恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

存在への敬虔

2018年11月20日 | 日記
 私の近著のカバー絵を提供して下さったのは、木下晋画伯です。画伯の絵を初めて見たときの衝撃は、今も忘れません。

 雑誌での連載が始まる前、

「今度の連載の挿絵に、これを使いたいんです」

 そう言って編集者が差し出した画集の表紙は、驚くべきリアリズムで描かれた合掌の鉛筆画でした。後日実物も見ましたが、絵は巨大なもので、しかもその細部にわたる描写は瞠目すべき、圧倒的な迫力でした。

 画集に掲載されている絵は、さらに衝撃的でした。どうみても80歳以上に見えるご母堂のヌード、容貌がすっかり変わってしまったハンセン病の治癒者(画伯は自身でモデルを依頼したのだそうです)、ホームレスの老人、などなど。

 どれもこれも、文字通り眼が釘付けになるような強度と密度を備えた表現です。

 私が何よりも印象深く思ったのは、モデルの皮膚への異様なこだわりでした。老いと病と疲労とを暴き出すような皮膚の精密な描きぶりは、画家の見ることへの欲望、その深淵を見る思いでした。

 ただしばらく画集を見ていたとき、ふと気がついたのは、皮膚に向けるのと同じような鋭利な視線が、モデルの眼の描写にも感じられることでした。

 皮膚を見る画家の容赦ない視線は、すでに大きな、時には極限的なダメージを負いながら、それでもなおそこに存在する人間を剥き出しにしています。

 しかし、同時に、その視線はモデルの眼によって折り返されます。見る者は見られる。自分を暴き出す視線を全身に浴びながら、彼らの視線も見る画家を暴き出す。画家はさらに、その視線さえも見ている。

 両者の視線は無限に交錯し、この「見る」「見られる」の只中に、それぞれの「存在」は開かれていきます。

 けだし、画伯の絵は、彼の見る欲望で描かれているのではなく、「存在すること」への敬虔が、画伯に描かせているのです。