恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

死と神

2019年11月20日 | 日記
「死と神は似ている」

「何のことだ?」

「どちらとも、それ自体が何なのか絶対にわからない。いかなる経験とも結びつかないという意味で、純粋観念だ」

「死は経験できないと、よく君は言うよな。神は?」

「神が永遠で普遍的で絶対的なものだと言うなら、それ自体は、永遠でなく普遍的でなく相対的な存在である我々の経験対象にならない。なるんだったら、絶対ではない。だから、わからない」

「それで?もう少し説明しないと」

「では、まず死について。自己は他者をコピーして構成されるから、死も他者からコピーされる」

「どういうことだ?」

「他者の身体の消滅を見て、それが『自分にも起こる』と確信することから、『死』の観念が発生する。この確信が可能なのは、最初から自己が他者のコピーで始まっているからだ」

「しかし、それが何であるかはわからない、というわけだな」

「そう。すると、自己の存在を決定的に変えてしまう、わけのわからない何事かがいつか起こると確信するなら、その時点で自己存在の根拠は失われるだろう。勝負の決まらないゲームはゲームではなく、ゴールが不明なのにレースをする意味はない」

「そういえば、逆に存在の始まりのほう、『自分がなぜ生まれてきたか』という問題にも絶対に答えは無いな」

「そう。我々が理由めいた話を聞かされるのは大概生まれてきた後だから、それが嘘か本当か判定する基準がない。嘘か本当かわからないことは、『根拠』とは言わない」

「そうか。自己の最初と最後が意味不明では、『存在理由』はハナから破綻していると言う他ないな」

「死についての言い分は、まあいい。神の話はどうなんだ?」

「けだし、神は死の影だ。自己存在の根拠を補填するアイデア、つまり、死があっての神なんだ」

「大胆な言い方だなあ」

「旧約聖書に、十戒で有名なモーセに神が自ら名乗る場面が出て来る。
 『私はある。私はあるという者だ』
 この言い方は、『死』の意味する自己の存在根拠の欠落を解消する。まさにあらゆるものが『ある』ことの最終保証だ。神自らが『ある』ことは、他によって創造されたものではなく、すなわち理由なく無根拠に、それ自体で『ある』。この『ある』こそ、神が創造したすべての『ある』ものの、根源的な『ある』なのだ。
 別の訳だとこう言う。
 『私はなる。私がなるものに』
 この言い方は自分の存在は自己決定によるということだろう。それは同時に、他の何ものにも依存しない、自己責任を貫徹する存在の主張になる」

「なるほど。この神にコミットできれば、自己に『ある』根拠を引き込めるわけだ」

「面白いアイデアだと思わないか?」

「バチ当たりめ!」

「え、誰が当てるの? 神?死?」