2022/5/18放送
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。5章にはツァラアトという重い皮膚病にかかった人が出てきます。
彼はイエス様に出会った時に、こう言います。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
新約聖書はギリシャ語で記されていますが、もともとの言語ではもっと強い響きがあります。「主よ、あなたはおできになる。あなたが欲しさえすれば。」「もしあなたがそうしようとお思いになりさえすれば、あなたには出来ないことはないのです。」「あなたが治したいと思うならば治せます。」という強い響きです。
このことばは、神に対する嘆願のことばです。ある意味、神に挑戦する響きさえ帯びることばです。「あなたは神ですよね。すべてがお出来になるのですよね。私を治したいと願ってくださるはずですよね。」 ひれ伏してがむしゃらに祈る姿がここにあります。そして、この男の姿を思う時に、私たちはがむしゃらに祈る祈りを忘れていないかということが問われてくるように思います。
本気で神様が祈りに答えてくださることを信じることを止めてはいないでしょうか。神様にいくらお願いしてもこの現実は変わらないと思っていないでしょうか。だから、嘆願するような祈りをしなくなったということがあるのではないかと思います。「神に嘆願したところで、何にも変わりはしない。」「神の思いは私たちの意思など、願いなど無視して動いている。あとは結局、要領よくやるしかない。」と、祈ることを諦めてしまっている。
クリスチャンたちもそうです。「私の願いではなく、神様のみこころがなりますように」と祈ります。しかし「神のみこころだけがなるのであれば、祈ってもしょうがないじゃないか」という、祈りを失う結果に繋がるならば、そんな聞き分けの良い信仰、いのちを失った信仰になんの魅力があるのかということもまた問い直さなければいけません。
この重い皮膚病の人のように膝まずき懇願し嘆願する祈りを神は許しておられるのです。むしろ神の胸にすがるように「神様。これでは困るんです。どうぞ、神様、あなたのお心を変えてください」という祈りを神は求めておられる。
私たちは今日、大胆に神に求めたいと思います。信じてまっすぐに訴え出たいと思います。
( PBA制作「世の光」 2022.5.18放送でのお話しより )
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