大衆というのは烏合の衆と同じである。一時的な感情で物事を判断してしまうからである。西部邁は大衆が暴走する危険性があることを警告していた▼「もし民衆が庶民として伝統を、つまり歴史の知恵を保守しているなら、さらに民衆が公衆としてルールにもとづいた討論を継続しているなら、民衆制にまさる政体はないとみてよい。しかし民衆が大衆に転落し、歴史の知恵を破壊し、討論の実践を放棄するなら、民衆制は最悪の政体となるかもしれない。最悪ではないとしても、数ある独裁性が民衆の熱狂に支えられて誕生したことを思うと、それは最悪な政治の産みの親となりうるのである」(『批評する精神Ⅳ』)▼安倍首相が民主党政権時代を「悪夢であった」と語ったことが物議をかもしたが、あのときはマスコミが大騒ぎして、それに多くの日本国民が踊らされたのである。デマゴギーを信じて、善悪の判断ができなくなって、愚かな大衆と化してしまったのである▼最近沖縄で行われた県民投票にしても、あれは明らかに大衆の感情に訴える暴挙であった。それがまかり通るようになれば、デモクラシーは堕落してしまうのである。私たちが二度と同じ「悪夢」を繰り返さないためには、頑固なまでに「歴史の知恵を保守」することや、議会政治の根本である「公衆としてルールにもとづいた討論を継続」することが求められるのである。
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