10月31日、今年も恐山は無事閉山の日を迎えました。ご参拝いただいた皆様、誠にありがとうございました。お疲れさまでございました。
写真は当山御用達のカメラマンによる秋景色4点。左から、恐山街道、宇曽利山湖、山門と地蔵山、高台からの賽の河原(写真の真ん中付近に賽の河原地蔵堂)です。
さて、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざがあります。恐怖心や疑いがあると、何でもないものまで恐ろしく見える、あるいは、恐ろしいと思っていたものも、正体がわかれば何でもないものだということのたとえです。
この場合、その場にいる人には、「幽霊」とも「枯れ尾花」とも見当がつかない、いわば認識が宙吊りになる瞬間があるでしょう(「不安」という感情の領域)。それは何事かが起こっていることは意識できても、「〇〇が存在する」という認識が持てない(=言語化ができない)時間であり、存在の手前の事態です。
この時間、あるいは事態をいかなる方法でも名指ししてはいけません。「ブラフマン」とか「タオ」とか「絶対無」とか「純粋経験」とか。それらが「ある」といってはいけないのです。
同時に、たとえ何であれ、「ある」と言うためには、「〇〇」を必ず名指ししなければなりません。
いや、「言葉で言えないもの」「何がなんだかわからないもの」も「ある」のだと言うなら、それは「?がある」ということに留まるのであり、それ以上でも以下でもなく、「ある」という述語にかかわる言表として無意味です(それ以外何も言えない)。
したがって、存在手前の事態や時間を恣意的に名詞化して、次のような文脈に挿し込んではいけません(Aの位置)。
「まことに万有を生むものとしてのA自然の本性は、それら万有のうちの何ものでもないわけである。(中略)それ自体だけで唯一の形相をなすものなのである。否、むしろ無相である。(中略)否、むしろ厳密な言葉づかいをするなら、『かのもの』とも、『そのもの』とも言ってはならないことになる」
上の文書は新プラトン主義者のプロティノスが自身の絶対理念「一者」について述べたものです。「A」には「ブラフマン」「タオ」「絶対無」「純粋経験」のいづれも代入可能でしょう。
仏教はこの名指しと語りを禁欲するのです。そして誰かが名指しして語り出したら、それを批判し解体するのです。
道元禅師の言う「非思量」とは、幽霊でも枯れ尾花でもない、存在の手前を露わにする行為と言えるでしょう。「ある」も「ない」も無効となり、ここにおいて「無記」を実践的に担保するわけです。