♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■ルカの福音書-97 祈ってもかわらない? / 大嶋重徳

2022年10月19日 | Weblog

2022/5/18放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。5章にはツァラアトという重い皮膚病にかかった人が出てきます。

 彼はイエス様に出会った時に、こう言います。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」

 新約聖書はギリシャ語で記されていますが、もともとの言語ではもっと強い響きがあります。「主よ、あなたはおできになる。あなたが欲しさえすれば。」「もしあなたがそうしようとお思いになりさえすれば、あなたには出来ないことはないのです。」「あなたが治したいと思うならば治せます。」という強い響きです。

 このことばは、神に対する嘆願のことばです。ある意味、神に挑戦する響きさえ帯びることばです。「あなたは神ですよね。すべてがお出来になるのですよね。私を治したいと願ってくださるはずですよね。」 ひれ伏してがむしゃらに祈る姿がここにあります。そして、この男の姿を思う時に、私たちはがむしゃらに祈る祈りを忘れていないかということが問われてくるように思います。

 本気で神様が祈りに答えてくださることを信じることを止めてはいないでしょうか。神様にいくらお願いしてもこの現実は変わらないと思っていないでしょうか。だから、嘆願するような祈りをしなくなったということがあるのではないかと思います。「神に嘆願したところで、何にも変わりはしない。」「神の思いは私たちの意思など、願いなど無視して動いている。あとは結局、要領よくやるしかない。」と、祈ることを諦めてしまっている。

 クリスチャンたちもそうです。「私の願いではなく、神様のみこころがなりますように」と祈ります。しかし「神のみこころだけがなるのであれば、祈ってもしょうがないじゃないか」という、祈りを失う結果に繋がるならば、そんな聞き分けの良い信仰、いのちを失った信仰になんの魅力があるのかということもまた問い直さなければいけません。

 この重い皮膚病の人のように膝まずき懇願し嘆願する祈りを神は許しておられるのです。むしろ神の胸にすがるように「神様。これでは困るんです。どうぞ、神様、あなたのお心を変えてください」という祈りを神は求めておられる。

 私たちは今日、大胆に神に求めたいと思います。信じてまっすぐに訴え出たいと思います。


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.18放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■ルカの福音書-96 イエスのそばに / 大嶋重徳

2022年10月18日 | Weblog

2022/5/17放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
 ルカ福音書を順番に読んでいます。5章の続きではツァラアトという重い皮膚病にかかった人が出てきます。この病気は社会的に穢れた病だとされる差別を受ける病気でした。人々の多くが住む居住区から隔離され、街の中に入る際には、誰もが自分に触れることがないように「私は穢れている」と言いながらしか街中を歩くことが出来ない病気でした。どれほどの孤独と苦しみがこの人にあっただろうかと思います。

 私も小学生の頃にいじめを受けていました。ある日突然です。「大嶋菌がうつる」と言われる。私が誰かの机に触れると、手で払われてフッフッと息を吐かれ、「触んな」と言われる。あまりのショックに声を失いました。ただ苦笑いしか出来ずにその場を去りました。いじめはその後も随分と長く続きました。自分の存在そのものを否定されるこの時間は永遠に続くような絶望を感じました。うまく呼吸できないような、ずっと水の中にいるようなそんな気持ちになりました。家までの4kmもある帰り道はいつも一人でした。小学生ながらに、人生とは残酷だと思いました。親にも誰にもこのことは言えませんでした。一人でいつも本を読み、親に買ってもらった「少年少女世界文学全集」は何度も何度も読み続けました。一人で家に帰る時は、ひたすら空想していました。空想の設定は「来週、俺は引っ越しをする。そこでの新しい教室での挨拶をどうしようか」という設定でした。新しい人生がどこかにあるはずだと求めていたのです。

 ツァラアトにかかった彼はイエス様の噂を聞いてイエス様を見つけた時、どれほど嬉しかったでしょうか。彼はひれ伏してお願いします。そして彼は言います。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」 

 今の生活を抜け出したいと思ったでしょう。私も早くいじめられる状況から抜け出したいと思いました。いつになったらこのいじめが終わるのだろうかと思っていました。その中で教会学校が唯一の救いでした。学校とは違う人間関係がそこにあったからです。自分を大切に受け入れてくれる教会学校の先生たちがいました。

 教会はあなたに新しい居場所を与えてくれます。すべての人間関係が行き詰まったように思えたとしても、イエス様のそばにはあなたの居場所があるのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.17放送でのお話しより )


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■ルカの福音書-95 主よ、お心一つで / 大嶋重徳

2022年10月17日 | Weblog

2022/5/16放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、鳩ヶ谷福音自由教会牧師の大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。今日の箇所、5章の続きでは、イエスがある町に向かわれた時の出来事が記されています。

 この町に全身ツァラアトという重い皮膚病の人がいました。彼はイエス様を見るとひれ伏してお願いしたのです。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」

 このツァラアトという皮膚病は、詳しいことはわかっていません。しかし、この病気にかかると、社会的に自分の存在が穢れている状態だとされる非常に深い悲しみと苦しみの中に置かれていた病でした。人々の住んでいる居住区から離れて町の外に住むことを求められ、町の中を歩く場合は「私は穢れている。穢れている。」と言いながら外を歩かないといけませんでした。もし誰かがこの病気の人に触れてしまうことがあれば、その穢れが伝染(うつ)ってしまうと考えられたからです。家族とも離れ離れにされ、家族や周囲の人々の施しを受けながら生活せざるを得ない、辛い病気でした。

 残酷な社会の仕組みが彼をより一層苦しめていました。彼は「神などいるのか」と何度も思ったことでしょう。家族から切り離される、孤独に生きざるを得ないのです。

 すると、うわさが聞こえてきました。夜を徹して人々を癒すイエス・キリストという存在でした。この噂を聞いた人々が、色々な病気で弱っている者をイエスという人のところに連れて行っている。しかも、イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた、と聞こえてきました。

 「穢れている」と言わざるを得ない自分のことは触ってはくれないだろう。「触れてはいけない」という罪を犯すことになるから。「でも、イエスという人に会いたい。」「会って話してみたい。」「なぜ、神がいるならこんなことが自分の人生にあるのか聞いてみたい。」 そんな思いになったでしょう。そして、彼は人前に出ていくことを決意するのです。そして「私は穢れています。穢れています。」と言いながら、町の中へと入っていきました。

 イエス様という存在は私たちの人生の最後の希望です。どれだけの悲しみの中に置かれても、誰があなたを見捨てたとしても、イエス様だけはあなたを見捨てられない存在です。もし今日、あなたが何の先行きが見えない状況にあったとしても、イエス様という存在はあなたを助けます。あなたを癒やします。あなたを必ず救い出してくださる方なのです。

    ( PBA制作「世の光」 2022.5.16放送でのお話しより )


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■世の罪を取り除く神の小羊 / 板倉邦雄

2022年10月15日 | Weblog

2022/5/14放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「世の罪を取り除く神の小羊」という題でお話しいたしましょう。今日は、「イエス・キリストとは何者か」という主題について、洗礼者ヨハネの口を通し学びたいと思います。ヨハネの福音書1章の29節から31節です。

 さて、当時の宗教指導者たちから質問攻めにあった翌日です。洗礼者ヨハネは、イエス様が自分のほうに来られるのを見て、自分に従ってくる人々に向かってイエス様を紹介しました。
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

 そこで今日は「イエスは何者であるか」ということで、イエス・キリストの使命(ミッション)について分かち合いたいのです。

 イエス様は世の罪を取り除くために来られた神の小羊でした。「世の罪」とは、もちろん私たち人間の罪です。私たちの罪は三つあると聖書は語ります。

 まず第一に、法律を犯す罪があります。二番目に道徳的倫理的な罪があります。そして三番目に宗教的な罪がありますね。

 法律を犯す罪は明白です。殺人や盗み、偽証です。道徳的罪は嘘や不品行や親不孝や妬みや憎しみ等々でしょうか。そして宗教的罪とは偶像崇拝の罪です。

 聖書では、貪欲は偶像崇拝、と言われています。金銭や財産、物質、に対する貪欲は金銭や財産物質が私たちにとって神となってしまい、私たちを振りまわすことになります。私たちは命をかけるときがありますね。

 イエス・キリストはこの世に生きる私たちの罪や悪を取り除くために来てくださいました。

 私たちはこの三つの罪の奴隷ではないでしょうか。法律や規則を破ります。道徳的な罪は毎日犯すでしょう。そして、目に見えるものに支配されているのです。

 神のひとり子イエス・キリストは私たちの罪と悪を取り除き、清め、罪の奴隷から私たちを解放し、自由にするためにこの世に来てくださったのです。そのために神の小羊になられました。イエス様が来られるまでは動物の小羊が私たちの罪の身代わりとなって死んで血を流し、私たちの罪が赦されました。でも今は神のひとり子が私たちの罪のために神の小羊となってくださったのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.14放送でのお話しより )


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■バプテスマのヨハネ / 板倉邦雄

2022年10月14日 | Weblog

2022/5/13放送

「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「バプテスマのヨハネ」という題でお話ししましょう。

 「バプテスマ」とは、水による洗礼を施す儀式の呼び名です。神に対し罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じると告白した人に、罪の赦しと神との和解をしたという印として施される儀式です。それを最初に施したのがヨハネという人でしたから、「バプテスマのヨハネ」「洗礼者ヨハネ」と呼ばれているのです。ヨハネの福音書1章の24節から28節のお話しです。

 さて、今度は当時の宗教指導者であったパリサイ派の人々がヨハネのところに来て質問しました。パリサイ派とは「分離主義派」という意味です。彼らの質問は単なる質問ではなく、「水で洗礼を人々に授ける根拠はどこにあるのですか」という、むしろヨハネに対する批判でした。水で洗礼を授けるなどという儀式は今までもないし、新しい儀式ですから宗教指導者たちにとってはほっとけないのでありました(※)。そして、彼らは三段階の根拠を重ねて、新しく水の洗礼バプテスマを授けているヨハネを咎めたのです。
 「あなたは救世主でもないし、エリヤのような改革者でもないし、また神からの預言者でもない。そのあなたがなぜ新しい水によるバプテスマ(洗礼)を人々に授けるのですか。」

 ヨハネは答えます。
  「わたしは水でバプテスマ(洗礼)を授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。その方がわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」
     ヨハネの福音書1章26節~27節。

 ヨハネの後においでになる方とは言うまでもなく救い主イエス・キリストです。このお方は聖霊によってバプテスマ(洗礼)をお授けになる、とヨハネは語りました。水のバプテスマ(洗礼)以上の、神の聖霊によって私たちはバプテスマ(洗礼)をイエス・キリストから授けて頂けるのです。

 水の中をくぐり抜けて私たちの罪の汚れが洗い清められるように、神の聖霊の中をくぐり抜けて私たちの罪と汚れは洗い清められていくのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.13放送でのお話しより )

 ※ ユダヤ人の間で水は、宗教的穢れのきよめのために水を浴びるという定めがあった他、ユダヤ教への改宗の際には身体を水に浸したとされている。

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■あなたは誰ですか / 板倉邦雄

2022年10月13日 | Weblog

2022/5/12放送

「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「あなたは誰ですか」という題でお話ししましょう。

 印象画家ゴーギャンは次のような質問の絵画を描いています。「我らはどこから来て どこへ行くのか、 そして我らは何者であるか」
 「あなたは誰ですか」という質問は「あなたは何者か」という意味です。

 ヨハネの福音書1章の続きです。今日は19節から23節までのお話しです。

 さて、ユダヤ人たちは、エルサレムの神殿で仕える祭司やレビ人たちを洗礼者ヨハネのもとに遣わしました。そして、尋ねたのです。「あなたは誰ですか。」

 すると、ヨハネは答えました。「私は皆さんが待ち望んでいるキリスト(救世主)ではありません。」

 すると彼らは再び問いかけました。「それでは、どなたなのですか。あなたは救世主キリストの前に来るエリヤですか。」

 「いや、違う」

 「では、あなたはモーセが預言したあの預言者ですか。」

 「いいえ」とヨハネは答えました。

 遣わされた人々は、さらに質問しました。「あなたは誰ですか。私たちを遣わした人々に答えを持っていけるようにしていただきたいのです。あなたは自分を誰だと考えるのですか。」

 すると、洗礼者ヨハネは答えました。「私は預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で呼ばわる者の声、である。」

 預言者イザヤは洗礼者ヨハネが登場する700年前の人でした。イザヤは、キリストは救世主が来る前にキリストの道を準備するものを遣わす、と預言したのです。その人物は「荒野で呼ばわる者の声」となります。洗礼者ヨハネは主イエス・キリストの道を備える呼び出しになると自分を紹介しました。

 さて、翻って私たちも「私は誰か」「私は何者であるか」と自問自答しなければなりません。洗礼者ヨハネは「私は主イエス・キリストの道を備えるために荒野で叫ぶ声である」と自分を紹介できました。「自分はどこから来て、どこへ行くのか そして今私は何をすべきか」を知っていたのです。

 人生はしばしば旅に喩えられます。旅人は目的地を目指して自分の家から旅立ちます。そして、今どこにいて何をすべきかを知っているのです。私たちは神から出て神に帰る地上の旅人です。


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.12放送でのお話しより )


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■イエス・キリストは神 / 板倉邦雄

2022年10月12日 | Weblog

2022/5/11放送

「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「イエス・キリストは神」という題でお話ししましょう。では、始めにヨハネの福音書1章18節を口語訳でお読みいたします。

 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」

 今日はキリスト教にとってとても大事な教えの一つであるイエス・キリストの二性一人格についてお話ししましょう。

 二性一人格とは、イエス・キリストは神の性質と人間の性質を両方を持ちながら、一人格を持っていましたという教えです。イエス・キリストは神100%、人100%。しかし、200%にはならず100%であったのです。イエス・キリストは完全な神であると同時に完全な人でありました。ですからヨハネは、神を見た人はまだ一人もいない、と言ったあとで、父のふところにおられるひとり子の神が神をあらわしたのである、と語りました。ひとり子の神とはもちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストは父なる神のふところにおられたのです。そのひとり子の神が人となってこの世に来られたのです。私たちと全く同じ人間の姿をとられたのです。ひとり子なる神イエス・キリストは、父なる神の胸にいたのですから、神の胸の内を理解することができました。ですから、神を説き明かすことができたのです。

 では、なぜひとり子なるイエス・キリストが人となられたのでしょうか。それは、主イエス・キリストが神と人との仲介者となるためでした。伝道者パウロはこう語ります。

 「神は唯一であり、神と人との間の仲保者(仲介者)もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」
        テモテへの第一の手紙2章5節と6節です。

 私たちは父なる神と仲違いをしています。神との平和はありません。神であり人であったイエス・キリストだけが両者の仲介をすることができます。神のひとり子イエス・キリストは自分のいのちを代価として私たち罪人を身受けしてくださり、神の養子とするためにご自分のいのちを十字架にささげ、贖いをしてくださったのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.11放送でのお話しより )


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■恵みと誠 / 板倉邦雄

2022年10月11日 | Weblog

2022/5/10放送

「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 昔、『愛と誠』というマンガの本がありました。今日は「恵みと誠」がイエス・キリストによって実現したことをお話ししたいと思います。では、ヨハネ福音書の1章17節を口語訳で読みます。

 「律法はモーセをとおして与えられ、恵みと誠とは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」

 まずユダヤ人にとってモーセの律法は。神から自分たちに与えられた特別なことばですから高く評価していました。律法は神様からのものですから良いものでした。私たち人間の罪を示し、人々に罪と悪を認めさせる働きをしました。

 しかし、律法では私たちの罪を指摘することはできても、罪人の罪を赦し、罪から罪人を贖い救うことはできなかったのです。すなわち、ヨハネは「モーセの律法には恵みとまことが無い」と言いたいのではないでしょうか。しかし、恵みと誠はイエス・キリストによって実現し、私たちはイエス・キリストによって救出される、と作者のヨハネはこれから語ろうとしているのです。

 イエス・キリストこそ奇跡の力を持ち、人々の心を神に心服させ、服従させることのできる能力を持っておられました。しかも、イエス・キリストはその能力をご自分の栄光のためではなく、神からの賜物・贈り物として、神と人々のために誠をもって用いてくださったのです。「誠」という漢字は、言偏で右が「成る」と書きますね。イエス・キリストは言ったことをその通り実行しました。

 しかし、注意しなくてはならないのはモーセの律法は間違っているとヨハネは言っているのではありません。モーセの律法は、「きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。」とコロサイ人への手紙2章17節で使徒パウロは語りました。モーセの律法は、「恵みと誠」であるイエス・キリストの影だったのです。この影をたどっていきますと本体であるイエス・キリストが登場するのです。モーセの律法が、かつて石の板に記されました。しかし、恵みと誠は私たちの心に刻まれるのです。

 主なる神はこう言われました。
 「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。」
            エレミヤ書31章33節


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.10放送でのお話しより )


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■キリストの豊かさ / 板倉邦雄

2022年10月10日 | Weblog

2022/5/9放送

「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「キリストの豊かさ」という題でお話しいたしましょう。では、まずヨハネの福音書1章16節を口語訳でお読みいたします。

 「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。」

 まず、イエス・キリストのうちにあらゆる祝福が溢れるばかりに豊かに宿っている、とヨハネは語っているのです。あらゆる祝福とは、いのちと真理、正義と聖潔、英知と知恵、そして何よりも慈悲と博愛ではないでしょうか。これらは隠れた泉のようにイエス・キリストの中に満ち満ちて宿っているのです。

 ですから私たちは汲めど尽きることのない泉であるキリストに、信仰によってつながっていきたいのです。なぜなら、私たちはやがて死ぬべき者だからです。しかし、いのちの祝福の豊かさはイエス・キリストのうちに溢れています。

 また、私たちは不義と不潔によって、惨めな汚れと迷いの中にあるのではないでしょうか。しかし、正義と聖潔の祝福はイエス・キリストのうちに溢れています。

 さらに、私たちは無知で知恵に欠けているのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストのうちに英知と知恵が溢れているのです。

 イエス・キリストはこの世に来られた目的をこのように言われました。
 「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」
         ヨハネの福音書10章10節です。
 羊飼いとして来られたイエス・キリストを信じて従うすべての人たちに、優先的な博愛を注いで、永遠のいのちを与え、しかも豊かにお与えになるのです。罪の赦しも与え、優れた知識も知恵も与えてくださるのです。

 そして、さらにヨハネはこうつけ加えました。
 「私たちはめぐみのうえにさらにめぐみを受けたのである。」

 この「恵み」というギリシャ語は「カリス」といいます。「カリスマ」の語源です。ギリシャ語の「カリス」は「神の恵みの賜物」という意味を持っています。「カリスマ」は私たちを誇らせ自慢させる所有物ではありません。私たちを互いに生かし、ともに生きるための神様からの恵みの贈り物です。私たちは、イエス・キリストへの信仰というパイプを通して、恵み(カリスマ)の上にさらにカリスマ(恵み)を豊かに受けているのです。ですから、私たちはみんな誰でもカリスマ人間なのですね。


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.9放送でのお話しより )


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■変わることのないお方 / 関根弘興

2022年10月08日 | Weblog

2022/5/7放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 私は日本に住んでいてとても良かったなあと思うことがあります。それは、移り変わる四季折々の風情を楽しむことができるということです。寒い冬が過ぎ、春を迎え、蒸し暑い夏がきて、また秋に向かう。四季の折々の美しさは、ものの移り変わりの美しさでもありますよね。冬枯れの枝からは新芽が出、新緑は濃い緑に変わり、そして色づいていき、また散っていく。ああ今の季節は、私の住んでいるこの地域でもですねえ本当に緑がだんだんだんだん濃くなってとても美しいです。

 移りゆくものの姿、それはまた、ものの寂しさとか哀れさを教えてくれます。こうした姿に私たちは「わび、さびの世界」を経験するのだなと思います。ですから日本の詩歌のテーマはこの移り変わりの美しさや、ものの寂しさ、哀れさを表すことが多いですね。

 四季折々の自然に触れ、移り変わる風情を楽しむのは、私たちに与えられた喜びでもありますが、お互いの人生を考えるとどうでしょう、私たちの人生も移り変わっていきます。「人生の四季」という言葉がある通り、若い時代から老いの時代へと移り変わっていくわけです。

 だからこそ私たちは、決して移り変わることのないものがどうしても必要なのです。

 聖書にはこう記されています。ヤコブの手紙1章17節
 「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」
 こう書かれています。

 時代は変わります。国の体制も変わります。人の思索もいつのまにか変わっていきます。自然も変わります。変わらないものなど何一つありません。しかし、決して変わることのない方がいるのですよと聖書は教えます。

 それは、天地を創造された神様。この方は決して移り変わることはありません。神様は真実で愛に富むお方です。ですから、この世界は変わっても神様の愛は変わることがありません。神様の真実は変わりません。

 この方を信じ生きるということは、どんなに大きな慰めでしょう。私たちは自然の移り変わりを楽しみながら、すべてのものは移り変わるけれど、でも決して変わることのない方がいるということを信頼し生きていくことができる。なんと感謝なことでしょうね。そうした生き方こそあなたを豊かにしていくのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.5.7放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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