恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

番外:お知らせとお勧め

2015年12月10日 | 日記
 私の知人である僧侶、松本紹圭師が主催する活動に「未来の住職塾」というものがあります。

 インターネット上に設立された「彼岸寺」でも知られる師ですが、これからの寺院と住職の在り方を考え直す試みの一つとして、私は有意義な活動だと思います。

 今後も全国主要都市で開催される運びですので、興味と関心のある現住職、あるいは今後住職になろうという僧侶の方は、参加を検討されてはいかがでしょうか。詳細については、「未来の住職塾」「彼岸寺」で検索していただければ知ることができます。

 ※ この記事についてのコメントは受け付けません。

ゴータマ・シッダッタの出家

2015年12月10日 | 日記
 後にゴータマ・ブッダとなった人物の出家の事情は、後に「四門出遊」の故事として伝えられています。宮殿の東西南北四つの門から外出した青年シッダッタが、その道中、老人、病人、死人、最後に修行者に出会い、人生の苦を目の当たりにして、修行者となる決意をした、という逸話です。

 しかし、この話が「老いるのはいやだなあ、病むのはいやだなあ、死ぬのはいやだなあ」程度のことなら、誰でもそう思うだろうし、思ったからと言って、出家などしないでしょう。しかも、本人は当時30歳前の健康な若者ですから、はっきり言えば他人事で、たいして実感のない「いやだなあ」だったではずです。

 ということは、老いと病と死を目の当たりしたとき、いったい彼は何を考えたかが問題でしょう。

 思うに、彼は、老・病・死がおよそ「自己」という様式で実存する人間の、その実存の条件であることを発見したのです。そんなことは誰でも普通にわかることだと言うかもしれません。

 確かにそうかもしれませんが、私が言う「実存の条件であること」の発見は、単に「わかる」ことではありません。そうではなくて、

「老いて、病んで、死ぬことが条件であるにもかかわらず、なおかつ、それらがいつどこでどう現実になるのかも全くわからないまま、なぜ我々は平気な顔で生きているられるのか」

 という問題の自覚なのです。彼はある経典で、自覚のなかったころの自分の在り方を「傲り」と言っています。

 この自覚から、「平気でいられる」「傲り」のメカニズムを考えて、今度は「無明」を発見するわけです。ということは、「四門出遊」の故事が意味しているのは、シッダッタ青年において炸裂した「実存すること」そのものの自覚が、いわゆるプロブレマティーク、つまり彼自らが取り組むべき根本的な問題として、改めて設定されたということなのです。

 ある事柄の自覚は、常にそのものに対する否定性(そうではないもの)との直面を契機にすることでしか、起こりません。しかし、その直面が常に自覚を呼び起こすわけでもありません。まして、その自覚は必ずしも誰かの根本問題として設定されるわけでもありません。

 シッダッタ青年に起こったのは、まさにこの三つ、直面・自覚・問題化です。我々にとって、少なくとも私にとって、それは本当に幸運なこととしか、言い様がありません(シッダッタ青年にとってそうだったかは知りませんが)。