
チーズのありか (Unknown)
2016-07-16 23:03:38
禅問答社会で育つと、自然とチーズの在りかを自慢しあう事に成るよね。

誰がより優れているか判定する為に、
「水差しと呼ばなければ何と呼ぶ」とか、「瓶と呼ばないで何とよぶか」とか、

「新しい水差しの呼び方なぞ出て来る筈がないのです」と禅師は知っていて、弟子たちの間で頓智合戦させるわけです。で、機知に飛んだ者を高位にあげる。
悟るものと悟らない者を差別化していく。
それでいて他方では「仏法を知らない者の方がかえって仏の智慧がある、畜生は人間より優れているのだ」とか言ってニンマリしている。

そういう社会なんだな、と思い始めました。まあ知恵を授ける学校だからね、しょうがないかもね。
(でも今生きている一般人に生きる為の道しるべを与えられなければ、自滅もあるね)。

注;(現代人用豆知識)
一般的には、水・液体を入れる容器で、
取っ手が付いていれば水差し、取っ手が付いていない物を瓶と呼ぶ(らしい)。


返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 21:34:15
だからなるべく自分の考えだけに執着しないで
他のおぼうさんと協力して
人の心に残るものを残していってねという
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 21:32:18
南さん以外に有名なお坊さんは沢山いる
ファンのひとは南さんしか見えなくなっているけど
かなり理想化しすぎなんじゃないかな
実存主義を前に打ち出す以外は
思想自体はそのへんにいる普通の初老のおじさんの思考回路だよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 20:08:34
どうでもいいけど
チーズはどこいった とかいう本があるでしょ
南さんは小人だとすると
冒険家のネズミが休憩していると「臆病になるな!」
感性で生きてるネズミに「日本語喋れ!」
とか渇を入れてなさる
たまたま相手が臆病な小人だったりすると、
「臆病になるな!言葉に頼るな!」説法がヒットして有名になる

個人的には、チーズのありかを自慢して脚光を浴びるより、
ネズミの努力を影ながら支え、
言葉を翻訳してあげたらいいのに と思う
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 19:44:24
存在意義じゃない?カーストも無いし、地域で寺を守る習慣も薄くなっているし。
黙ってたら維持出来ない。変えるしか道は無いでしょ?
自分の事だけ考える。っていう逃げもあるけど、大乗だからね。結婚してその道を断ってるんですよ。男じゃないっすか!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 19:29:00
>批判すべき対象は無視して


無視されてるの?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 19:16:22
南さんは御自分を聖教分離においての聖だと思い込んでる節があるけど
哲学流用する以外は、俗の塊だとおもうんだよね
別にお坊さんじゃなくて学者のほうが向いてるんだと思うけど、
何がしたいんだろう。日本一の住職になりたいの?
道元さんの意向が全然理解されていない

批判する係りではあるけど、批判すべき対象は無視して
批判する意味がない小物だけ相手にしている
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 18:27:42
待機説法って、「言を左右にする」とは違うんでしょ?
返信する
「嘘も方便(正しい方法)」 仏教は「対機」説法。 (イエスちゃん)
2016-07-16 13:14:54
『スマナサーラ長老への批判は、
自分の人生の問題を解決しようと発心したのではなく、
少年の時に、単に頭がいいからと、スカウトされて、
職業として僧侶をこなしている。』

幼少からお経を「ひたすら暗記する」事で精神形成した。

他方、道元和尚の場合は、お経をそのまま信じるのではなく、比叡山の教え、
お経に対して一大疑問を抱いて、
それを解決する為に、いのちをかけて中国に行き、そこで命がけの修行をした。
(実際、同行した師の明全は、中国で病死し、遺骨を日本に持って帰った)

『もしも、お経に書いてある様に、人が本来仏ならば、
なぜ、わざわざ修行をするのか?』
の疑問を解決した。

お経に書いてあることをそのまま信じるのではない。

○ ○ ○ ○

『えー、だって地獄信じてないのに何のペナルティにもならなくない?
とか
輪廻ちゃんと意識してるじゃない
とか』

南師ご自身は、
「地獄の存在を信じてはいらっしゃらない」
「輪廻は不要である」

釈尊の仏教では、
「縁起」「業(行為、行)」のみが重要であると。

釈尊が、

生死 事大(しょうじ・じだい)
無常 迅速(むじょう・じんそく)
各宜 醒覚(かくぎせいかく)
慎勿 放逸(しん・もつほういつ)

生死は仏の一大事、
時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、
各人はこのことに目覚めて、
弁道精進につとめ、無為に過ごしてはいけない


ここで「業」の考えは、
修行を行えばその結果がついてくる、を保証し、
修行の動機付けになるから、重要である。

修行する基体としてのみ、仮に自己を立てる。
そして、目覚めたら、この自己も捨てる。

あたかも、大河を渡りきったら、
筏を捨て去るように。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 12:26:23
これもたぶんスリランカ人との対談本にあったような気がするんだけど

おばあちゃんに聞かれたら答えますよ
良いとこいけるって
たとえそれ言ったら地獄に落ちるぞって釈迦に言われても言います

みたいな

えー、だって地獄信じてないのに何のペナルティにもならなくない?
とか
輪廻ちゃんと意識してるじゃない
とか
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 12:21:26
輪廻って言ってないから
でどうにかなるとお思いなだけあって?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 12:18:52
あれ?
じゃあ
くそかきべら
もNGかしら?
返信する
戻っておいで …言語批判に (イエスちゃん)
2016-07-16 07:44:25
スマナサーラ長老批判は、単に頭がいいかれと、
スカウトされて、職業として僧侶をこなしている。
ひたすらお経を暗記して、金科玉条にしている。
言語でしかないお経に対して、批判しない。
釈尊の仏教からは、脱線している。それが問題である。


人間は言語を使うため、

釈尊の仏教も、紀元前2世紀には、とうとう

所謂「小乗仏教」において「説一切有部」になってしまった。

プラトン哲学・イデアの世界観になってしまった。







『般若経』は、この所謂「小乗仏教」を批判する為に、創作された。

だから、当時の所謂「小乗仏教」の教を理解する必要がある。







曹洞宗の洞山良介禅師は、小僧の時に、『般若心経』の




無色 無受想行識

 無・眼耳鼻舌身意

  無色声香味触法 





この無・眼・耳・鼻…で、つまずいた。

眼も耳も鼻も、実際あるではないか!と。




だからこそ、天才である!

栴檀は双葉より芳し!




行深般若波羅蜜多時

 照見五蘊皆空 ・・・
色不異空 空不異色

色即是空  空即是色

 受想行識 亦復如是







そして・・・


洞山禅師は、この疑問に苦しんだ。

しかし、

洞山禅師が雲巖和尚に質問した。

無情が説法するとは、何なのか?と。

(高祖洞山悟本大師、參曩祖雲巖大和尚問曰)、



也太奇、也太奇、
無情説法 不思議。
若將耳聽 終難會、
眼處聞聲 方得知。





なんと無生物が説法する、これ不思議。

もし、耳で聞こうとすると、結局、不可能!

眼において声を聞けば、正さに知るを得!




所謂「小乗仏教」では、

「眼は見るものであり、声は聞けない」と確定している。




般若心経のこれは、スマナサーラ長老は、決して許さない。




見るのと聞くのが混然一体している世界が展開される。

分割できない世界。分別しない世界。

言語・概念で、世界を有無・是非で、観ない世界が出現する!







釈尊の仏教は、言語批判である。

竜樹菩薩も『中論』で言語批判である。

道元和尚も『正法眼蔵』で言語批判である。

だから、必然的に、中国語ではなく、日本語で主著を記述した。

日本語で考える弟子たちなので、言語批判はそれしか選択肢はない。

他の法然、親鸞、栄西、大応・大灯禅師、日蓮、…みな中国語・漢文で。




水を差しますが、一旦、ここでUPします。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 05:14:21
南泉普願和尚・・・
「仏法が分かる者よりも、仏法が分からない者の方が、かえって仏の智慧を持っている」

俺は狸じゃぜ!!
プロ野球のルールなんてくそくらえ!!
仏の智慧をもってる俺の勝ちじゃ、エヘン!!!

素晴らしい理論・教え、それは無用です・・・イエスちゃんさん言。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-16 03:00:12
このおはなしは
よくある言葉がテーマなのではなくて
それさえも含めた全体としての生き方をあらわしているだけ

最後のオチが禅というより
豊臣秀吉の懐のわらじみたいなので、僧侶っぽくないです
慣れない自己啓発を実践してみたエリートっぽいです

もう少し地味目で汚い感じにしたほうがパンキッシュでカッコイイとファンから思われます
頑張って
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 23:33:07
でももしかしたら
「それこそが仏教です」かもしれないし
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 23:30:47
…いくじなし…

という言葉が降ってくる、とか
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 23:22:03
これは、何が違うんだか違わないんだか?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 23:05:41
「只管打座で、がんじがらめになった自意識を解体して、一旦原点に戻り、新たかに心をリセットをすることは、此のストレスの多い世の中で大いに効果あるに間違いありません。冷静に生きる事が出来るとおもいます。」

冷静に生きてくれたまへ
どうぞ
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 23:04:15
「Sさんは正解が解っていると自称してる筈だよ」

ふむふむ

南さんは「みんな」と言いました

ふむふむ

ふーん
て感じ
返信する
私の周りの自死の人 (Unknown)
2016-07-15 23:01:48
カオスだねぇ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 22:55:15
曹洞宗→坐禅または正法眼蔵に置き換えてみる。

慈愛ならいいでしょ?
返信する
水差しは「組織(有機体)」 (Unknown)
2016-07-15 22:20:59
組織にはビジョンが必要である。
水差しという社会の役割が必要である。
役割を禁じられると自壊していく。
残骸は蹴っ飛ばす以外にしょうがない。

「水差し」は「曹洞宗」である。

或る禅僧が弟子たちに問うた。
「諸君の前に在るモノを曹洞宗と呼んではいけない。ならば、君たちは何とよぶかね??」

習慣的な既存概念を捨てよ、そして・・

蹴倒した曹洞宗を丁寧に拭き清め禅師の前に戻し、厳かに合掌礼拝して、
「これは曹洞宗です」と言いました。

南師は曹洞宗を愛している。
(おっといけない、仏教では「愛」は似合わないと南師が言っていた!!)
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 22:02:22
そ~か、ぬこじいさまって板橋師のことかな??
S長老・板橋師の対談(質問解答)のユーチューブ聞いたけど、確かにSさんの発声がわかりにくかったよね。
でもそれは外国人の発声を解らない君や僕の無明が悪い訳だよ。辛抱しようね!!
Sさんは正解が解っていると自称してる筈だよ。論理の持ってきどころが日本人と違うだけだね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 21:46:57
私の周りの人で被害妄想が高じて自死に到ったケースが二つあります。1週間前に起きたケースと20年位前のケース。
それ以外にもドラッグの副作用で被害妄想になってひたすら暗い密室内で恐怖におののいているケースや逆に仮想迫害者を糾弾しているケース等3ケース見聞きしています。

色々な理由で人の脳は暴走するのです。誰にでも起きるチャンスがあるのです。

私も寝ている時に、何度か、怖い夢にうなされ金縛りになったことがあります。やはり後味悪い思いに成ります。ビビります。

前述の人達はそれが習慣的な白昼夢となり、恐怖に耐え切れなくて、永遠の逃避行へ逃げ込んでしまった結果なのでしょう。

逆に善意的に、恐山のイタコや沖縄のユタは職業的にそういう脳状態を白昼引き起こせるわけだし、禅病も脳作用の結果なのでしょう。一旦、心を抑制している脳の機能を取り外すと人の脳は暴走します。

その辺の仕組みを十分にわきまえて、上手に使えば絶妙な良薬となる事も確かです。

只管打座で、がんじがらめになった自意識を解体して、一旦原点に戻り、新たかに心をリセットをすることは、此のストレスの多い世の中で大いに効果あるに間違いありません。冷静に生きる事が出来るとおもいます。

そういう意味では南さんは物事を、冷静に、的確に、客観的にみている筈です。

すべてが脳のサンスカーラで、益するも害するもすべて、そういう脳の使い様次第という事なんでしょう。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 21:24:16
要はS氏本人も何が正解か解らんってこと?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 21:16:20
試されてる
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 20:29:32
国会答弁かみたいな。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 20:28:35
そういえば、たしかその、スリランカ人との対談本で、
南さんがスリランカ人に「おたくのレベルで行くと俺はどのくらいの段階にいるの?」
って聞いてたところがあったと思うんだけど、
しかもスリランカ人は、なんだかうやむやとごにょごにょと言って終わったみたいだったけど、
あのへんとか、なんかへんな感じだったわ。
あのスリランカ人はわりとあんな感じでごにょごにょもごもごする感じなのかもだけど。
ぬこじいさまと並んでるときも、長いばっかで何言ってるのかよく分からなかったし。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 19:12:08
あれ?サンプルは「採取」かな?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 19:09:45
「南さんの言うことを理解する日本仏教僧侶は皆無」
について言ってるからね。

皆無といえるほどのサンプルがあるんですか?
どうやってサンプルを抽出したんですか?
みたいな話ね。

南さんがわざと、いかにも人の言うこときかなさそうな坊さんを選んで話を振ってるかもしれないし。
南さんの身近にいるのはなぜか「真理の教師」ばかりなだけかもしれないし。
「南さんが『これまで私が話したことのある日本仏教の僧侶はみんな』と言ったから『皆無』」なんて話じゃないでしょうね?
ってことね。

で、ぬこじいさまとの対談を希望します。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 12:36:55
>事実を反射してるかどうかは南さんがどう思ったかに依るのか、あなたがどう思ったかによるのか??

客観的な事実にしろ、脳内妄想(幻覚・被害妄想)にしろ南さんにとっては真実とみなすでしょう。たぶんウソ発見器では判別できないと思われます。読み手が自らを賭けて相手の言及を(真実として)信じるという事に尽きます。

さらに厄介な事は、もしかして私が作為的に相手(南さん)の言葉尻を取らえてある方向に引きずり込もうとしているのかも知れない訳です。

私の言及が真実かどうか納得いかない場合はご自分で調べ、追跡してみる必要があります。なんか反論的証拠が見つかったら発表してください。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 09:55:40
否定の否定の無い無いづくし。
般若心経みたいだね。
返信する
Unknown (御坊哲)
2016-07-15 09:22:36
水差しは水差しにあらず、これを水差しと言う。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 07:01:22
「出家の覚悟」って例のスリランカ人との対談?
わたし、それ読んだと思うんだけど、あんまり話がかみ合ってるような気がしなかったんだよね。
列挙してくれた一つ一つを憶えてはいないんだけど、というか、挙げてくれた中で憶えているのは「信仰とは共感」ぐらいかな。
それも、その言葉に「共感」したわけじゃなくて、「あれ?こんなこと、誰かも言ってたな」っていうふうに憶えてる。
で、全体的に「なんか変な流れ方してる気がするんだけどな、この対談」と思って読んでいたから
そこに書いてあったことを「事実の反射」として持ってこられても「共感」できないわぁ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 06:49:33
事実を反映していないなら妄想、そうでないなら事実の反射

そうなんだ。

で、事実を反射してるかどうかは、南さんがどう思うか(どう言ったか)に依る、の?
それともあなたがどう思ったかに依る、の?

わたしは、例えば、読んでみたいなあ。
曹洞宗の坊さんに「あなたは真理の教師でわたしは~」とか言ったらどうなるか。
だから「全然片付けられないんだけど、どうしたものでしょうか?」「わたくしもでございます。どぉじょぉいたします。」とか言っちゃう人に言ってみてほしいわあ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 04:56:50
南さんが感じている事が事実を反映していないなら、それを幻覚とか被害妄想と呼ぶのでしょう。でないのなら南さんの言及は南さん以外のニッポン僧侶がどう思っているかの鏡(反射)なわけです。

「出家の覚悟」
57頁。(自分が)「信仰とは共感だ」と言って、(日本にいる)お坊さんで「そうだ」と言ってくれたのは、(S)長老だけですからね。

73頁。往々にして、日本の僧侶の場合、~~、複雑な悩みを持ち込まれると、すぐ「念仏すれば何とかなる」とか「黙って座っていればいい」という話に、急にすり替えて行ってしまう~~(でも)いくら坐禅しても、今この人が苦しいということはすくい取れないのですね。~~。(だから)日本の仏教教団(には)非常に足りないものがあると思うのです。
155頁。(坐禅から)自意識がもろいと言う事だけは身に沁みてわかる経験だけど、それをもってして、坐禅したらある境地になった、だから悟りましたというのは、バカげた話です。134頁(一方)日本のお坊さんは「悟りはスーパーマンでないといけない」という話に持ってってしまう(けど)、(私は誰でも、ちゃんとやれば悟れるのだというS長老の感覚に近く)日本のお坊さんと話していると時々話が通じ無くなる。

127頁。(日本の仏教界では)「言葉を超えた真理」(とかの安直な答え方をする)。128頁「言葉では言えない真理です・・・それはあなた、坐禅すれば、一度にわかるのです」などという。私としては「そんな簡単な話ではすまないだろう」と思いますね。

168頁。問題を抱えている人に(仏典を引用しても)届かない。仏教の教え(=仏典を)を羅列しても意味が無い。(自分自身の生きた言葉で)ブッダの智慧(を持って対話するべきであろう)。

85頁(仏典は)いつ言い出したかわからないような言い方のままステレオタイプに(使わ)れてしまい(そこで思考停止して)、その先、議論できないのです。~~、特に『正法眼蔵』の場合、どこ(の解説本)を見ても、まさか『眼蔵』がこのようなことを言っている筈がないという本しかないわけです。そうすると、違う分野の本(=西洋哲学書類)を読んだ方が、一度で解る時があるのです。

86頁。教えの(=考えの)違いを言い立てて(=自分の意見を主張する時)、何が真理か、何が正しいかとすぐ言ってしまう(=独善的・断定的になって、他意見を排除する)と、議論の幅が狭くなるのです。

136頁。或る人(=多勢派)は「坐禅について語る事自体、駄目です」などと言うわけです。「それは言葉で言うことではない」と。これは、私はおかしいと思うのです。~~、(坐禅に関して)人にある程度通じるようにきちんと(説明している)お坊さんは(まれです)。~~。すると、この人(=お坊さん)は坐禅と称して何をやっているかが、僕にはよくわからないわけです。

150頁。(南さんの坐禅の考え方を)曹洞宗の中で言っても批判も共感も無い(=無関心にスルーされる)。それでいて、外部の一般人で、坐禅も何もしない人が妙にファンになってくれたりする。
(いまS長老の意見を聞いて、初めて)「ああ、では、ぼくの考えも通用するんだな」と安心しました。

240頁。南さんタイプの人(南さん流考え方をする人は)人間の中の5%位(だ)

エトセトラエトセトラ。

注;これらは南さんの一断面に過ぎないのも事実でしょう。南さんの栄光ある、堂々たる異端者思考の数例を抜き出しました。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 01:24:40
あの人なら「歴とした曹洞宗の人」と言ってさしつかえないでしょ?
「あなたは真理の教師、わたしは足もと覚束ないまま開き直った少数派ですよ」
ってやってみてほしいな。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 01:14:55
例えば猫だらけのお寺の住職さんとかとお話ししてみてどうなるのか試してほしい。
例のスリランカ人と並んだところで美味しいボケをかましてくれて楽しかったので
南さんちょっと並んでみてほしい。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 01:00:20
南さんの言うことは「是」で
他の人がいうことは「非」なら
それを分けるのは「好み」あたりかなあ
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 00:58:01
南さんが他の人を「あの人達ってこうだよね」「俺あーゆー感じムリ」っていうふうに「理解した」なら
他の人が南さんを「あいつあんなんだよな」「なんなのかねあれ」っていうふうでも、それも「理解した」かも。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-15 00:44:03
…だから、それは、南さんが他の人を見てどう思うか、ではないの?
他の人が南さんの言ってることを「それ仏教じゃないし」とか「何言ってるの?」とか言ってるのは?
返信する
南さん流?? (Unknown)
2016-07-15 00:18:36
「『正法眼蔵』を読む」、「出家の覚悟」等で南流論点が語られていますが他の著書や公開対談でも南さん流が随所に見て取れると思います。

多勢(特定の閉鎖社会内での常識派)に組し無いアウトサイダー立場での言論活動をされていると感じます。これだけハッキリと公的に自負を語れるのは、
ウ~~ム、眞に正々堂々たる開き直り!

『出家の覚悟』巻頭部に曰く;

私は仏教、釈尊や道元禅師の教えが「真理」だと思って出家したのではない。私は、自分自身に抜き差しならなぬ問題を抱えていて、これにアプローチする方法を探し求めた果てに、仏教に出会ったのである。つまり、(私にとっての)仏教は問題に対する「答え」としての「真理」ではなく、問題解決の「方法」なのだ。~~。
多数派はタイプが違う。彼らは、仏教を「真理」、つまり普遍的かつ客観的「答え」として語る。私が身もだえしているような、小さい問題に対して有効であろうとなかろうと、それ自体が「真理」として厳然と存在する~~(=多数派の考え方)。
(そういう)多数派における、ほとんど完璧な論理と実践を体得した(と自負している多数派経典主義)者と、足もと覚束ないままに開き直った少数派修行僧の間の、懸隔であろう。~~。
(多数派は)真理の教師(としてふるまう者)、私は「問題」に迷う生徒だったのだ~~。
(しかし)上座部の仏教は内部批判の力で生き残った(のだとS長老から教えて頂いた事がとてもありがたかった。なぜなら自分のアウトサイダーとしての体制批判にも意味が在るからだ・・・大乗仏教が今生きている一人一人にとって、真に生きた意味あるモノと成る為に・・)

注;(~~)はコメ者の注釈。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-14 18:51:47
「南師を理解出来る日本仏教僧侶が皆無とか言うのもわかるよね。」

え?そうなの?
南さんが「私はそうは思いません」とかやってるのはよく見るけど、
他の人が「南直哉ってのは何言ってるのかさっぱりわからんな」って言ってるのは知らないんだけど
どこにあるの?
返信する
唐代の禅僧たちの膨大な集団が切磋琢磨して求めて進んだ運動への信頼 (イエスちゃん)
2016-07-14 16:56:44
唐代の禅の修行集団に対する信頼が重要と思っています。
みんなが何を問題にして「協力して」追究して行ったのか?
多くの師の間をへんさんして修行して行く。
現在の日本ではなくなっている。

書物の世界で疑似体験、追体験できるのみ。



『為山―為仰の教えとは何か』
(唐代の禅僧) 単行本 – 2007/9
尾崎 正善 (著)

父子関係にたとえられるその弟子仰山(きょうざん)と共に、中国禅宗の「五家」(曹洞宗・臨済宗・雲門宗・イ仰宗・法眼宗の五派)のうち、最も早く成立したイ仰宗(いぎょうしゅう)の祖イ山。作務を重視し、自らを「水コ牛」と称したイ山は、一方で臨済を評し、洞山の参学を指示した逸話が残る。道元禅師は著作にその行実を多く引用するなど、後世からの評価、後世に与えた影響は大きい。その生涯と弟子への接示にみる禅風等をはじめて1冊にまとめる。

のちに法系が途絶えてしまったため、日本ではあまり馴染みのないイ山・イ仰宗であるが、道元禅師はその著作でイ山の言葉を多く引用し高く評価するなど、後世に大きな影響を及ぼした。またイ山の著『イ山警策』は「仏祖三経」の一書として有名な初学者のための入門書で、日本で最も古く開板された禅籍のうちの一書。本書は、イ山の生涯と弟子との問答、臨済・洞山との関わり、『イ山警策』についてなど、イ山・イ仰宗についてはじめて1冊にまとめた好著。

1961年生まれ。鶴見大学文学部文化財学科准教授。著書に、日本の名僧9『孤高の禅者 道元』「道元の清規--修行生活のマニュアルへの批判」(吉川弘文館、共著)・『菊隠和尚』(訓註曹洞宗禅語録全書中世編11、四季社)がある。




返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-14 15:36:34
悟っちゃいそうな人と共に実生活を過ごすと、嫌でも現実的な性格になるんじゃないかな?
アーナンダがなかなか悟れなかったの解る気がする。寺の運営となれば、現実的な人の方が適役でしょ?
返信する
僧侶の食事係の「典座職」は重要な役どころである。だからこそ潙山霊祐が勤めていた。 (イエスちゃん)
2016-07-14 14:06:14
衆人を納得させるために、みなの前で、二人を平等に試験した。
この試験で、二人の力量の差が歴然になった。
これで、どこからも文句がでない裁定になった。(新米、アマチュアではない)


新しい寺の住職を決めるため、二人の僧を試験して決めることになった。
 百丈(ひゃくじょう)和尚は、瓶を指さして、
「これを瓶と呼ばないで、何と呼ぶか」
 最高の弟子とされた僧が答えた。
「木っ端ぎれと呼んではいけない」
 次に、典座の霊祐に尋ねた。
 すると彼は、瓶を蹴飛ばしてさっと去ってしまった。
 百丈は、霊祐を新しい寺の住職に決めた。

潙山霊祐
いさんれいゆう
(771―853)

中国、唐代の禅僧。潙仰宗(いぎょうしゅう)の派祖の一人。
諡号(しごう)は大円禅師。俗姓は趙(ちょう)氏。福州(福建省)長渓の人。
15歳で建善寺に出家し、杭州(浙江(せっこう)省)竜興寺で受戒、大小乗の経律を究めた。23歳のとき江西に遊行(ゆぎょう)し、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)に参じて嗣法する。
典座(てんぞ)(台所係)のときに認められて、
潭州(たんしゅう)(湖南省)の潙山に住し、禅風を広めた。李景譲(りけいじょう)、裴休(はいきゅう)、崔慎由(さいしんゆう)に尊崇された。
大中(たいちゅう)7年正月9日示寂、鄭愚(ていぐ)の碑銘がある。
弟子に仰山慧寂(きょうざんえじゃく)、香厳智閑(きょうげんちかん)がいる。
彼の語句を記した『語録』1巻、および『潙山警策(きょうさく)』がある。[石井修道]
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-14 10:46:53
勘違いした人による一人芝居は見ていて
辛い。
返信する
オチ (Unknown)
2016-07-14 10:22:41

丁寧に身体を拭き清め、禅師の目の前に戻し、厳かに合掌礼拝して、「これは仏様です」と言いました。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-14 10:19:46
仏の「縁」で、教えを「起」こす。
それを「仏教」と呼ぶわけです。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-14 10:14:40
無常識も無我も、実体はないことだね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-14 09:56:05
>箱を開けた瞬間(@観測時点)に、生か死かのはっきりした状態に移行するのだと考える。


真に目覚めた場合に起こる事象とも考えられるね。
返信する
シュレディンガー余話 (Unknown)
2016-07-14 06:28:59
量子力学の骨子は、単一(一個)の電子が、場所Aか場所Bのどちらにいるかは、観測した時初めて解る(シュレディンガー方程式で確率的に計算できる)が、
観測前に於いては、その電子(一個)は場所Aと場所Bに同時に実存的に存在していると考えるシロモノ(らしい?)。

シュレディンガー自身はこの量子力学の考え方が嫌いだった。
で後年になってこんなヘンテコな科学に関わってしまった事を後悔して物理学者を止めてしまった。
そして物理学の世界から足を洗うに際し、量子力学をけなすために「シュレディンガーの猫」を考え付いたのであった。
一個の電子=猫
場所A=死んだ状態
場所B=生きてる状態
量子力学では箱を開けるまでは猫は(ずっと)半生半死で存在しているのだとする。箱を開けた瞬間(@観測時点)に、生か死かのはっきりした状態に移行するのだと考える。
返信する
「シュレディンガーの猫」敷衍 (Unknown)
2016-07-14 04:06:07
発生予測不可能な毒ガス発生装置を内蔵した密閉箱に猫を閉じ込めた。今猫が生きてるか死んでるか解るか??

古典力学的常識解答;
箱を開ける迄は生死は分からない。いつの間にか猫が死んでいて、箱を開けた時に死んだ状態(或いは生きている状態)を観測する。

量子力学(シュレディンガー方程式での解);
箱を開ける前は生と死が混ざった状態で実存する。箱を開けた時に初めて、生きるか死ぬかのどちらかの状態に変化する。

コメ者のコメ;
量子力学はなんか唯識っぽい。
物質(猫の実体)が識によって認知されるまでは物質(たる実体)は存在しない、という考え方に通じる。

しかし現実には、観測するしないに関わらず、物質は唯我独尊的に実存する、という常識に私は賭ける。なぜなら「水差し」と呼ぼうが「木っ端」と呼ぼうが或る物質がそこに実存する事には変わりないからだ。(屁理屈こねた言葉のお遊びは楽しいよね!!!)
返信する
無常識 (Unknown)
2016-07-14 02:58:18
常識とは特定社会に於いての大勢を占める考え方、という意味だから、
100人で構成している島社会内で言えば、そこに「無常識」という事実が在るとすれば、
100人すべてが、全ての事に異なった意見を持っている社会を「無常識の社会」と言える事になるね。

そ~いえば、100人居れば100通りの仏教がある、とか言ってる「仏教通」がいたよね。ああ「仏教痛」が起きそうだね。

で、「無我」って「無常識」の事かえ?
返信する
「不確定性原理の破れ」の真相 (上智まさはるブログより)
2016-07-14 02:27:36
(2012年3月8日記事転写、ブログ名、Thinking every day every night)。

物理学以外の専門分野でも何か釈然としない思いを抱きながら、専門家がこぞってお墨付きを与えているから、まさか間違いはないだろうと信じて居たら、「あらあら、やっぱり釈然としなかった素人目線が正しかったんだ~~」という事にしばしば遭遇します。
だから私は、その道の定説であっても、いつもまずは疑いの目を向ける様にしています・・・。

(書き込み人の弁;)
仏教という専門業界の自称プロたちが専門用語を駆使して仏教オタクの世界にひたっている間は、今の世に真に役立つ大乗仏教は生れて来ない。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-14 00:32:46
正式な発表を待ちましょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-14 00:30:04
参院選の結果が頭にきたんじゃない。
体調なんだろうけど、やはり憲法が絡んでるしね。
返信する
Unknown (Einsatz)
2016-07-13 23:01:09
陛下の生前退位がこのタイミングで発表される事の意味は一体なんなのでしょうか?
東京都知事選の直前にです。
候補者の顔触れを見ていますと、つい、
余計な勘ぐりをしてしまいます。
返信する
「シュレーディンガーの猫」 (Unknown)
2016-07-13 20:25:13

猫が生きている確率は50%、死んでいる確率も50%である。
したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっている?

自分の出来ないことは、他人に要求しては行けない?


量子力学…
パラドックス…
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 19:01:35
あはは。

水を差すね
(≧∇≦)b
返信する
Unknown (何もない)
2016-07-13 17:01:21
水を差すようですが、、、
と私なら言います。
返信する
「言語活動」を停止する=「自我」の崩壊=死人 坐禅は「大脳皮質の活動」を「人為的に低下・停止させる」訓練!「自我」が、構築されたものであることを実体験する! (イエスちゃん)
2016-07-13 14:42:16
坐禅は
「大脳皮質の活動」を「人為的に低下・停止させる」訓練である!その結果、
「自我」が、構築されたものであることを実体験する!


人類は、
上図の「系統発生」で示すように進化して来ており、
頭脳も、原始的なものから段々と、
「脊髄」から「脳幹・小脳」から「大脳」へ、
更に、その最高部が「大脳皮質」になった。

重要な事は、下部の構造を捨てないで、
重層的に進化・発達・発展している事である。

その過程で「自我」も、
大脳の活動を「統括・モニター」する特化活動である。

更に「人間の言語活動」も、
「大脳の活動」と「咽喉での音の発生機構」との
協働の進化である。

類人猿は、咽喉の構造上、声を発生できない。
だから、「言語」を発明、獲得できなかった。

人類だけが「言語」を発明して、
「現在」だけではなく、
「過去」や「未来」の世界を創造できるようになった。

つまり、「自我意識」や「言語活動」は、
進化の最終形態・最先端であり、大脳皮質活動である。

また、言語活動は、大きな「部分脳」2つ発見されており、
「運動性言語野・ブローカ中枢」
「感覚性言語野・ウエルニッケ中枢」

前者に障害があると、解っているがしゃべれない、
後者に障害があると、言語が理解できないとなる。

○ ○ ○ ○

身体を動かさないようにして、
外界への注意を遮断し、
内部のいろいろな思考・妄想を停止し、
(いろいろ浮かんでも相手にしない。放置する。)
ただ「深く吐き出し、自然に吸い込む」の単調な動作
静かな呼吸だけに精神を集中する。

すると、虫の声や鳥の鳴き声も、
意識がそれを追わずに、ただ、流れるだけになってくる。
「自己という意識」も反応しなくなり、
禅定が深くなると、
この「自我意識が停止」することになる。

南師はこの状態を「自我が崩壊する」と説明する。

逆に、禅定から日常に戻ってくるプロセスでは、
「再び、自我が構築されてくる」。

つまり、「自我」は、「ある条件で構築されたもの」であり、
「実体」「霊魂」「魂」・・・ではない。

つまり、「頭脳の活動・働き」「現象」である。

○ ○ ○ ○

初期仏教の十二支縁起(十二因縁)は、
この「大脳皮質の活動が最低レベル」
(つまり、一種の禅定状態)から、
徐々に、感覚、知覚、思考を回復して、
「自我を再構築する」プロセスであり、

最終的には、その構築された「自我」の死亡までを含む!

①根源的な無知(無明)、
(南師は「言語を実体視し、呪縛されている」とする)
②生活行為(行)、
③認識作用(識)、 
④心と物(名色)、
⑤六つの感覚機能(六処)、
⑥対象との接触(触)、
⑦感受(受)、
⑧本能的な欲望(渇愛)、
⑨執着(取)、
⑩生存(有)、
⑪誕生(生)、

(社会で育成されることで、共同体で必要とされる「自我」が形成られ、
「言語・概念思考」でそれを実体視し、行動の基準・基体となる。)

⑫老いと死(老死)

藤田宏達「原始仏教における因果思想」(仏教思想研究会編『因果』平楽寺書店、1978年)85頁以下。

○ ○ ○ ○

脳の活動が低下した臨死状態では、
済みません。途中ですが、一旦UPします。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 11:24:41
世界は無常識かな。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 11:21:11
へえー、世界に常識があるとは知らなかった。どんな常識なんだろう?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 04:24:27
ルール、ルールで自分を縛り付けて縮まるのが日本人の美徳だけどね。
それは世界の非常識ってやつだよ。

飛んだ発想が新しい世界を作るなんだとしたら(旧式型)日本人には世界を創れないって事になるよね。

南師を理解出来る日本仏教僧侶が皆無とか言うのもわかるよね。今は少しはましになったのかな???
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 04:01:53
皆これ是々非々、
既存概念木っ端ミジン!!
無意味な水差しは足で蹴飛ばすがちょうどよい。

「ま」なみでなくて
「み」なみです。
「む」かしの名前で出ています。

・・・でもでもでもでも・・・

「め」んどうな旧式屁理屈捨て去って
「も」~みんな新仏教者への生き返り

注1「まなみ」「ま」と「み」のタイプミス
注2「昔の名前で出ています」小林旭の歌
注3「にんまりする人が幸せになるのだ」アラン幸福論変歌
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 02:23:29
バットとグローブ持ってサッカーやりに来たみたい
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 01:47:02
今回の南師の記事で言うと、

門下の最古参って、プロとして自認している、習慣化された既存概念的思考にがんじがらめになったヤカラで、

台所係の後輩がつまりアマで、
アマこそが習慣化された既存概念を打ち破れた・・・、という教えだからね。

プロってとかく「論語読みの論語知らず」になるよね。頑固頭になってガラパゴスになって無用化して行くよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 00:55:26
プロってアマがあって初めて成り立つからね。
アマの口封じを画策するプロとか自称する孤立世界は必ず滅びるからね。

共産党中国みたいになるね。
又は旧態依然スタイルを信奉する日本仏教寺なんかもね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-13 00:24:53
だからね、習慣化された既存の概念的思考を抜け出す為の試み・・は常に必要であって、
2500年前とか1500年前とか、その中間時代だけにとかの殻に閉じこもっていたら現在の社会ではガラパゴス・・・、
初期化で無くて無用化するからね。

どんな理論も全て無常だからね。
つねに新風は必要だ・・・、が基本信念だね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 22:06:04
そりゃあね。
どこかの見世物小屋、と言って悪ければ歴史と伝統の閉じた世界で
昔風の何やらをやっていれば生活できる、というなら、結構なんじゃない?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 21:50:18
へえ。
プロ野球やってんだ、ここ。
そりゃどうも。
見てるだけでも請求書飛んでくるかね?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 17:28:45
ルール。教えて。。
返信する
Unknown (ねこちゃんです)
2016-07-12 16:32:09
久々に解説が丁寧で分かりやすく、驚きました。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 16:28:22
44、45投稿の方へ
野球のルールを知らずに、バットとグローブを持ってプロ野球の試合に参加している、思いっきり勘違いした人に見えるのですがね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 15:26:28
至道無難禅師の「死人になりて」説って、
唯識論と矛盾しないのかね???
唯識は(言語と)思考が世界を決める(=識のみが実存する)とかいう訳だから、
「思考を通して世界を見るな!!方式」は不可能そうな気がするね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 15:01:27
(さる原始仏教ブログ主催者Aさんからのまた聞きではありますが)、
S長老説は、釈迦の解脱・涅槃は
「煩悩・執着によって習慣化された既存の概念的思考の脳回路(=古いOS@脳コンピューター)から、
全く新しい(悟りの)脳回路OSへ切り替わる事だ」的な解釈のようです。

で脳科学から言えば「脳の神経回路(シナプシス、思考回路)は使わなければ失われる。そして(新たな形の思考パターンに準じて)新たな神経シナプシス回路が代わりに形成される」という事が解っており、
S長老の新旧OSの入れ替え説@脳コンピューターの妥当性が支持されています。(要は人は洗脳教育が有効という意味です)。
 
一方他の原始仏教ブログ主催者Bさんのスッタニパータからの発見は釈迦の解脱・涅槃は「全ての想いからの解脱、さらにその解脱感(=想い)さえも解脱」であったと読み取っているようです。

今回の或るコメでの至道無難禅師の言葉「生きながら死人と成りて」(=言語・思考を通して世界を見ない、つまり見れない死人脳になった形で)云々は、
上記のBさんの「全ての想い(思考)からの解脱」と同義語だと解釈出来そうです。

しかし(生きている)脳の機能・仕組みを考えた時、
現実にはBさんの見立ては不可能、
従って至道無難禅師の(言語・思考を通して世界を見ないという)方法論も不可能ではないでしょうか(無意識も脳活動による思考の一形態ですから・・・)。

(死人の様に)脳活動を停止して世界をみる事が出来た(生きてる)人なんてこの世に実在しないのではないでしょうか。自分は出来たと言える人は名乗り出て欲しいものですよね。
(もし現実不可能の理論なら、この言及は単なるレトリックのお遊びに過ぎない気がします)。ど~なんでしょうね??
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 08:23:28
>「苦」のない人に、釈尊の仏教は、関係がありません。


逆説的にいえば、
苦のない人はいないので、皆に関係ある、ということですね。

必要とするかどうか?ような気はしますが。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 08:22:34
おやおや
また成りさがってますね。
返信する
はっはっは (Unknown)
2016-07-12 08:02:54
そんだけ解ってて、よく人を見下した様な発言が出来るな君は。。
返信する
≪言語・思考を通して世界を観ない≫、それが死人! 至道無難禅師「生きながら ≪死人となりて≫ なりはてて ≪思いのままにする≫わざぞよき」 (イエスちゃん)
2016-07-12 04:25:40
≪言語・思考を通して世界を観ない≫、それが死人!


「生きながら ≪死人となりて≫≪なりはてて≫ 思いのままにするわざぞよき」
至道無難「即心記」(『至道無難禅師集』 春秋社 31頁)

『「お前なら≪何と言う?≫」
問われるや否や、後輩は立ち上がると、≪水差しをいきなり蹴倒して≫…』


師の≪問い・言語での返答要求≫を、
自分が死人であることを・その場において、行動で表現している。
言語を無化している。言語を超えている。


しかし、それを絶対化して、そこに・その境地に、留まってはいけない。


次の展開「≪思いのままにする≫わざぞよき」

自然と≪思いのままにする≫技が、出てくる筈!もしも本物ならば。

そこには
『ただ、私は後輩に改めて問えば、「水差しです」と答えたと思います。しかし、その「水差し」は習慣化した概念的思考から出る答えではありません。』


ここで重要なことは、
一旦≪死人≫になることです。

普通の人は、言語から抜け出すことはできません。
そもそも抜け出す必要を感じません。

「老苦」「死苦」に、苦しんでいる人だけが、この「自分が、そもそも死人」であることに目覚めて、
つまり、言語で世界を観る・価値づける・意味づける、この呪縛から、解放されて、涅槃に入る。

「自分は無我だった」に目覚める!

「苦」のない人に、釈尊の仏教は、関係がありません。
南師が「有効な道具」という所以です。

道具は、真実か真理かどうかには関係ありません。
使えるならば・有効ならば、それだけでいいのです。

だから、道元和尚は、坐禅に効果がある、というのです。
素晴らしい理論・教え、それは無用です。
逆説ですが、禅の問答は、それを教えています。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 01:30:23
皆さん必死
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 01:07:51
水差しはつまりは、「人間」のことだよね。
人間は愚かだから、戻っても、また蹴飛ばしに行き、また戻る、の繰り返し。

まさに修行の一貫。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 00:57:38
自己の無力・限界を感じ、空・無自性に落としどころを見出し、縁起で生かされている自分を感じ・・・、

戻ってきた時は、

我欲の抑制、少欲知足、大きな包容力、他者にたいする寛容心・慈悲心、心の落ち着き・・・

そんな自分になって「戻ってきた!」。

これこそ「仏道!!!」。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 00:46:27
水差しは、尿瓶だったかもしれない。

善意的に振る舞えるか、差別するか。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 00:34:36
「言葉」が自分と他人を分けた、と言うが、
言葉の無い犬・猫でも自分と他者を分けているではないか。自分と他者をわけ隔てするのは「言葉」の有る無しではない。
それぞれの脳が学習した「本能」に過ぎない。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 00:15:13
人は自分を恐怖させる動物に対しては善意的に概念化は出来ない。
野や河に自生するライオン・ワニから、家の周囲にいるヘビ・ネズミ・蚊に至る動物の全てが自己中(自己保全)という同じ行動原理で行為しているに過ぎないのに、人は自分の都合で彼らを差別する・・・これも又自己保全の論理からだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-12 00:02:07
本能のままに生きる「自己中」の犬、猫を見てさえ、人は(善意的に)学ぶ事が出来る。人には言葉があるからだ。

人は「言葉(言語)」を通して、犬、猫を(善意的に)概念化出来る。「愛情」「いつくしみ」「少欲知足」「無欲」「自立心」「他者への信頼」「日々是是」「『快』に生きる」「今日(=今)のみに生きる」「エトセトラ、エトセトラ」。

それを人間社会でどう「益」させるか、此れも又「言葉」である。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 23:42:42
自己の無力、限界から、
「空」「無自性」を体感し、
縁起で起こる自己を生きる。

「空」「無自性」から「戻っておいで」

南さんの慈悲を感じました。
言葉にしてくれた。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 23:14:49
動物の親が仔を育てる過程に於いては「自己犠牲」は在るであろう。
しかし彼ら自身は自己犠牲しているとは思わないであろう。それが本能の一部に過ぎないからだ。

しかし一旦巣立ちをすれば、親の縄張り区域から出て行くのだ。自己中心のみで行動するからそうなるのだ。

「言葉」と「自己中心」云々は何の因果関係(=必要十分条件))はない。

「言葉」がある人間のみが
普遍的な「自己中心でない世界」の存在を描く事が出来るのだ・・・。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 22:48:19
犬や猫は、(人間の言ういわゆる「口の開いた」)水差しに水が入っていれば「飲む」、
入っていなければ「木っ端」として蹴飛ばす(=素通りする、無関心する)。

彼らが学習したことは「水を飲む」という自己の保存法則に従っただけに過ぎない。砂漠で数滴の残り水を他のネコと一滴ずつ分かち合うとは考えられぬ。
これを言葉にすれば自己中心(自己のみ)で生きると称す。
これが仏道の『本質』なるや???
犬、猫は仏道を体現してると言うのか??何を犬、猫に聞けと言うのか??
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 21:04:38
犬や猫は、「水差し」という言葉を知らないよね。

だから「水差し」と呼ぶことさえできない。
自己中心でないというより、認識できない。
つまり五蘊でいえば、「識」がないのかもしれないね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 15:15:46
高名な禅師が自分では水差しと概念している物体を、弟子たちを集めて問うた・・・。

此れを水差しと呼ぶな!!
では君たちは此れを何と呼ぶか??

台所係の後輩は何も言わずにそれを蹴飛ばして退席した。
何故なら水差しと呼べないのなら水差しではない。単なるゴミに過ぎぬから・・(。つまり最古参のいった「水差しで無いなら木っ端が正解!!)。


禅師が「水差しと呼ぶな、代わりに何と呼ぶか?」の問に、
「戻っておいで」の召喚を受ける後輩は言葉で表現する時に、「水差し」という言葉は禁句ならば「これは水差しです」というオチはつかない(と思う)。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 14:03:43
>犬や猫たちの判断は自己中心という事がないだけに世界を正しく判断している、

ほんまかいな???
証明できますか???

(動物に限って言えば)大なり小なり脳機能をはたすモノがあって、体験によって学習し脳に知識として蓄える。
それによって次の行動を決定し行為する。眼・耳(又は他の知覚神経)が脳に作る虚像は人も他動物もすべてサンスカーラに過ぎぬ。
まさに❝自己中の塊❞にすぎぬ!!!

返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 11:28:27
坊主ラブって何?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 11:27:32
イエスちゃん。
ええこといわれますなぁ。

スーッと入ってきましたわ。
返信する
言葉の問題!「畜生は人間より偉い」言葉を使わないで生きているから でも人間は狸には成れない! (イエスちゃん)
2016-07-11 04:06:46
でも人間は狸には成れない!

=======================
畜生は人間より偉い

三世諸佛不知有。
狸奴白牯却知有。



『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

―三世諸仏有るを知らず、狸奴白牯りぬびゃっこ却って有るを知る―(『碧巌録』六十一則)


 「この世界に〝真実なもの〟があることは、三世(過去・現在・未来)に現われる仏たちでさえ気づかないが、むしろ狸や牛のような畜生の方がよく知っているぞ」という、中国唐代の禅僧・南泉普願なんせんふがん和尚の有名な語である。仏法が分かる者よりも、仏法が分からない者の方が、かえって仏の智慧を持っているという、逆説的な教えである。この教えは「異類中行いるいちゅうぎょう」と言われ、南泉やその弟子である趙州和尚の深い思想として尊ばれている。

 エデンの園で純真無垢に戯れていたアダムとイヴは、サタンに唆そそのかされて「禁断の知恵の実」に手を出し、罪人となってエデンの園を追いだされた。これが人類の祖であると、『旧約聖書』の創世記に書いてある。
 アダムとイヴは知恵の実を食べると、自分と他人の区別に気がつき、お互いに急に恥ずかしくなって無花果の葉っぱで前を隠した。いらい人間は自分を自覚し、眼の前にあるものを自分以外のものとして区別するようになった。これが仏教で言う「分別」の始まりである。こうしてもともとは一体であるものを自と他に分けるのである。分けることによって「分かる」のだが、分かるときはもう、それ自体から「分かれ」ているのである。
 さらにまた物を判断するとき、いくら客観的に見ると言っても、「観」という字がつく以上は、自分の判断である。こうして人間はお城のような「自我」を持ち、自我の窓から世界を見渡す。いわゆる遠近法的な見方で、近い物は大きく、遠い物は小さく見えるのだが、これは世界の正確な判断ではなく、「自己中心的」な歪んだ判断である。
 人間はこうして手前勝手な判断で生きている。そこへいくと犬や猫たちの判断は、自己中心ということがないだけに、世界を正しく判断していることになる。
 冒頭の禅語は、「黄梅山に七百人も高僧がいたが、彼らには分からないことを、一字も知らない狸や牛が知っている」という南泉のことばである。現代世界が頭のよい人間によってどれほど汚されているか、いちど動物たちに聞いてみたらどうであろう。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 01:46:33
ボーイズラブが好きとかでしょ?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-11 00:26:26
核心のための話になるよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 23:48:25
いや別に。
ただの好みの問題だから。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 23:40:03
それはお気の毒に
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 23:24:35
どこの話だったか

でかい水瓶(水がいっぱい入っている)に子供が落ちて溺れそうになってる
大人がどうしようかとオロオロしてる間に
少年が水瓶をがーんと割って子供を助けた

みたいな話

そんなでかい水瓶はきっと頑丈だろうから
どうやって割ったんだろうな?とかはあるけど
水の入ったボウルとか猫とかは、いかにも話のための話っぽくて
そこで、めげる。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 23:15:20
笊やしゃもじを放り出し
つまらぬ理屈突破すりゃ
百条関もさえぎれず
み仏さまもヨレヨレさ

無門関 趯倒浄瓶
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 23:01:32
そういやなんだか、猫を斬り殺したはなしとかもあるんでしたっけ?

めんようじゃのう。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 22:57:25
んーーー?

師匠って、わざわざそんなことしないと、弟子の力量ってわからないもの?
もし、兄弟子に納得させるためだとしたら、
それで納得できる兄弟子なら、そんなことしなくても良さそうな気がするし。
めんどうじゃの。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 22:04:03
最初の投稿とだいぶ変わりましたね。
返信する
Unknown (senrigan)
2016-07-10 21:54:04
 行為のないところに存在はなく、行為により関係性が立ち上がってくる。そこにヒトは言葉を介在させ実体視に陥りがちになる。犬猫はそれを言葉を通さないで素直に受け入れるだけである。ヒトも犬猫も皆、縁起の中にあるが、言葉を介在させるか否かが異なる。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 15:39:21
犬や猫などにとっては、水差しは只の物体。

縁起とするのは、人間だけ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 15:36:44
いま、ここ、じぶん。

実体はない、空。
返信する
連想です。迷走です。南師はおっしゃる… (イエスちゃん)
2016-07-10 10:14:31
南師は、ここで、新しくおっしゃる。
「諸君の前にあるこの物を水差しと呼んではいけない。ならば、君たちは何と呼ぶかね?」


今の自分をほっといて、

本当の自分を探していました。

今の自分をほっといて、

自分が死んだらどうなるか心配してました。




なぜ、そのように思考するのか?

それから解放されるには?

非思量。
返信する
坐禅スタンス (Unknown)
2016-07-10 07:48:37
>一旦意味を離れてから、また、現実のフィールドに戻ってみる。
坐禅のスタンスと同じなんですね。

なるほど!
渋い表現されますな。
禅僧みたいですぞ。
返信する
Unknown (senrigan)
2016-07-10 06:17:27
このものは時にはポットであり、花瓶でもあるが、今は水差しである。
返信する
Unknown (烏柄杓)
2016-07-10 06:03:42
『水差しとして扱う、使うという「縁」が水差しの存在を「起」こす。』


① 親切な返答

茶の湯の道具として「見立て」て、花をいけてしまう。

② 物議を醸す応答

「泉」というタイトルを付けて、「みるものが芸術をつくる」と付言する。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 04:24:42
一旦意味を離れてから、また、現実のフィールドに戻ってみる。坐禅のスタンスと同じなんですね。
返信する
Unknown (山崎裕一)
2016-07-10 03:33:57
とりあえず一度切れてみろ、という提案だと思います。が、現実にはなかなかそうはいきません。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 02:00:05
くだらねぇ
返信する
自己という分裂 (Unknown)
2016-07-10 00:57:31
これは、つまり実存の説明ですね。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 00:51:33
「戻っておいで」というところが味噌ですね。

何とも意味深いです。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-10 00:22:30
水差しを取り上げられるところに、涼しさや和尚さんのお気遣いを感じられます。

暑くなってきましたので、皆様方ご自愛下さいませ。
返信する
Unknown (朝顔)
2016-07-10 00:16:13
縁起のお話ですね。
感動しました!!
返信する