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恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

やはり言っておこう。

2014年05月20日 | インポート

 この先を思うと、やはり今の時点で一度言っておこうと思います。

 憲法といえども所詮法律ですから、状況に応じて適宜変えていくことは勿論否定しませんが、現政権のやり口は、ダメでしょう。

 一番ダメなのは、政治に妙な情念を持ち込むことです。「美しい国」とか「日本をとりもどす」とか「戦後レジュームからの脱却」だとか、漠然とした気分を言うばかりで、何をどうしたいのか、何故それが必要なのか、その結果何が起きるのか、具体的なことがまるでわからない言い草ばかりです。

 けだし、政治の要諦は、集団内の暴力と経済を管理しながら、メンバー(人や国家など)をめぐる錯綜する利害関係を調整して折り合いをつけることです。

 このとき必要なのは、冷静で緻密な思考なのであって、情念など無用どころか有害です。

 ところが、憲法改正手続きの変更の企てから始まり、今般の憲法解釈の変更計画に至る、政権の一連のやり口を見ていると、ほとんどまともな理屈が通じないことが見て取れます。それは、彼らの行動原理が情念だからです。

 実際、先日の国防政策に関する記者会見における「国民」への説得は、不安や恐怖、家族の情などに訴えることが基調で、個々の問題を厳密に確定した上で、明晰な論理で対策を示すという方法によりません。

 一例を挙げれば、個別的自衛権と集団的自衛権は、後者が共通の敵に対する軍事的同盟を基本とする考え方であって、自国の防衛とは論理構造がまるで違うにもかかわらず、「皆さんのお父さんやお母さん、子どもたちを見殺しにしないため」などと情に訴えて、個別自衛権の延長線上にあるかのような言い方をするのは、およそ論理的ではありません。

 さらに言えば、これが政治だと言うなら、集団的自衛権の行使に踏み切るという大きなカードを切る以上、せめてそれを材料に沖縄の基地の大幅削減くらいの取引をして見せることが、なぜできないのでしょう。

 政治家が情念を語ってはいけないと言っているのではありません。民主主義の政治体制下では、情念で政治をするな、と言いたいのです。議論で動かすべき政治体制に、議論にならない思い込み(情念)を持ち込まれても、始末に困るだけです。

 私は、政権の経済政策も情緒的に過ぎるように思っています。生活習慣病(少子高齢化)の患者に興奮剤(金融緩和)と栄養剤(財政出動)をぶち込み、筋トレ(成長戦略)させれば元気になれると言うがごとき、一言でいえば人々の「気分」頼みの対策(政権支持のバロメーターである株価は「気分」で変動する)は、結局は体質改善が必要な患者の病状を悪化させるでしょう。

 だいたい、オリンピックとリニア新幹線と原発再稼働で「成長戦略」などと大真面目で言い出すのは、オリンピツクと新幹線と原発建設で「高度成長」をという、1960年代の発想です。こういう時代錯誤的アイデアを臆面なく言い出せるということは、緻密な思考が不足している証拠でしょう。

 ここで最後にもう一度繰り返しておきます。

 私が思うに、現代日本の最大の政治的テーマは、少子高齢化を前提に政治経済構造を整理し、国力の低下に応じて戦略的に国家を縮小するか、そうでなければ、大規模な移民政策を実行して、社会と経済の規模を維持しようとするかという、きわめて困難な選択でしょう。

 この選択を度外視して、「出生率目標」を掲げて「産めよ増やせよ」などと再び言い出すなら、今度こそバカ丸出しです。「産めよ増やせよ」は、昔したのは「戦争」のため、今度するなら「経済成長」のため、要するに産んだり育てたりする人のためではありません。この「養育する人たち」の政治的な無視が、「低出生率」の大きな要因であることがわからないなら、やはりこの政権に理屈は通じないのでしょう。


恐山開山2014

2014年05月10日 | インポート

Dsc_1495 5月1日、恐山は今年も無事開山いたしました。山内唯一の桜は、例年より早くこの日に満開。近くにまで寄って見上げる参拝の方も多く見受けました。以下は、今年の開山挨拶です。

 皆さま、早々とようこそお参りくださいました。恐山は、今年も無事開山の日を迎えることができました。思えばこれも諸縁が調い、皆様のお志のあるが故と存じております。

 ですが、毎年この日を迎えておりますと、なんとなくそれが当然のことのように思われてしまうものです。それは1日1日のことも同じでしょう。昨日とさして変わらない今日が来て、今日とあまり違わない明日が来るあろう思うと、そのように無事な毎日が続くのが、意識することもなく当たり前と感じてしまうのが、人情です。

 ですが、先の大震災を思うまでもなく、変わりのない毎日が続くことは、実は至難なことでしょう。思わぬ出来事が日常を一変してしまうことは、決して他人事ではありえません。

  昔中国で、ある偉い老師のもとを久しぶりに弟子が訪れました。部屋に通された弟子は、久しぶりのことですから、挨拶をします。

「老師、最近、お加減はいかかがですか?」

 すると老師は答えます。

「毎日毎日、結構なことだな」

  私が思うに、老師のような境地に至ればそうなのかもしれませんが、普通は毎日毎日結構と言うのは無理ではないでしょうか。それこそ病気もすれば事故もある。災難にだって遭うかもしれないし。それも結構なのか?

  修行僧時代、当時つかえていた老僧に訊いてみたことがあります。

「毎日毎日結構なんて、あり得ないですよね。どういう意味でしょう?」

  すると老僧は言いました。

「そりゃ、お前の言う通りだな。生きていれば色々ある。結構なことばかりであるはずがない。避けることのできない困難があるのは、当たり前の話だ。

 だがな、人はどんな目にあっても、どんなに辛い状況に置かれても、その1日、なすべきだと信じたことはできる。しなければならないと思うこともできる。それが精一杯できたとき、1日の終わりに、今日はとにかく一生懸命やったと、納得できるかもしれない。そうできることを『結構』と言うのではないかな。

 毎日結構だと老師が言うのは、どんな1日でもその日を結構な1日にしようと努力することが修行だと、弟子に教えたのだと思うがな」

 皆様、今日はお志をもってお参りいただき、いま無事お参りが済もうとしています。まずはお互い結構な1日となるのではないでしょうか。

 ならば、また明日も、それぞれにご縁を調えるように努めて、結構な日であるように願うばかりです。そのような毎日が積み重なり、また恐山にお参りいただければ、まことに有りがたく、うれしく存じます。

 皆様、本日はまことにありがとうございました。


そこにいる

2014年04月30日 | インポート

 恐山開山直前、思いつき禅問答シリーズ。

 昔、中国で、ある修行僧が山中で道に迷って困っていると、ふいに粗末な庵が見えてきました。早速近づいて声をかけてみると、そこには並々ならぬ力量を感じさせる老僧が住んでいました。

 そこで修行僧は尋ねました。

「老師はこの山中に暮らしてどのくらいになられますか」

「山の景色が青葉から紅葉へと移り変わるのを見ること、三十年ほどかな」

「実は道に迷ってしまったのですが、下山するにはどう行ったらよいでしょうか」

 老僧は庵の前の川を指さして言いました。

「流れに随って行きなさい」

 この禅問答はよくこう解説されます。

「煩悩から解脱しようと志すなら、自分勝手な思い込みを捨て、釈尊の教示する修行に身を任せるべきである。そうすれば、自ずから解脱の道は開かれる」

 

 さて、時は現代、日本国。ある老師が弟子に同じ禅問答を提示して、このよくある解説をしたところ、弟子がすかさず手を挙げて質問しました。

「師匠、それはダメですよ。山の中で道に迷ったら、余計に歩き回らず、その場をじっと動かず救助を待たないと」

  すると、老師が一喝、

「馬鹿者。禅問答の老僧を見よ。一番よいのは、庵を結んで住むことだ」

  私はこの話を聞いて、実に面白いと思いました。私は老師と弟子の話をこう考えたのです。

 「流れに従って行く」というのは、例えれば仏法の教える坐禅修行をして「悟り」を開こうとする方法だろう。それに対して「じっとして救助を待つ」というのは、阿弥陀様の本願を信じて念仏「往生」を待つ方法と言えるかもしれない。

  では、「庵を結ぶ」とは何か。

  そこに住む人は、そもそも、庵に「住んだ」時点で「迷って」いない。だから下山の必要もなく、救助は余計なお世話だ。だからといって、庵で何をして、どんな心境でいるのか、一言もふれていない。

  すると、ここに一つの疑問が出てくる。

「なぜ、彼はそこにいるのか」

「庵を結ぶ」とは、この問いを露わにし、この問いに直面することなのだ。つまり、坐禅が開く実存の領域、「非思量」。

 


欲望される「神」

2014年04月20日 | インポート

 人はなぜ、自分が死ぬ、と「わかる」のでしょう。我々が経験するのは、他の「人間」が、いつか動かなくなり、放っておくと腐り、分解されて消滅するという現象だけです。これと同じことがなぜ自分にも起きると「わかる」のでしょう。

  「同じ人間だから」。では、なぜ「同じ」だとわかるのでしょう。

 もうひとつ。「死」が何であるか、誰にも何もわかりません。誰にも何もわからないことが自分に起きると、なぜ「わかる」のでしょう。

 まったく別の個体に起きる「わけのわからないこと」が自分に起きるということは、実際には「わかる」のではなくて、そう「信じている」のでしょう。

  なぜ、そう「信じる」ことができるのか。それは「自己」が「他者」のコピーで始まるからです。「他者」を写し取るとき、「死」も写し取るのです。というよりも、「自己」に写し取られた「他者の消滅」を自覚したとき、我々は「死」を獲得します。 逆に言えば、「他者」が「自己」に「死」を書き込み、「自己」はそれを読むということです。

 したがって、「自己」の存在の「自明さ」程度に、人は自分の「死」を「自明のこと」と思っているのであり、それを「信じている」などと考えません。実際は信じているのに、「自分は死ぬ」と「わかっている」、と言うのです。

 この認識構造が土台にあるから、人は「絶対神」や「絶対の真理」を「信じ」たり、「わかった」りできるわけです。

 自分とはまるで別の存在の仕方をしている、それ自体わけのわからないもの(「絶対」は、人間には「絶対」にわからない)が「ある」と考えられるのは、我々が「死ぬ」と確信しているからです。

  しかし、考えてみれば、人は自分が「死ぬ」と「わかる」ほど、つまりそう「確信」するほど、「絶対神」や「絶対の真理」を「わかる」わけでも、「確信」してるわけでもないでしょう。この強度の差異は、どういうことでしょう。

  我々は「死」同様、「絶対神」も「絶対の真理」もそれが何であるか、決してわかりません。つまり、それらは本来、「死」のごとく空虚な観念、「無意味」な言葉です。

  にもかかわらず、「絶対神」や「絶対の真理」が、それこそ「絶対的な意味」を持つように思われているのは、我々人間がそれらに「意味」を与え続けているからです。その「意味」と何か。それはすなわち、「死」が何であるか説明することです。「死」に「意味」を与えることが「神」と「真理」の「意味」なのです。

  かくのごとく、我々が「死」の「意味」を欲望することが、「神」と「真理」を存在させるとすれば、「神」と「真理」は我々人間の持つ欲望の影にすぎないということでしょう。

 だとしたら、「決してわからない死」を完全に満たす「意味」を与えられるわけがありません。人々の欲望の度合いや性質によって、様々な「意味」が案出され、「神」の教えや「真理」として語られるに過ぎないからです。

 したがって、「死」の「無意味」の「絶対性」に対して、「神」や「真理」の「意味」は常に相対的であらざるをえません。人が「死」に与えようのない「意味」を、「神」や「真理」に与えたとき、つまり、「神」と「真理」が「無意味」でなくなったとき、それらは「絶対性」を喪失してしまうのです。

 一方が、「無意味さ」において「絶対的」に現前するとき、「意味」を持たされた他方の現前は、はるかに強度が低くなる、ということでしょう。

追記:次回「仏教・私流」は5月30日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

 


「終活」ファンタジー

2014年04月10日 | インポート

「就活」「婚活」という言葉に続いて、このところ「終活」なる言葉が流行っています。最初の二つは「就職活動」「結婚活動」の略語でしょうから、「終活」はてっきり「臨終活動」だと思っていたら、これは略語ではなく、死をめぐる準備活動全体の意味のようです。こんな言葉が流行る前から、ひとは職に就き、夫婦となり、死んでいきました。なぜ今さら、「活動」が要るのでしょう。

 一つは、就職・結婚・臨終が以前と比べて著しく困難になったことです。

 経済と人口が拡大を続け、それなりに地域社会に活力が残っていたバブル期までの経済成長時代なら、就職口も、出会いの機会も多く、また、就職・結婚・臨終などの「人生の節目」には、地域や職場の「世話焼き」的人物がいて、時期がくれば、それなりにカタをつけていました。そういう社会状況が今や失われてしまっているのです。

  二つ目は、「世話焼き」がいなくなったと同時に、これら「人生の節目」は「自己責任」の問題だと思われる、あるいは思わせられるようになったことです。だから、就職・結婚・終活は急速に商品化・市場化したのです。

 困難な問題が「自己責任」だとすれば、それを「助ける」ことが商売になるのは当然です。しかも、一度商品化されれば、市場は「人生の節目」をいつまでも「自己責任」状態に固定する圧力を人々の意識にかけ続けるのです(長く商売したいから)。

  しかし、人のすることには何事につけ完全に「自己責任」と言えることは無いとはいえ、これら「人生の節目」は、あからさまに「自己責任」にすることは無理です。全部「相手」のある話だからです。ひとは就職させてもらい、結婚してもらえ、死なせてもらえない限り、それが「人生の節目」にはなりえません。

 中でも「終活」は、そもそも「責任」が取れません。「就活」する人も「婚活」する人も、その「結果」に相応の責任を負いますが、「終活」した人は「結果」が出たとき、いないからです。人は臨終状態では意識が無いか無いに等しく、死は経験主体がいなくなるから「死」なのです。

  したがって、市場化した「終活」は、臨終とも死とも関係ありません。これらは経済活動の対象にならないのです。「終活」が取り扱う「商品」は、臨終でも死でもなく、それらをめぐる、生きている人間の「ファンタジー」です。

「終活」がファンタジーであることは、いわゆる「終活フェア」などというイベント会場に行くと、しばしば「棺桶」に入る「体験」コーナーなんぞがあることに、典型的に、かつ戯画的に示されます。本番の「入棺」が「体験」になり、「寝心地」が味わえたら大変です。

 こういう馬鹿げた出し物が特に疑問も持たれず登場するのは、それが「死」と無関係だからです。もちろん「死後」に自意識が残る可能性は絶無ではありません。しかし「入棺体験」は「生きている人間」の意識構造と経験可能性を前提にした話で、それなら基本的には「死後」も「生きている人間」と変わりません。

  結局、「終活」は明瞭な自意識を持って生きている人間の取引対象であって、孤独で過酷な臨終の状況(私の見る限り、どれほど「環境」がよくても、臨終は孤独で過酷です。寝ている間に死んでしまえば違うかもしれませんが)とも、生きている間はわけのわからない「死」という観念(「死」は経験ではない)とも、まるで無縁です。

  ということは、普通に生きている人間の「終活」の結果は、当事者ではない他人に丸投げされるわけで、ならば、「終活当事者」は、余計なことは言わずに、全部おまかせしたほうがよいでしょう。遺言だろうがリビングウィルだろうが「自分らしい葬式」だろうが、その実現は他人の問題です。妙にこだわられたら、後始末が大変です。よく「遺産相続でモメないように」とやたら細かく遺言する人がいますが、「元気なとき」にモメるような親族関係しか作れなかったことが問題なのであって、いまさら慌てて「遺言」しても、さらなる「モメごと」の種になりかねません(それほど心配なら、全部使って死ねばよい)。

  思うに、大切なのは「終活」ではありません。これは所詮、「他人ごと」です。そうではなくて、「死ぬ本人」に必要なのは、まさに文字通りの臨終のときをにらんだ、「臨終対策」です。こちらは商品化不可能です。しかし、今や決定的に重要です。

「臨終対策」の眼目は、本人に意識が残る間なら、どの時期で「延命治療」を打ち切るか、意識消失以後なら、誰が打ち切り判断をするのか、この二点に関して、事前に本人と家族・親族間の合意形成をきちんと行っておくことです(ここでモメると臨終は非常に難儀です)。

「死後の自意識=霊魂」の実在を確信しているなら別ですが、そうでなければ、この「臨終対策」以上に、死に際して重要な「活動」はありません。そして、「臨終対策」が無事すむような人間関係が既にできているなら、なにも「終活」などと無暗にテンションを上げなくても、それなりの「ご臨終」と後始末ができるでしょう。

「終活」によって、むしろ「人生が充実する」という類の宣伝文句を見ましたが、それは「生命保険で安心を買う」のと同じことで、その「安心」程度の「充実」が買えるという意味だろうと、私は思います。

追記:次回「仏教・私流」は4月18日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


またアノ話

2014年03月30日 | インポート

「最近、某放送局の番組で『超常現象』を科学で解明する、みたいのをやっていたが、見たかい?」

「要するに『心霊』現象の類を科学で扱う、という話だろ。見ない。同じことの繰り返しだから退屈だもの」

「どういうことさ」

「要するにこのテの話は、意識なり自意識なりを科学で解明できるのか、ということと同じだろ」

「まあ、そうだよな」

「その答えは決まっている。まず、意識を解明すると言っている科学者は、脳の話か、あるいは脳を構成する分子や原子、あるいは最近だと素粒子の話をしているに過ぎない。意識の話ではないんだ。科学が言い得るのは、脳の物理的・生理的なシステムと意識現象に一定の並行関係がある、ということまでだ。これを『解明』というなら、その『解明』は今後大いに進むだろう。意識を脳の物理的過程を通じて操作する方法の開発も進むだろう」

「しかし、それは君に言わせれば、所詮、脳と素粒子の解明話だというわけだ」

「そのとおり。物体や現象を要素に分割し、その要素間の関係を数学的に記述するのが科学だとすれば、この手法で『意識とは何か』の問いに絶対に答えられない。意識の分割は不可能だから。それともうひとつ。科学は意識を再現できない。つまり、『解明』の結果、物理的手法で『意識』を発生させることが原理的にできない」

「なぜそう言えるのだ」

「だって、何かを物理的に発生させたとして、それが『意識』だと確かめようがない。極端な話、他人に『自意識』があるかどうかさえ、確かめられない。あるように見えるにすぎない」

「ロボット技術に関しても言われるところだな」

「そう、ロボットに意識を持たせようとしても、そんなことは決してできない。できるのは意識があるかのように振る舞うロボットに過ぎない」

「あるか無いか、判別する手段はないのか」

「無いでもないだろう。たとえば、嘘を吐くロボットが出てきたら、意識を想定できる。嘘のために嘘を重ねるロボットが出てきたら、コレは決定的だろう」

「ほほう。なぜ」

「だって、仮に嘘を吐くことまでプログラムされたロボットがその通り嘘を吐いたら、『正直』ロボットだぜ。プログラムを超えて嘘を吐くには、そもそもプログラムという『自己』を裏切る能力が必要だろう。つまり、時には正直ロボットだったり、時には嘘つきロボットだったりできる能力。すなわちそこに『自己』の対象化=自意識が想定できるわけだ」

「君の言いぐさを聞くと、自意識、あるいは霊魂や心霊現象が物理現象とまったく別に、独自にそれ自体で実在するようにも聞こえるな」

「ところが、残念ながら、意識や霊魂それ自体が実在することの証明は、これまた原理的にできない。なぜなら、証明するには一定の形式で『対象』化しなければならないが、意識や霊魂を安定的に『対象』化することなど、できるわけがない」

「では君の結論は?」

「いつもと同じ。この類の『解明』話は、暇つぶしの娯楽と心得ておけばよい。それ以上に考えるとタチの悪いカルト話になりかねない」


発熱最中

2014年03月20日 | インポート

 ずいぶん久しぶりに風邪をひいて寝込んでしまいました(寝込むのは20年ぶりくらいか?)。インフルエンザでもないのに情けない話です。

  こうなると手も足もです、ただ寝ているだけです。すると、子どもの頃からの習慣で、発熱した頭のまま、様々な妄想・追想が出てきます(私は熱に強いです。なんの自慢にもなりませんが)。その中で、ずいぶん昔のことをひとつ思い出しました。

  中学生で京都に修学旅行に行った時のことです。私は初めて、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像という、有名な仏像を見ました(確か、国宝彫刻第一号だったでしょうか)。

  私はこの時、像を見ているうちに、ほかの生徒が全部移動してしまい、探しに来た教師にえらく怒られてしまいました。

「お前はこういうのに感動するのか」

  教師は聊かあきれてそう言いましたが、実は私にはそのとき何を感じていたのか、まったく記憶がありません。結構長い時間見ていたのでしょうが、覚えていたのは、像の頬に寄せられていた右手の指先の、今思うと絶妙な距離だけです。

 その後この話を教師から聞いた父は、そう言えば小学生の頃から美術全集の仏像写真ばかり見ていた、と思ったそうです。が、私にはその記憶もほとんど無いのです。

  私も絵画や彫刻など、芸術作品・文学作品に触れる機会がありますが、そういういものに「感動」めいたものを覚えるのは、思考を強烈に刺激されたり、触発されたときです。

  セザンヌを見て、これは「形」という現象そのものの認識を描こうとしたのではではないか、マーク・ロスコを見て、これは見るという行為を絵画化しているのではないか、などど考えている最中に非常に高揚感があるのです。これはいわゆる「感動」とは違うでしょう(ひとは考えなくても「感動」できるはずです)。

  仏像についての記憶がほとんど残っていないのは、当時考えることなく見ていたからかもしれません。あるいは、考えようとして、まだ考える能力がなかったからかもしれません。

  ちなみに、私は音楽に反応しません。ジャンルを問わず、これまでレコードやCDの類を買ったことは一度もありません。コンサートにも行ったことはありません。音楽に金を使ったことがないのです(母親は音楽の教師でしたが、5歳の頃私にオルガンをさせてみて、コレは無駄だとすぐにわかったそうです)。

  音楽的才能の無さだけでなく、おそらく、音楽は私にとって考える余地が乏しく、考える方法も学ぶ機会がなかったからだと思います。

  考えることは、私の「業」なのでしょう。そして、自分の考えることに大した根拠も意味もないことを、かなり以前から漠然と感じていたのだと思います(考えなくてもよいときに考えているのですから)。それでも考えてしまうのだから、我ながらご苦労なことです。

  枕元にパソコンを置き、横向きの打ち込み、とりとめない話で失礼しました。


震災3年

2014年03月10日 | インポート

 私は原発の再稼動は止めたほうがよいと思います。現時点で、即時脱原発までは主張できません。が、少なくとも、期限を区切った、でき得る限り具体的で明確な脱原発プログラムを策定するまでは、再稼動させるべきではないと考えます。

 福島原発の事故原因が未だはっきりせず、廃炉までの見通しも不確実なこと、事故時の広域にわたる避難計画も示されていないこと、いますでにあり、今後増え続ける廃棄物処理の目処が立っていなこと等々。すでに何度も指摘されているこれらの問題点は当然として、いま再稼動させるというなら、私が今度こそ事前にハッキリさせておかなければいけないと思うのは、次に原発事故が起こったときの「責任」問題です。

「事故が起こる可能性がある」という言い方の意味は、「起こるか起こらないかわからない」ということではありません。

 現実的には、事故には「起きる」か「起きない」しかありません。「事故の可能性がある」とは、「事故は起きる。ただし、いつどこで起きるかはわからない」という意味なのです。

 すでに福島で事故は起きました。次の事故もいつかどこかで起きるのです。ならば、3.11福島事故以後に原発を再稼動させたり、新設・増設をするというなら、その決定プロセスを明白にした上で、事故が起きた場合には、判断の当事者に応分の責任をとらせる制度をあらかじめ準備すべきです。

 3.11以前は、我々日本人は「安全神話」の中に生きてきました。そのことを反省するなら、我々は「現実」に立ち戻るべきです。その最も重要な点は、判断の結果責任を明確に問うことです。

 戦後の「極東軍事裁判」。その是非をここで論じることはしません。しかし、是とする者も非とする者も、共通に認めなければならないのは、日本国内外に多大な犠牲をもたらして、結果的に「失敗」(当初の「戦争目的」からすれば「失敗」としか言いようがない)した戦争の決定者・指導者・推進者の責任を、我が国自らが問わなかったことは事実でしょう。「一億総懺悔」と当時言っていたのは、「罪」を自覚しながら(「懺悔」と言うのだから)、「責任を問う能力はありません」という意味でしかありません。

 3.11事故について、「国」だけではない、「東電」だけではない、原発を許容し電気を使い放題だった「国民」皆に責任があるんだ・・・・・と考えることも、理のある話です。ですが、そう言ってしまえば、また「神話」の中でする「総懺悔」と同じことになってしまいます。

 次はそういうわけにはいきいません。福島の事故を経験した後、それでも原発だというなら、「責任」問題を避けてはいけないのです。

 今後の原発の再稼動・新設・増設・避難計画の策定と指導・廃棄物処理については、それに権限を持ち、職業的に関わり、決定を下し、指導し、推進し、実行する「責任者」がいるはずです。「一億人」誰もがそれをするわけではありません。である以上、「責任者」を徹頭徹尾明確に規定し、どの範囲で・どこまで・どのように責任を取らせるのか定めるべく、制度的に決定過程の透明度を極限まで上げるべきです。

 今回の原発事故では、事故直接の「死者」は幸運にも出ませんでした。ですが次は、直接被災での「死者」どころか、誰かが誰かに、死ぬことを前提に事故原発に突入することを命令(強制)しなければならないかもしれません。このとき、「総懺悔」が通じるとは、もう誰も思わないでしょうし、思ってはいけません。

 個々の責任など問えない、最終的には「国民の意思」だと言うなら、「総懺悔」などとという戯言を二度と言わないためにも、国民投票その他を通じ、「国民の意思と責任」を制度的に明らかにするプロセスが何としても必要です。

 無論これは、「脱原発」が「失敗」したときの「責任」も同じことです。しかしながら、その場合は、「責任」の定義も「責任」のとり方も、大いに異なるでしょう。

 震災3年、私がいま考えていることです。

 


言葉と体験

2014年03月01日 | インポート

「仏教とは根本的に言葉の問題だ」という言い方を時々していると、必ず「体験主義者」的人物から、同じような反論を繰り返し聞かされます。いわく、

「あなたは空の青さを言葉で言い尽くせますか? 無理でしょ。仏教の真理や悟りもそれと同じです。体験しない限り決してわからないのです」

 たとえ上を向いて空の青さを見ていても、彼がそれきり何も言わなければ、「空の青」を見ていたかどうかさえわかりません。彼が「ああ青いねえ」と言い、別人が「そうだねえ」と言わない限り、「空が青い」かどうか、誰にも(本人にも)わかりません。

 何をどう体験しようと、体験それ自体は、徹頭徹尾、無意味なのです。「意味」を作り出すの言語であって経験ではありません。

 他方、言語はそれが語ろうとする当の対象に原理的に届きません。「私」という言葉が、自分以外のすべての人物にも使われていることを考えれば、一目瞭然でしょう。「今」「ここ」という語も同じです。いつでもどこでも、「今」「ここ」という語が使われる以上、他に比類なき当の「今」「ここ」は、決して言語化されません。つまり、言語自体は無力なのです。

 体験そのものは無意味であり、言語自体は無力です。私が「仏教は言葉の問題だ」と言うのは、正確には「仏教の根本的テーマは言葉と経験の間にある」ということです。

 菩提樹下での禅定で「悟り」を開いたとされる釈尊は、その正に「悟った」とき、何を体験し、彼の心身に何が起こったのか、一切語っていません(少なくとも、彼が語ったと想定できる文書は見つかっていない)。

 彼が語ったのは、「悟った」後に考えたこと・わかったことであり、そこにいたるまでの方法・実践です。ということは、釈尊は語るに足りることは「悟り」の前と後のことのみであり、「悟り」それ自体には語る意味がないと考えたのでしょう。

 すると問題は、釈尊が語った「教え」と語らなかった「悟り」体験の間、その距離をどう考えるか、ということでしょう。

 後進の我々は「悟り」それ自体を目指しても無駄です。つまり、釈尊の後に誰が「悟り」を開こうと、それが釈尊の「悟り」と同じかどうか、証明する方法がありません。

 ならば、「見性」にかかわるすべての言説は、語る本人のファンタジーにすぎないでしょう。道元禅師がいわゆる「見性」を否定するのはそのためです。

 そんなことより大事なのは、「悟った」釈尊が行っていた「禅定」を彼の「教え」のコンテクストのどこにどう位置づけるか、ということです。つまり言葉と体験の「間」を考えることです。

 この場合、私がとった方法は、「教え」から「禅定」に遡上することです。すなわち、私が重視する「無常」「無我」「空」「縁起」そして「無記」の教えを可能にする禅定とは、どういう実存状況なのかと考えたわけです。

 そう考えると、「禅定」はおそらく、言語機能を極限まで縮小・低減させ、自意識をほぼ無効にするような身体技法だろうと見当がつきます。

 では、この見当を私にリアルに納得させてくれるような言説を誰かしているか? その言説こそが、道元禅師の「非思量」だったのです。

 以後、私は「悟り」という言葉、概念、その語りを完全に放棄しました。それは「悟りとは非思量のことだ」「悟りと非思量は同じだ」ということではありません。

 そうではなくて、釈尊の「教え」と「禅定」の間は、「非思量」でつないで考えれば事はすむので、「悟り」など無用であり、むしろ「絶対の真理」のごとき錯覚をもたらす分、危険だということです。

追記:次回「仏教・私流」は3月31日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

 


他人力

2014年02月20日 | インポート

 最近、「〇〇力」とか「〇〇する力」というようなタイトルの書物を妙に沢山見かけるような気がします。中にはおよそ「力」と称するには無理のあるようなタイトルもあります。いったいこの「力信仰」はどういうわけなのでしょう。

 そういえば、もう一つ流行しているのが、いわゆる「自己啓発セミナー」と「自己啓発本」です。

 最近仄聞したのですが、かねて私は、「自己啓発」関連のビジネスは、「悩んでいる人」あるいは「苦しい人」向けのものだろうと思っていました。

 ところが、今や実際にはそうではなく、「普通の人々」が「もっと成功するため」「もっともうけるため」の「自己啓発」なのだそうです。

 とすると、昨今の事情は、巷で多くの人が「もっと成功するため」「もっともうけるため」の「力」を求めている、ということでしょう。で、「力」という以上は、「自己」に内在しているはずだから、それを本やセミナーで「啓発」しようというわけでしょう。

 私はここで本やセミナーの良し悪しを言うつもりはありません。言いたいのは、この種の「自己啓発」には錯覚があるということです。それはつまり、「力」は「自己」に内在しない、ということです。

 「自己」の実存は、「他者」によって立ち上げられ・呼びかけられて、始まります。その存在の仕方は基本的に受け身なのです。「力」が働くのは、この実存の場なのであり、それ自体で存在すると錯覚されている「自己」の内部ではありません。

 「自己」の「力」は常に、「他者」によって触発されて駆動し、「他者」に送り返されて作用するのです。というよりむしろ、そのような「他者」との関係のダイナミズムこそが、「自己」と「他者」を生成していくのだと言えるでしょう(競技者が1人のスポーツは成り立たず、そこに「スポーツの力」はありえません)。

 思うに、「力」が効果的に「啓発」されるとすれば、それは「力」が「自己」ではない誰のために、どのように役に立つのかを考えたときです。