♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■ルカの福音書-95 主よ、お心一つで / 大嶋重徳

2022年10月17日 | Weblog

2022/5/16放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、鳩ヶ谷福音自由教会牧師の大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。今日の箇所、5章の続きでは、イエスがある町に向かわれた時の出来事が記されています。

 この町に全身ツァラアトという重い皮膚病の人がいました。彼はイエス様を見るとひれ伏してお願いしたのです。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」

 このツァラアトという皮膚病は、詳しいことはわかっていません。しかし、この病気にかかると、社会的に自分の存在が穢れている状態だとされる非常に深い悲しみと苦しみの中に置かれていた病でした。人々の住んでいる居住区から離れて町の外に住むことを求められ、町の中を歩く場合は「私は穢れている。穢れている。」と言いながら外を歩かないといけませんでした。もし誰かがこの病気の人に触れてしまうことがあれば、その穢れが伝染(うつ)ってしまうと考えられたからです。家族とも離れ離れにされ、家族や周囲の人々の施しを受けながら生活せざるを得ない、辛い病気でした。

 残酷な社会の仕組みが彼をより一層苦しめていました。彼は「神などいるのか」と何度も思ったことでしょう。家族から切り離される、孤独に生きざるを得ないのです。

 すると、うわさが聞こえてきました。夜を徹して人々を癒すイエス・キリストという存在でした。この噂を聞いた人々が、色々な病気で弱っている者をイエスという人のところに連れて行っている。しかも、イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた、と聞こえてきました。

 「穢れている」と言わざるを得ない自分のことは触ってはくれないだろう。「触れてはいけない」という罪を犯すことになるから。「でも、イエスという人に会いたい。」「会って話してみたい。」「なぜ、神がいるならこんなことが自分の人生にあるのか聞いてみたい。」 そんな思いになったでしょう。そして、彼は人前に出ていくことを決意するのです。そして「私は穢れています。穢れています。」と言いながら、町の中へと入っていきました。

 イエス様という存在は私たちの人生の最後の希望です。どれだけの悲しみの中に置かれても、誰があなたを見捨てたとしても、イエス様だけはあなたを見捨てられない存在です。もし今日、あなたが何の先行きが見えない状況にあったとしても、イエス様という存在はあなたを助けます。あなたを癒やします。あなたを必ず救い出してくださる方なのです。

    ( PBA制作「世の光」 2022.5.16放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 

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