この先を思うと、やはり今の時点で一度言っておこうと思います。
憲法といえども所詮法律ですから、状況に応じて適宜変えていくことは勿論否定しませんが、現政権のやり口は、ダメでしょう。
一番ダメなのは、政治に妙な情念を持ち込むことです。「美しい国」とか「日本をとりもどす」とか「戦後レジュームからの脱却」だとか、漠然とした気分を言うばかりで、何をどうしたいのか、何故それが必要なのか、その結果何が起きるのか、具体的なことがまるでわからない言い草ばかりです。
けだし、政治の要諦は、集団内の暴力と経済を管理しながら、メンバー(人や国家など)をめぐる錯綜する利害関係を調整して折り合いをつけることです。
このとき必要なのは、冷静で緻密な思考なのであって、情念など無用どころか有害です。
ところが、憲法改正手続きの変更の企てから始まり、今般の憲法解釈の変更計画に至る、政権の一連のやり口を見ていると、ほとんどまともな理屈が通じないことが見て取れます。それは、彼らの行動原理が情念だからです。
実際、先日の国防政策に関する記者会見における「国民」への説得は、不安や恐怖、家族の情などに訴えることが基調で、個々の問題を厳密に確定した上で、明晰な論理で対策を示すという方法によりません。
一例を挙げれば、個別的自衛権と集団的自衛権は、後者が共通の敵に対する軍事的同盟を基本とする考え方であって、自国の防衛とは論理構造がまるで違うにもかかわらず、「皆さんのお父さんやお母さん、子どもたちを見殺しにしないため」などと情に訴えて、個別自衛権の延長線上にあるかのような言い方をするのは、およそ論理的ではありません。
さらに言えば、これが政治だと言うなら、集団的自衛権の行使に踏み切るという大きなカードを切る以上、せめてそれを材料に沖縄の基地の大幅削減くらいの取引をして見せることが、なぜできないのでしょう。
政治家が情念を語ってはいけないと言っているのではありません。民主主義の政治体制下では、情念で政治をするな、と言いたいのです。議論で動かすべき政治体制に、議論にならない思い込み(情念)を持ち込まれても、始末に困るだけです。
私は、政権の経済政策も情緒的に過ぎるように思っています。生活習慣病(少子高齢化)の患者に興奮剤(金融緩和)と栄養剤(財政出動)をぶち込み、筋トレ(成長戦略)させれば元気になれると言うがごとき、一言でいえば人々の「気分」頼みの対策(政権支持のバロメーターである株価は「気分」で変動する)は、結局は体質改善が必要な患者の病状を悪化させるでしょう。
だいたい、オリンピックとリニア新幹線と原発再稼働で「成長戦略」などと大真面目で言い出すのは、オリンピツクと新幹線と原発建設で「高度成長」をという、1960年代の発想です。こういう時代錯誤的アイデアを臆面なく言い出せるということは、緻密な思考が不足している証拠でしょう。
ここで最後にもう一度繰り返しておきます。
私が思うに、現代日本の最大の政治的テーマは、少子高齢化を前提に政治経済構造を整理し、国力の低下に応じて戦略的に国家を縮小するか、そうでなければ、大規模な移民政策を実行して、社会と経済の規模を維持しようとするかという、きわめて困難な選択でしょう。
この選択を度外視して、「出生率目標」を掲げて「産めよ増やせよ」などと再び言い出すなら、今度こそバカ丸出しです。「産めよ増やせよ」は、昔したのは「戦争」のため、今度するなら「経済成長」のため、要するに産んだり育てたりする人のためではありません。この「養育する人たち」の政治的な無視が、「低出生率」の大きな要因であることがわからないなら、やはりこの政権に理屈は通じないのでしょう。