草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

国柄を守らんとして敵味方に分かれた戊辰戦の悲劇

2024年04月13日 | 歴史
 吉田松陰ですら当初は公武合体を支持していたのに、それが討幕派になったのはなぜか。浄土真宗の僧黙霖に論破されたからいわれといわれていますが、それ以上に欧米列強の脅威に対処できない幕府への憤りがあったからでしょう。
 とくに、首席老中であった阿部正弘の死によって、改革に向って走り出した路線がとん挫し、井伊直弼の登場によって反動の風が吹き荒れます。正弘は薩摩の島津斉彬(なりあきら)や水戸斉昭に接近し、250年わたった幕府の政治に終止符を打とうとしましたが、それを覆したのが大老に就任した直弼でした。将軍後継問題で一橋慶喜を推した勢力を排除し、敵味方の見境がなくなるほどに弾圧しました。そこで松陰やその一門は討幕を決断するにいたったのです。
 安政の大獄に憤慨して松陰門下の者たちが立ち上がったのです。その代表格が久坂玄瑞でした。攘夷の決行を幕府に迫りました。孝明天皇の逆鱗に触れたことで、長州は文久3年の8・18政変で京都を追い出され、天忠組の決起は失敗しますが、明治維新に向けた一歩を踏み出すことになったのです。
 また、久留米の神官真木和泉は、元治元年の禁門の変に際して、長州の大軍が到着する前に、限られた人数で京都に攻め込むことを主張しました。久坂もそれに同意し京の地を死に場所としたのです。市井三郎は「真木は天皇を諫争するためには、ここで自分を含めて先発隊が死んで見せることが必要であり、二千のものが奮戦・死闘をやることによって、きっとそのあと、諸大藩が立ち上がる情勢が生まれるだろう、という見通しをもっていました」(『明治維新の哲学』)と書いています。これをきっかけにして、長州では俗論党が倒され、薩長連合が成立し、第二次長州戦争が幕府側の敗北に終わります。
 しかし、会津やそれを支援する旧幕府軍、奥羽越列藩の仙台や米沢などは、そうした薩長の動きに対して警戒心を募らせ、抵抗の姿勢を貫こうとします。とくに会津は神道の藩であり、京都守護職として一時は「王城の護衛者」となった自負もあって、飯盛山での白虎隊の悲劇へと結びつくのです。少年たちは文天祥の詩「人生古自り 誰か死無からん 丹心を留取して 汗青を照らさん」(「零丁洋を過ぐ」)を吟ずることで、賊軍ではないことを示そうとしました。
 あくまでも主導権争いとしての権力闘争であり、日本丸の舵取りは誰がふさわしいかをめぐっての戦いでした。敗れたとはいえ会津は、国論を分裂させることを潔しとせず、明治国家の建設に協力し、教育界に多くの人材を送り出したのです。
 真木も天忠組も白虎隊も、その根本にあったのは日本の国柄を守らんとする精神でした。敵味方となって争ったとしても、その根本には共通の熱き思いが脈打っていたのです。
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