♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■悪に負けてはいけない / 福井 誠

2018年03月21日 | Weblog
2018/2/14放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「悪に負けてはいけない」です。ローマ書12章21節を読んでみましょう。

 「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(新改訳2017)

 ローマ人への手紙12章からはキリスト者として生きるための実践的な教えが数珠玉のように描かれていますねえ。パウロの手紙の特長ですが最初に理論的なこと、そして後半はその理論に基づいた実践的な内容が語られています。

 11章までパウロが書いたことの要点を簡単に言うと、神様が私たちを愛してくださっている。その証拠が二千年前のイエスの十字架の死だ、ということですね。神様は歴史的に動かぬ事実をもってご自身の愛を確かなこととしてお示しになってくださっているのです。

 そのように神様に愛されているのですからそれに相応しい歩みをしましょう、というのが12章以降のお話ですね。神様に愛されているのですから、その神様を認めて神様に栄誉をお返しする礼拝を大事にするのは自然なことです。また神様に愛されている神の子なのですから相応しく神に倣った生き方をしていく。兄弟愛を実践し、勤勉で怠らず生きようではないか、と語られていますね。

 ちょっとチャレンジなのは、迫害する者たちを祝福しなさい、ということです。自分で復讐してはいけない。というのも神が復讐してくださるからだ、と言います。そのように語る神を認める心があれば復讐を思い止められます。しかし、私たちは正しいことをなさる神を認めることができず、迫害する者を呪ったり復讐心を燃やして行動を起こしたりするものですねえ。誰も自分の味方になってくれる人がいなんていない、ではありません。正しいことをなさる神が正しいことを正しい時にしてくださるのです。そういう信仰に立っているのですから神の怒りに委ねることですね。

 大切なのは天地万物を支配し、ご自身の御手にすべてを治めておられる神を認められるかどうかです。ですから神を認める人よ、悪に負けてはいけない、となるのです。神があなたの味方なのですから、神が加勢してくださるのですから、神と共に善をもって悪に打ち勝つ生き方をさせていただきたいものです。

(PBA制作「世の光」2018.2.14放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■自分と子どものために泣け / 板倉邦雄

2018年03月20日 | Weblog
2018/2/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「自分と子どものために泣け」という題でお話ししましょう。人生は泣き笑いに満ちている、とよく言われます。人生は泣くことが半分、そして笑うことが半分なのでしょうか。

 さて、巡礼に来ていた大勢の群衆と悲しみ嘆いてやまない女性たちの群とがイエス様に従っていきました。すると突然、イエス様は女性たちの方を振り向いて言われました。「エルサレムの娘たちよ。わたしのために泣くな。むしろあなたがた自身と子どもたちのために泣くが良い。」

 イエスは自分が死んだあと、エルサレムの都が陥落する日を見ていたのです。紀元70年、ローマに反抗したユダヤの国はローマ軍によって都エルサレムは包囲されます。戦争によって一番被害を受けるのはいつの時代でも乳飲み子や子どもを抱えた女性たちと老人ですね。ですからイエス様は、ご自分のためよりもエルサレムの女性たちを憐れんで言われたのです。「わたしのために泣かなくても良い。あなたがた自身のため、また自分の子どもたちのために泣くが良い。」(ルカ 23章28節参照) その日がどんなに残酷な日であるか、イエス様は続けて言われました。「その日、その時、人々は山に向かって『我々の上に倒れかかってくれ。』 また丘に向かって『我々の上に覆いかぶさってくれ』と叫び出すであろう。」(ルカ 23章30節参照)

 ローマへの氾濫は紀元66年に始まります。そして紀元70年、過ぎ越しの祭りの日、攻撃が開始され、ローマ軍3万、ユダヤ軍2万4千人、エルサレムには60万の群衆がひしめいていました。10万人が殺害され、多くの負傷者と9万5000人が捕虜となって曳かれていったのです。

 そしてイエス様は最後に次のような意味のことばをポツリと言われました。「もし生木でさえもこのような残酷な目に遭うなら、枯れ木である人々は一体どのようにされることでしょうか。」(ルカ 23章31節参照) イエス様はご自分を生木に喩えました。罪のない自分が犯罪人の一人のように扱われ、苦難と十字架刑を受けるとしたら、神に逆らう枯れ木のような人々は一体どんな審判を受けるであろうか、と嘆かれたのです

   (PBA制作「世の光」2018.2.13放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■悔い改めの入り口 / 岩井基雄

2018年03月19日 | Weblog
2018/2/12放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
月の第二週の月曜日は旧約聖書に登場するヨセフの人生について学んでいます。エジプトの王ファラオの夢をヨセフが解き明した通りに、エジプトだけではなく地域諸国にも飢饉が及んだ時、ヨセフは七年間の豊作の時に蓄えていたすべての穀物倉を開け、恵みを他の国へも施しました。神様の祝福は、周りの人々への施しまた癒しとなり、その知恵は世界への愛の証しともなります。世界の飢えや悲しみを神様は見過ごしになさらないのです。

 イスラエルにいたヨセフの父は、ヨセフの兄たちをエジプトに送ります。かつてヨセフが見た夢の通りに兄たちはヨセフの前にひれ伏したのです。ヨセフは謙る兄たちの姿に心を打たれます。しかし、かつての兄たちの姿勢に疑いを持っていたヨセフは兄たちにあえてスパイとしての疑いを懸け、彼らの心の状態を確かめるのです。

 エジプトの大臣から疑いを懸けられて監禁所に入れられ、末の弟のベニヤミンを連れて来るということを要求された時、兄たちはヨセフのことを思い出します。そして彼らは弟ヨセフに対して行なった過去の罪と過ちを神の前に認め、長男ルベンは「自分たちは血の報いを受けている」とさえ表現し、神の前に悔い改めたのです。

 聖書はこう語っています。
 彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」 旧約聖書 創世記42章21節(新改訳2017)

 苦難に出会うとき、私たちは自分が悔い改めるべき事柄が無いかどうかを振り返り、過去の罪と向き合うチャンスとなりますね。私たちの犯した罪を償うため神の御子キリストがこの地上に来て贖いとして十字架に架かってくださった恵みは計り知れない重さがあり、真実の愛が示されているのです。神様はあなたの苦しみに寄り添ってくださるのです。あなたも自分に示される罪を神の前に悔い改め、神の愛と赦しをご一緒に受け取っていきませんか?
 
 聖書のことば
 「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」 新約聖書 コリント第二の手紙 7章10節(新改訳2017) 

 神はあなたの悔い改めを待っているのです。

        PBA制作「世の光」2018.2.12放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■約束を守られる神 / 羽鳥頼和

2018年03月17日 | Weblog
2018/2/10放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は旧約聖書の創世記23章から、約束したことを必ず果たされる神についてお話ししたいと思います。

 神はアブラハムに祝福を与えると約束されていました。その約束とは、この地をあなたとあなたの子孫に与える、というものでした。23章では思いもよらない形で神の約束が果たされます。

 アブラハムはこの時、最愛の妻サラを亡くして深い悲しみの中にありました。アブラハムは悲しみから立ち上がり、妻を丁重に葬る墓を手に入れようとしました。アブラハムはサラが亡くなったこの地ヘブロンに彼女を葬ろうとしました。しかしその土地はヒッタイト人のものでした。そこでアブラハムはヒッタイト人に願いました。「私はよそから来た外国人です。どうかあなたがたの土地の一部を私に譲ってください。そこに妻を葬りたいのです。」

 ヒッタイト人は言いました。「私たちの土地に住んでいるあなたが神に仕える人であることを私たちは知っています。私たちの最上の墓地に亡くなった方を葬ってください。」 
 アブラハムは墓地を手に入れるために正当な土地の値段を支払うことを申し出ました。こうしてアブラハムは正式に墓地の土地を手に入れることができ、妻を葬ったのでした。
 墓は代々受け継がれていくものです。ですからヒッタイト人はこれからアブラハムと家族たちそして彼の子孫たちがそこに住み続けることを認めてくれたとも考えることができるのです。外国人であるアブラハムたちはヒッタイト人の土地に安心して住むことができるようになったのです。

 神はこのようにしてアブラハムへの約束の第一歩を果たされました。ヘブロンは後にイスラエルにとって重要な場所になるのです。アブラハムは妻を葬って安心を得ると共に、神が約束の地を与えてくださるという希望をますます確かなものとして持つことができたのです。

 明日は日曜日です。約束を果たしてくださる神を礼拝するために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」 2018.2.10放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■日ごとの糧をお与えください / 関根弘興

2018年03月16日 | Weblog
2018/2/9放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。イエス・キリストは弟子たちにどのように祈ったらよいのかを教えてくださいました。主の祈りと呼ばれるものですけれども、この祈りの後半には、「 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」(マタイ6章11節)と祈りなさい、と書かれているんです。

 これは私たちが生きていく上で必要なものが与えられるように祈りなさいと言う祈りですねえ。私たちは霞を食べて生きていくことはできません。生きるためには食べ物や着る物、住む場所など様々なものが必要です。つまり、「日ごとの糧をお与えください」という祈りは、毎日の生活に必要な具体的なもののために祈るという大変現実的な祈りなんですね。で、この祈りは神様が精神的な必要だけではなく物質的な必要も満たしてくださる方であるという事を教えているんです。

 私たちは時々、神様に対しては何か高尚な祈りのことばで祈らなければいけないのではないかと思ってしまいます。しかし神様は、私たちの日常的な必要にも関心を持っておられ、私たちの現実の生活の中でご自分が生きて働かれていることを教えてくださる方なんですねえ。まあこれは具体的に祈ってみなければ分りませんね。

 私は大学生の時でした。祈りが答えられるのだろうかと確かめたことがありました。祈りのノートを作って自分の祈った祈りを一つ一つ細かく書いていったんです。書かないと自分が祈った祈りをすぐに忘れてしまうからなんですねえ。貧乏学生でしたから、それこそ日ごとの糧のために祈り、とても細かいことまで祈っていきました。そして答えられた祈りには赤鉛筆で横棒を引いていったんです。するとどうなったと思いますか? そのノートは何と赤い横棒で一杯になったんです。

 もちろん私たちの願った祈りのすべてが叶えられるわけではありません。神様は私たちに益になることしかなさいませんから。私たちの自分勝手なですねわがままな祈りや自己中心的な祈りは聞いてくださいません。でも私たちの生活に深く関わり、みわざを行なってくださるんですねえ。ですからどんなにささいなことであっても具体的に祈ることはとても大切なんです。そうすれば現実の生活の中で神様のみわざを祈りを通して味わっていくことができるでしょう

  (PBA制作「世の光」2018.2.9放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■十戒 -自由への励まし 47 / 大嶋重徳

2018年03月15日 | Weblog
2018/2/8放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書ことばは人間を縛りつけるものでなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒の第五戒には「あなたの父と母を敬え」とあります。しかし私たちにとって親を敬うことはそんなに簡単なことではありません。私たちの育った家庭の中では両親の不仲がありました。親子の会話の断絶もあったでしょう。もしかすると育児放棄、虐待、暴力、暴言が満ちていたかもしれません。そんな環境に育った私たちにとって家族関係こそがすべての人間関係の中で一番緊張を強いられるということも少なくありません。そして親や家族、兄弟や親戚との関係を断ちたいと願っている人にとって十戒第五戒の戒めは「あなたの父と母」という一緒に生きるのが一番困難に思う存在と生きることを求められます。しかもここでは尊敬を抱いて生きて行きなさい、と。そうなると、もはや脅迫めいた教えとなって響いて来るでしょう。

 さらに問題は、なぜ父と母を敬うのかという理由や根拠がはっきりと記されていないことです。私たちはどこに立ってこの戒めと向き合うことが求られているのでしょうか。このように誰か生きる事が難しい時代の中で、私たちは果たして親を代表する誰かと生きていかないと本当にいけないのでしょうか。

 私たちが自分以外の他者と生きることの理由は、私たち人間を造られた神様の創造のわざに根拠があります。聖書の一番最初の創世記にはこうあります。

 「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」(創世記1章26節 新改訳第三版)

 ここには、「さあ人を造ろう」と神の意気込みが伝わってきます。ここで神様は「われわれ」と複数形で描かれ、神様は「われわれ」という交わりを持つ神であることを私たちは知ります。聖書の神様は、父なる神、子なる神、聖霊なる神が永遠において「神は愛です」と愛ゆえに一つなる交わりを持っておられるのです。これを「三位一体の神」と言います。神ご自身はその愛の交わりに満ちたりておられました。そしてこの神の愛の交わりに似せて人は造られたのです。それゆえ人間は愛し合う神のかたちに似せて誰かを愛して生きるように造られているのです。愛し合ってる神様が私たちの愛し合う根拠なのです。神様が愛し合っておられるように愛し合う。これが誰かと生きるスタート地点になるのです。

   ( PBA制作「世の光」2018.2.8放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■神との平和を持っています / 福井 誠

2018年03月14日 | Weblog
2018/2/7放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「神との平和を持っています」です。ローマ人への手紙5章1節を読んでみましょう。

 「私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 ローマ人への手紙に入りましたねえ。ローマ人は難しいと言われますが、実は言っていることは単純ですね。大筋をとらえるように理解していくことが大切かなあと私は思っています。

 パウロはローマ人への手紙の1章で、ユダヤ人ではない外国人の罪について語っています。あからさまで分りやすい罪人の姿が描かれていますね。中傷、あなどり、高ぶり、悪事、無慈悲、とどれも心当たりのある耳痛いことばです。

 2章では一見、罪人とは分りにくい人の罪の問題が語られています。立派そうに見える人であっても決して心の中までは立派とは限りません。建前と本音というものがあるものです。当時のユダヤ人は厳格に律法を守り、自分たちは罪人ではないと誇っていましたが、パウロはその心の欺瞞を指摘しているのです。

 そこで3章では、ユダヤ人もユダヤ人でない人もすべての人は神の目からすれば罪人である。神の栄誉を受けることのできる人は一人もいない、と断言するのですね。

 それで4章では、罪人が罪を解決する方法について、人間的な努力ではなく神の恵みによる方法に注目させています。つまり人間はどんなに頑張っても、立派な人間である振りはできても、心の底からきよい生き方をすることなどできないのであって、私たちが心底変えれるためには神の憐れみ・恵みが必要なのです。具体的に神様は私たちの罪が赦されるためにご自分の独り子であるイエスも犠牲にしてくださいました。また私たちの新しい人生の雛型としてイエス様を復活させてくださいました。そして神様は私たちを罪人からご自分の愛する神の子としてくださり、私たちと平和を持ってくださっているのです。

 そのように聖書が語っていることを素直に受け入れて信じていくことが信仰を持つということなのですね。

 2000年前に神が私たちにしてくださったことがあります。ぜひ聖書を開いて読んで、神様にある祝福と希望があることを知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2018.2.7放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■クレネ人シモン / 板倉邦雄

2018年03月13日 | Weblog
2018/2/6放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「クレネ人シモン」という題でお話ししましょう。では初めにルカの福音書の23章26節を読みます。
 「彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。」(新改訳2017)

 さて、十字架刑にかかる人は自分がかかる十字架の木材を自分で背負って刑場まで運ばなくてはなりませんでした。イエス様も十字架の丸太を肩に担いで石畳を引きずりながら歩きました。イエス様は一睡もしていません。大祭司の家から早朝の最高議会での裁判、ピラトの前での裁判、途中、へロデ王への官邸、とたらい回しになってしまいました。体も心も疲れ果てたことでしょう。そして処刑前には鞭打ちの刑罰を受けました。鞭打ちの肩と背中に丸太が食い込んできたのではないでしょうか。そのためイエス様は刑場へ行く途中、ばったりと倒れ込んでしまったのです。その時、沿道に屈強な男子がいるのが兵士の目にとまったのです。「おい、この囚人の十字架を背負え。そして刑場まで運ぶんだ。」
 男は仕方なくイエス様の十字架の丸太を担いで刑場まで行ったのです。

 さて、この男性の名はシモンと言いました。そして出身はクレネと聖書は書き残しています。彼シモンは年に一度の過ぎ越しの祭りのために巡礼者としてエルサレムの都に来ていました。ここに出身地の名前が記されているということはどういうことでしょうか。実はこのクレネ人シモンはあとでキリスト信者の一人になったということですねえ。何でこんな目に遭うんだ?と思っていたかもしれません。しかし、イエス様の後ろ姿と十字架刑を見ながら、シモンの心は変化していたのではないでしょうか。そしてキリストの弟子になったのです。イエス様の十字架の丸太を運ぶ事が自分の十字架と受け止めることができたからです。

 イエス様のことばです。
 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(新改訳2017)
  マタイの福音書16章24節

   (PBA制作「世の光」2018.2.6放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■恵みの契約に生かされる / 岩井基雄

2018年03月12日 | Weblog
2018/2/5放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 
第一週の月曜日は、詩篇から学んでいますが、今日は詩篇106篇の最後の箇所から「恵みの契約に生かされる」と題してご一緒に考えてみましょう。さっそく詩篇をお読みします。
 「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが彼らは相謀って逆らい自分たちの不義の中におぼれた。それでも彼らの叫びを聞いたとき主は彼らの苦しみに目を留められた。主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし豊かな恵みにしたがって彼らをあわれまれた。
  旧約聖書 詩篇106篇43節から45節 (新改訳2017)

 この詩篇106篇の前半にはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から指導者モーセに率いられて解放された恵みの歩みが語られています。しかし神の民イスラエルは、約束の地へと向かう中にあっても神の豊かな恵みとあわれみを忘れてしまい、なお食べ物や水のことで不平や不満を募らせ、偶像礼拝の罪を繰り返し、不義に溺れたことが語られています。

 そのような民は見捨てられて当たり前でしょう。しかし先ほどの詩篇の中には、愛が完全に踏みにじられるようなそのような状態の中にあっても、真実な愛のお方である神ご自身が神の民との契約を思い起こし、その豊かな愛と恵みのゆえに、なお彼らをあわれみ、恵みを与えられたことが語られているのです。見捨てられて裁かれて当たり前の状況の中で、神はご自分の民を愛され、恵みと祝福を与えてくださるのです。

 愛には三種類あると言われます。何々だから、という条件つきの愛。優しいから、思いやり深いから愛する、というような。二つ目に、もし何々なら、という変化や将来に条件をつける愛。もし変わってくれるなら。そして最後は、何々にもかかわらず、という無条件の愛です。私たちの罪深さや愚かさや裏切りなどの反逆にもかかわらずに、真実な神様は私たちに永遠の豊かな愛を注いでくださるのです。あなたは永遠の愛で愛されているのです。

 聖書のことば
 「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。
  (エレミヤ書31章3節 新改訳2017)

        PBA制作「世の光」2018.2.5放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■礼拝をささげるために / 羽鳥頼和

2018年03月10日 | Weblog
2018/2/3放送

世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は旧約聖書詩篇5篇から、人がどのように生きたら良いのか教えられたいと思います。

 詩篇の5篇は朝の祈りです。「主よ 朝明けに 私の声を聞いてください。朝明けに 私はあなたの御前に備えをし 仰ぎ望みます。」と祈っています。神の前に何を備えているのでしょうか。

 「仰ぎ見ます」とは見張りをしますという意味でもあります。つまり詩篇の作者は朝一番に神への準備をし、自分自身を点検しているのです。なぜでしょうか。それは神が悪を喜ばない方だからです。神は、不法を行う者、偽りを言う者そして血を流す者を憎まれる、と作者は語っています。神は悪を喜ばないお方ですから神に愛されている自分は正しい者であろうとします。そこで神のために一日の始めに自分自身を点検するのです。自分自身を吟味して作者は神に言います。「私は・・・あなたの家に行き あなたを恐れつつ あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。」 朝の祈りは神を礼拝するための備えだったのです。作者は神への礼拝を最も大切なことと考えています。

 そして作者は礼拝のために二つのことを願っています。それはまず、「神の義によって私を導いてください。私の前に あなたの道をまっすぐにしてください。」 つまり私を正しいものとしてください。そして正しい生き方をさせてください、という願いです。

 そしてもう一つの願いは、礼拝の邪魔をするもの妨げとなるものを取り除いてください。そして礼拝をささげる者が心から喜び神を礼拝することができるようにと願っています。

 こうして作者は最後に神への絶大なる信頼を告白します。「神よ まことにあなたは 正しい者を祝福し 大盾のように いつくしみでおおってくださいます。」

 大盾とは体全体を覆ってあらゆる攻撃から守ってくれるものです。神はそのように神を礼拝する者を神の愛で守ってくださるのです。

(PBA制作「世の光」 2018.2.3放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする