恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

メディアとしての身体

2019年11月30日 | 日記
 自己が他者との関係から生起するとすれば、その関係を具体的に担うものが何であるかによって関係の仕方が変わるわけですから、それは我々の実存に直接的な影響を与えるでしょう。とすれば、他者との具体的なコミュニケーションがどう行われるかは、特に重要な問題です。

 もともと、原初のコミュニケーションは、声(鳴き声)とジェスチャー(指差しなどが典型)という、身体そのものが担っていました。このとき、何ものかが存在することのリアリティは、見る、聞く、触る、舐める、嗅ぐなどの身体感覚が直接保証していました。

ということは、コミュニケーションが可能な範囲は限られていて、基本的に小規模な地縁血縁共同体の内部か、広くてもその周辺の集団までということになるでしょう。

 その後、言語が発生して、コミュニケーションの範囲と深度が拡大したとしても、発話器官が声帯しかない状況では、身体が中心的なメディアである事情に大きな変化はなかったはずですし、ならば共同体の規模にも構造にも、根本的な変化は生じなかったと思います。

 ところが、文字が発明されると、様々なコミュニケーションの様態・形式が「情報」として大量に蓄積・伝達できるようになり、地縁血縁を基礎とする小共同体が拘束する身体中心のコミュニケーションから解放され、共同体は大規模化・複雑化して「文明」の時代が来ることになります。

 しかしながら、文字情報の使用には教育が必要ですし、文字を記す物体(石や紙など)は、当時物理的な量の確保とその取り扱いに制約があったはずですから、文字情報は共同体の一部集団・階層に独占されることになりました(たとえば中世教会による聖書の独占)。

 この状況が激変したのは、15世紀ヨーロッパにおける活版印刷技術の登場です。この技術によって、文字情報は爆発的に量産・拡散して、それまでとは比べものにならない数の人々が、多種多量の情報に簡便にアクセスし、これを共有することができるようになりました(たとえばグーテンベルグ版聖書の発刊)。

 それは結果として、生まれ落ちた共同体を超え、共同体が規定する様々な属性から距離をおいた視点で、人びとが自らの在り方を考えることを可能にしました。

 このことが、「みんな同じ人間じゃないか」などと言うときの「人間」、それはすなわち、フランス人権宣言が「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」と言うところの「人」、現代の我々の社会体制も前提とする「近代的個人」の観念の発明を可能にしたと言えるでしょう。その個人が「契約」で集団を作るところに、「市民社会」が成立するというわけです。

 20世紀に電信電話が発明・普及して、声をふくむ情報伝達が段違いに増大した後、さらにパラダイムを決定的に変えたのは、ラジオとテレビの登場です。声どころか視覚情報の伝達さえも無際限と言ってもよい規模で可能になったとき、そこに「大衆」が出現します。

「大衆」の特徴は、「人間」「個人」と違って、情報に対して中立的になりにくいことです。ラジオやテレビが担う情報は、視聴覚への訴求力の高さから、常にその受け手の欲望を喚起し刺激できます。それは要するに、少数の発信者が多数の受信者を支配しコントロールする時代の到来を意味しました(大衆の支持によって「独裁体制」が成立し得る時代。消費者の大量需要によって巨大独占企業が出現する時代)。

 しかしながら、「人間」と「大衆」の時代においては、その「情報」の質、すなわちリアリティの度合い(真偽)を、最終的に身体において確かめることができました(「百聞は一見にしかず」的意識)。また発信者もそこに最終的な保証をもとめていました(たとえば、メディアが言うところの「足で稼ぐ」「現場主義」)

 しかし、これが21世紀に入り、IT・AI技術の急激な発展が、これまでとは次元の違う大転換をもたらします。それは、受信オンリーだった「大衆」を一挙に「送信者」に変え、受信・発信の強力な相乗作用によって、個人どころか、個々の社会組織の処理能力さえ遥かに超える量の情報が「大衆」を断片化したのです。

 すなわち、限られた数の発信者の力で「大衆」に「共通の情報」を浸透させることが著しく困難になり、それが「大衆」を細分化するわけです。さらに、多様に発信される情報がそれぞれの吸引力にしたがって改めて「断片」をグループ化して、いわゆる「分衆」状態を出現させたのです。

 もう一つの劇的な変化は、とりわけAI技術の劇的な発達が、従来最終的にリアリティを保証していた身体の役割を、原理的に無効にしたことです。

 AI技術は、五感を含む身体能力や機能を、驚くべ精度で模倣したり、途方もない強度で拡張することを可能にしました。すると、もはや、情報のリアリティを最終的に保証する身体の役割は無効になります(ホログラフィックに創作された歌手のコンサートで聴衆が熱狂したり、すでに死んだ歌手を再現して「新曲」を歌わせたら、ファンが感動して泣いたり)。

 今後「分衆」的社会がどうなっていくのか、いま私は見通せません。しかし、その最中にあって、情報のリアリティを身体が担保しないなら、何が担保するのでしょうか。

 ひょっとすると、金本位制から変動相場制になっても通貨が変わりなく機能するように、身体の保証が失われてリアリティとバーチャルの区別が無意味になっても、情報を「分衆」ごとに共有し合意することで、複数の「現実」が構成されるかもしれません。さらには、その「分衆」をかけ持ちし「現実」を複数渡り歩くような、「超個人」が現れるのでしょうか。

 あるいは、情報を独占する巨大システムが開発され、そのシステムが「現実」を一元化することもあり得るでしょう。そのシステムの成立は、「分衆」を解体した上で「断片」を吸収統合することになります。そうなれば、「人間」「個人」は役割を終えて消滅して(ミシェル・フーコーの予言)、システムの一機能のごとき、新たな実存の様式が我々に与えられるかもしれません。

 いずれにしろそうなったとき、リアリティを担保するものがまだ一つ、あるような気がします。それは「苦」の感覚と認識です。

 技術は欲望を実現するものとして開発される以上、情報はすべからく効用と快楽を目的として生産されるでしょう。だとすれば、「苦」は技術が解消すべき対象です。

 ですが、仮に、効用と快楽の追求の果てに、苦しみさえも欲望される時代が来たとしても、それがどんな様態であれ(従来の身体の中に発生すかどうかに関わりなく)、欲望を裏切る実存の苦しみが残存するなら、それこそが情報に亀裂を生み、リアルとバーチャルの区別を要求するかもしれません。

 思うに、「一切皆苦」の思想は、究極的には、リアルとは何かを問うているのかもしれません。

 ただし、リアルが必要かどうか、バーチャルは虚偽で、すべからく危険かどうかは、まったく別の問題です。