恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

頭を涼しく

2013年04月30日 | インポート

 最近、巷では、あちこちで「成長」の大合唱が聞こえてきます。どこぞの洋服店の社長などは「成長か死か」などと、脅迫めいたことを言い出しているらしく、ずいぶん物騒な世の中になったものです。

 ところで、この「成長」とは、要するに「経済成長」のことであって、「社会の成長」にも、むろん「人間の成長」にも関係ありません。

 今のところ見えている「経済成長」路線は、世に大量の金を溢れさせ、一種の麻薬的興奮状態を「元気」と錯覚させて時間を稼ぎ、女性を過労死する男並みに働かせることで、市場の取引規模を膨らませることのようです。

 むろん、女性を働かせる程度の市場拡大は取るに足りません。本命は、少子高齢化で縮小する市場規模を一気に拡大するため、国内市場を海外市場に直結させ、物と金と人の流れに制限をなくすことでしょう(すなわち「グローバル化」の推進)。

 そうすると、経済は無国籍化しつつ拡大していくのに、いまだに政治権力は国単位で構成されていますから、政治家はみずからのアイデンティティーを国におかざるをえず、相対的に衰弱していく立場を守るためには、額面が「保守」だろうと「リベラル」だろうと、構造的実質的には当面「ナショナリズム」に引きずられざるをえなくなるでしょう。

 さらに、グローバル化は、企業・投資家などの市場プレイヤーにとっても、勤労者・労働者にとっても、要するに競争相手の大幅な増加を意味しますから、これまで以上に国内に大量の「負け組」と、いっそう少数の「勝ち組」を生み出します(「格差の拡大」)。ならば、「負け組」の不満は「反グローバル化」に転化し、それは「ナショナリズム」に結びつきやすくなります。

 要するに、国家は国民の、政治は経済の面倒をまともに見ることができず(「大きな政府」の不可能)、実際見ないようになれば(「新自由主義」体制)、たちまち信用を失う国家と政治としては、安上がりな「ナショナリズム」ムードを作り出す装置(たとえば「憲法改正の手続き」改正論議、「主権の日」式典)を次々と動員し、「グローバル化」によって損傷した「負け組」の自尊心を自らの中に回収することで、生き残ろうとするでしょう。

 この流れに乗る政治の側から、扇動めいた浅はかな言辞が噴出すれば、いわば「首から上」(政治)はナショナルに、「腹から下」(経済)はグローバルにという具合に社会は捩じれ、安心や安定を欠いた、非常に住み心地のよくない状況になるでしょう。これは、やはり、どうみても、「社会の成長」とも「人間の成長」とも無縁です。

 しかしながら、仏教から言えば、そもそも、社会だろうと人間だろうと、「成長」という考え方自体が錯覚です。物事は変化はしますが「成長」も「進歩」もしません。

 たとえば、仏教がいう「涅槃」や「成仏」のアイデアは、「人間ではダメだ」という話であって、「人間的成長」とは、まったく関係ありません。

 大体、子供から大人への「成長」にしたところで、当節、身体機能の向上と知識の集積による「稼ぐ」能力の確保ぐらいの意味しかなく、世の中「自分は大人になって、子供のころよりずっと善人になった」と断言できる者は、おそらく皆無でしょう。

 かくのごとく、社会は「安心」を守れず、人は「善人」にならないなら、なぜ「成長」は金科玉条のごとく大げさに叫ばれなければならないのか?

 思うに、どうしても「成長」が必要だというなら、いま是非とも始めなければならないのは、何を「成長」と定義して、それによって結果的に自分たちはどうしたいのかという、現在40歳以下(およそ1970年代以降生まれ)の人たちの真剣な、極端に言えば今後の死命を決する議論です。それが抜け落ちると、間違いなく50歳以上の「高度成長バブル逃げ切り」世代の頭から出てくる、「夢よもう一度」的な時代錯誤のアイデアに飲み込まれ、先々の我々の暮らしに大きな厄災を招くでしょう。

 まあ坐って、しばらく頭を冷やしたら。いかかでしょう?