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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■竪琴のようにわななく / 福井 誠

2017年02月16日 | Weblog
2017/2/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「竪琴のようにわななく」です。それではイザヤ書の16章11節から読んでみましょう。

それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。

イザヤの預言を続けて読んでいますが、今日は16章です。ぜひ毎日聖書を開いて読み通していただきたいと思います。

 さて今日の箇所は、イスラエルの隣の国モアブという国に対するさばきの宣告ですね。しかし聖書を読んで思うことは、神様は敵対的に人を罰するようなお方ではない、ということですねえ。いつでも身内として親のような心を持って罪人に向かっていますねえ。モアブの罪は彼らの高慢さと邪悪さにある、とイザヤは言います。高ぶり・高慢と訳されたことばは、自分自身を過大評価することを意味します。また、おごりはあらゆる面で自分を誇ろうとするあつかましい態度を意味しています。人間は本当に不自由なもので、なかなか自分の弱さや心の貧しさを認めることができないものです。自分が弱いと分かっていても、そうは見せない強情さがあるものですね。しかしそのような高ぶりにあっては決して神様を認めることはできませんし、社会の人間関係の中でも物事をうまく進めることができないものです。そしてある日突然、梯子を外された者のように高慢ちきな心を砕かれてしまうことが社会の中で起こったりするものですねえ。

 ただ神はそんな私たちの愚かさを冷ややかに見ている方ではありません。痛みつつ見守ってくださっている方だというのが実に感動的ですね。
 「わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。

 はらわたも内臓も感情の座です。神は言い尽くせぬ突きあげるよな悲しみを味わいながら、人が素直になること、神の前にへりくだることを期待しておられます。人間が神に造られた者、神あっての存在であることを認めるときに、人は本当の自由を感じることができます。また神を味方にした人生を歩むこともできます。あなたを深く愛する神の祝福を信じて歩みたいものですね。

(PBA制作「世の光」2017.2.16放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

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■十分の一は相続 / 板倉邦雄

2017年02月15日 | Weblog
2017/2/15放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「十分の一は相続」という題でお話ししましょう。

  遺産相続は時々、家族の間を分裂させる争いへと発展させてゆきます。しかし初めから十分の一は相続できると約束されていたら、どんなに安心でしょうか。

 さて、レビ族の子孫には主なる神様から十分の一の相続が約束されていました。レビ族の仕事は、神の幕屋で神様と人々のために働く事です。神様と人々との間に立って人々の罪を背負って神様に執成しの祈りをしました。人々が供え物として主なる神様に捧げる十分の一は神様と人々のために働くレビ人の相続となったのです。すなわち生活費や活動費として与えられました。レビ人にとって主なる神様が相続財産だったのですねえ。ですからレビ人はイスラエルの人々の内で相続地を持ってはならなかったのです。

 さて主なる神様はレビ人の祭司アロンに言われました。「あなたはイスラエルの人々の地の内に相続地を持ってはならない。また彼らの内に何の分、相続財産をも持ってはならない。彼らの内にあって、わたしがあなたの分、相続財産であり、あなたの相続地である。」

 ですから主なる神様は、レビの子孫にはイスラエルにおいてすべての十分の一を相続として与え、その働きすなわち神の幕屋の働きに報いる、と約束されたのです。人びとが捧げる十分の一の備え物、穀物や果物の残りはレビ人の働きの報酬となりました。

 さてこの原則は今日まで続いて参りました。神の教会で働く働き人が信徒たちの捧げる十分の一献金あるいは献品によって生活を支えられているという原則です。
 イエス様もこう言いました。
 「働き人がその(神の国の働きによって)食物を得るのは当然である。」 マタイの福音書10章10節

 そして伝道者パウロも、「主なる神は、神の国の福音を宣べ伝えている者たちがその働きによって生活すべきことを定められたのである。」 第一コリント人への手紙の9章の14節(参照) と言っています。

 私がキリスト教の伝道者になると父親に言った時、「誰が食わせてくれるんだ。」と父親が私に言いました。私は「神様です。」と答えましたが、それは本当でした。

  (PBA制作「世の光」2017.2.15放送でのお話より )

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が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■十戒 -自由への励まし- 2 / 大嶋重徳

2017年02月14日 | Weblog
2017/2/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
聖書には十戒と呼ばれる、神様と人との間に結ばれた約束があります。十戒が聖書に登場するのは聖書の出エジプト記という箇所です。

 出エジプト記とはエジプトで奴隷として扱われていたイスラエル民族をモーセというリーダーが連れ出して自分たちの故郷に戻ろうとする旅が描かれています。その旅の途中、十戒は神様からイスラエルに与えられたのです。

 十戒の最初のことばはこうです。
  それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
  「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
・・・」(出エジプト記 20章2節、3節)

 十戒は「それから神は」と始まります。「それから」と言う限りはそれまで何か経緯があったはずです。実は十戒が与えられる前、神様とイスラエルの間には愛の告白がありました。そこでは、エジプトで奴隷として扱われていたイスラエルを神様が救い出し、「わたしはあなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れてきた。」(出エジプト記19章4節参照)と、神様がイスラエルに愛情豊かに語られます。そして、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、・・・わたしの宝となる。」(出エジプト記19章5節)と神様からの愛の告白があるのです。

 するとイスラエルの民はみなが口を揃えて、「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」(出エジプト記19章8節)と返事をするのです。まるで神様からのプロポーズを受け取り、愛の誓約をした結婚式のような瞬間です。

 この愛のやりとりがあった後に、「それから神は」と十戒を与えられたのです。十戒は神様が人間に一方的に押し付けたものではありません。愛とは約束を守ることで表わされるものです。愛しているけれども時間は守らない、約束をすっぽかす、というのは愛ではありません。神様が「あなたを宝の民とする、あなたを祝福する」という約束を結ばれました。私たちが神を愛し神に伝わる愛で生きようとするとき、神様は私たちを宝の民として、神様に届く愛の表し方を教えてくださったのです。十戒は縛りつけるものではなく、神様を愛する愛の表し方なのです。今日も聖書から教えられ、神様を愛する一日を生きていきたいと思います。 

  ( PBA制作「世の光」2017.2.14放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■天のお父様 / 関根弘興

2017年02月13日 | Weblog
2017/2/13放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
イエス様はご自分と共に生活していた弟子たちに、どのように祈ったらいいのかを教えられました。教会では主の祈りとして毎週、礼拝で祈られているものです。そこでイエス様はまず、「天にいます私たちの父よ」という呼びかけを教えられたんです。イエス様はまず最初に誰に向かって祈るのか、ということを教えられたんですねえ。私たちは天のお父さんに向かって祈るんです。つまり私たちは神様の子どもとして祈ることができるということなんですね。

 新約聖書のヨハネの福音書1章12(、13節)節にはこう書かれています。「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」 こう記されています。イエス・キリストを信じ受け入れることは、神の子どもとされるということなんですねえ。

 またパウロという人は、ローマ人への手紙8章の14節(、15節)に、
  神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

 「アバ」とはこれは「お父さん」という意味なんですねえ。私たちが主の祈りを祈る時、互いに神の子どもとされている、兄弟姉妹とされている、神の家族の一員であるということを味わうのです。

 ところで、「天にいます私たちの父よ」ということばを聞くと、「ああ、神様は天にいるのだから私たちのいる場所から遠く離れた高い所にいるのかなあ。・・・」 そんなイメージをもってしまうかもしれませんねえ。

 当時は、「天」は何層にもなっていると考えられていました。そしてもろもろの天のすべてを支配している神様が私たちの父なる神様だと聖書は教えています。つまり、「天におられる」というのは雲の上とか物理的に高い場所におられるということを指しているのではなく、「あらゆる場所を支配しておられる神様」っていうことなんです。そのお方を私たちは何と親しく、「天のお父さん」と呼びかけ祈ることができるんですね。天のお父様は私たちから遠い所におられるのではなく、私たちがどこにでも共にいてくださる恵みの神様なんです。

 (PBA制作「世の光」2017.2.13放送でのお話しより)

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■祭で大いに喜べ / 羽鳥頼和

2017年02月11日 | Weblog
2017/2/11放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日は建国記念の日です。元は「紀元節」と言って、初代天皇と言われる神武天皇の即位の日であり、日本の旧暦では年の始まり1月1日でした。神武天皇によって日本国が建国され、日本国の歴史が始まったということでしょう。

 さて今日はイスラエルの歴史の始まりを祈念するお祭りについて旧約聖書の申命記16章からお話しします。イスラエルの三大祭りと言われる「種を入れないパンの祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」について神がイスラエルに命じたことが記されています。これらの祭りはイスラエルの国の成り立ちを覚える大切な祭りでした。

 最初の二つの祭りは、イスラエルの暦でアビブの月に行われました。アビブの月は1年の始まりの月でした。これらの祭りは神が定めたものでした。神は、祭りの日程その内容をすべてを決めて、イスラエルの民にその通りに行うように命じました。更に、祭りを行う意義も神が定めて、イスラエルの民に告げられました。

 最初の祭りについて、「アビブの月に、あなたの神、主が、・・・、エジプトからあなたを連れ出されたからである。」(申命記 16章1節)と言われ、そのほかの祭りについても、「それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。」(申命記 16章3節)と言われています。これらの祭りはエジプトを脱出することができたことを覚えるためでした。

 その出エジプトの出来事とは、神がイスラエルを救われた歴史的な出来事です。この歴史的出来事は実際に起こったことであると共に、神がイスラエルの民を救った出来事でした。出エジプトの出来事は実際に起こった神の救いの御業です。その事を覚えるために神がこれらの祭りを定められたのです。そして祭りに参加する者も神が定めました。「家族と共に奴隷も、自分の土地をもっていないレビ人も、一緒にいる外国人、みなし児、やもめと共に神の前に出なさい。そしてそこで皆で大いに喜びなさい。」と神は言われました。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください

 (PBA制作「世の光」 2017.2.11放送でのお話より )
 
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■神からの挑戦 / 岩井基雄

2017年02月10日 | Weblog
2017/2/10放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 月の第二週の金曜日は旧約聖書に登場するヨセフの生涯について学んでいます。
 ヨセフの父ヤコブは、12人の息子たちの中、愛するラケルの子ヨセフを特に大切にしました。この父の偏愛は兄たちの妬みを生みます。更にヨセフは、兄も両親も自分にひれ伏すという夢を見、それを皆に告げましたから兄たちの怒りはなお大きくなり、ついに殺意にまで至ったのです。

 聖書はこう記しています。
 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。
   旧約聖書 創世記 37章18節から21節

 近づくヨセフを見た兄たちは策を巡らし、ヨセフを殺害しようと相談します。ヨセフの夢に神の御手を感じていた父ヤコブとは違い、兄たちは自分たちの手で弟ヨセフを殺し、あの夢の行く末を見ようとします。

 それは全主権を持つ神様に対する挑戦でした。兄たちは自分たちの心の闇に目を留めようともせず、ヨセフの存在もその夢も完全に否定しようとしたのです。長男ルベンの制止によってその策略はとどめられますが、四男ユダの提案により、ヨセフはイシュマエル人に奴隷として売られ、エジプトへと連れて行かれます。

 ヨセフは命拾いしますが、父の寵愛の象徴でもある袖付の長服は剥ぎ取られ、奴隷とされ、あの夢は完全についえたかのように思われたのです。

 自分たちの思いを遂げたように見える兄たちも、どん底に落とされたように見えるヨセフも、やがて神の御手の中にあって、自らの姿と向き合うことになるのです。

 人生の中に神様からの挑戦がそこにあったのです。どのような中でも、神様の主権と御手を認めるということは、私たちの人生に光を与えます。「下には永遠の腕がある」(申命記33章27節参照)と聖書にあるように、私たちの人生のすべての背後にある神様の愛と恵みの御手に目を留めていくとき、私たちの人生は変えられていくのです。
 
   (PBA制作「世の光」2017.2.10放送でのお話しより)

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■光が照った / 福井 誠

2017年02月09日 | Weblog
2017/2/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「光が照った」です。それではイザヤ書9章2節から読んでみましょう。
 「 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
  
人生には山あり谷あり、明るい時もあれば暗い時もあります。そしてしばしば谷が、暗い時が長く長く続くこともありますねえ。人がたどる闇は一瞬ではなく、それは何年も、いや何十年もこのまま人生が終わってしまうのではないか、と思うほどに長く深いことがあったりするものです。そういう中で人は、人生を諦めかけてしまったり、諦めてはいけないと自分に語りかけることにも疲れてしまったりすることがあるものですね。聖書はそんな私たちに、「 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。」と、イスラエルの歴史を想い起こさしてくれます。

 著者のイザヤは、当時の具体的な地名をあげていますねえ。ゼブルンの地とナフタリの地、これはイスラエルの北の地方をさしています。そこはかつてアッシリヤという強国によってまっ先に侵略された土地です。そしてアッシリヤに滅ぼされたイスラエルの人々は、その後何十年も闇の時を過ごしていくようになります。もはや自分たちの国が再興されることもありえない、と。しかしその闇の中を呼んでいた民が大きな光を見た。つまり希望を抱く出来事が起こったのだ、とイザヤは言うのです。アッシリヤという敵国に踏みにじられ、苦しめられ、もはや何の希望もないイスラエルの民に回復の希望が与えられた歴史があると言うのですねえ。

 聖書を読むということは、イスラエルの歴史に学んでいくことです。それはただ信じることを求めている訳ではありません。神様が人類の歴史にどのようなことをしてくださったのかを想い起こして、それを熟慮していくことです。イスラエルの歴史に預言通りに確かに光が照った、ということを想い起こすなら、そこには自然に神を信じたい思いも備えられていく事でしょうねえ。イザヤはただ単に当時の人々への慰めと励ましを語っている訳ではありません。それは現代の私たちにも通じる救いと解放を告げるものです。ぜひ神様を信頼して歩んでいきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2017.2.9放送でのお話より )

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■つぶやきをやめる / 板倉邦雄

2017年02月08日 | Weblog
207/2/8放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「つぶやきをやめる」という題でお話ししましょう。

  つぶやきが死に至ることを主なる神様は警告してきましたねえ。なぜなら、つぶやきは神の立てた権威者に対する反逆となり、ついには神様の反逆になるからです。民数記の17章です。
 
 そこで主なる神様はモーセに言いました。
 「イスラエルの人々に告げて、彼らの内から各々の父祖の家に従って、杖一本づつとって用意しなさい。すなわち12本用意して、それぞれの杖に自分の部族の名前を書きなさい。レビの杖には父祖の名前ではなくアロンの名を書き記しなさい。そしてこれら12人の杖を神の幕屋の中にある十戒の石板の入った神の箱の前に置きなさい。わたしが選んで立てた人の杖には芽が出るであろう。こうしてわたしはイスラエルの人々があなたとアロンに向かってつぶやくのをやめさせるであろう。」

 その翌日モーセが神の幕屋に入ってみると、何とレビ家のために出したアロンの杖から芽が出てつぼみが膨らみ、花が咲いているではありませんか。アメンドウの実を結んでいるのもありました。モーセは12人の杖をイスラエルのすべての人々の所に持ち出しました。12部族の人々は自分たちの名の書かれた杖を見て自分たちの杖を手にとりました。

 人々は口々に叫びました。
 「ああ、私たちは死んでしまう。破滅です。」

 主なる神様はモーセに語られました。
 「アロンの杖を神の箱に保存して、反逆する者たちのためにしるしとしなさい。そして彼らの私に対するつぶやきをやめさせ、彼らの死ぬのを免れさせなくてはならない。」

 主なる神様は今日でも、目に見えるしるしをもって私たちがつぶやきや疑いによって不満にかられて反逆者になって、死に至らないように、破滅の人生を歩まないように願っているのです。

 聖書のことばです。
 「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。
  したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。

                ローマ人への手紙13章1節から2節

  (PBA制作「世の光」2017.2.8放送でのお話より )

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■十戒 - 自由への励まし -1 / 大嶋重徳

2017年02月07日 | Weblog
2017/2/7放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には、十戒と呼ばれる神様と人との間に結ばれた約束があります。十戒は十の戒めと書きますから、そこからイメージするのは私たちを縛りつける厳しさなのかもしれません。しかし十戒が本来私たちに与えようとするものは私たちを縛りつけるものではなく、自由へと解き放つものなのです。そこでこれから十戒を順番に学びながら、十戒を代表する、何々してはならない、という律法と呼ばれる神の約束の持つ意味を一緒に考えていきたいと思います。

 皆さんは聖書とは、あれをしちゃいけない、これをしちゃいけない、とばかり書いてある面倒で不自由な生き方になるもの、と言う印象をお持ちではないでしょうか。しかし私たちが本当に自由に生きて行くために必要な事は、自由に生きるためにも指針がいるということです。なにをしても良いよと言われると、何をしたらいいのか分からずに私たちは戸惑います。

 ある実験で、子どもたちを囲いの中でこの中で自由に遊んでいいよと言うと、子どもたちはお母さんの手を離れて、囲いいっぱいまで走り廻り楽しそうに遊んだそうです。しかし何の囲いもないただっぴろい広場で自由に遊んでいいよと言われると、子どもたちは不安そうにお母さんのそばを離れず、そのそばでしか遊ぶことができなかったそうです。

 聖書は、人間が指針や約束を守って生きるように神様から造られている、と語ります。世界で最初に造られた人間と神様との間にも約束がありました。「この木から取って食べてはならない」という一つの約束でした。その約束のことばを生活の中心に置いて生きるとき、人間は神様が造られたこの広い世界の中で、のびやかに生きることができるのです。

 何が正しいか、どこまで正しいのかが分からないようになっているこの時代と世界の中で、聖書のことばは私たちを自由にのびやかに生きることのできる励ましを与えようとしているのです。それは決して私たちを縛りつけ窮屈な生き方をもたらそうとしているのではなく、自由に喜びをもって生きるためなのです。

 今朝も私たちはラジオから聖書のことばを聞いて、この約束のことばのもたらす自由への励ましを受け取って、のびやかに一日を生きていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2017.2.7放送でのお話しより )

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■祈りの姿勢 / 関根弘興

2017年02月06日 | Weblog
2017/2/6放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 あなたはお祈りをしたことがありますか? 時々、「お祈りですか? どうやってお祈りしたらいいか分りません、祈ったらいいか分からないんです。」という方もいらっしゃいます。イエス様と生活を共にしていた弟子たちも、どのように祈ったらいいのか分からなかったので、イエス様に教えていただいたんです。

 そこでイエス様は、まず祈るときの基本的な姿勢を教えられました。一つは、「祈る時には人に見られるためではなく、奥まった部屋に入って父なる神様に向かって祈りなさい。」 こうイエス様は言われたのです。

 当時のユダヤの人々にとって祈りというものは日常の出来事でした。その中でも律法の専門家やパリサイ派と呼ばれる人たちは会堂や通りの四つ角で熱心に祈ることが多かったのです。しかしそれは自分が人から立派だと思われたいために人に見せるために祈っているのだ、とイエス様は大変厳しく批判なさったんですね。

 そこでイエス様はマタイの福音書の6章6節で、「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」と弟子たちに言われました。これは人の見ている所では祈ってはいけないという意味ではありません。そうではなくて、祈りは人に見せるためのものではなく、神様と自分との差し向かいの語らいの場なのですよ、とそういうことを教えられたんです。
 そしてもう一つは、マタイの福音書6章7節に、「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。」 このようにイエス様は言われたんです。聖書が教える祈りは何か呪文のようなものを唱えることではありません。特別なことばをただ熱心に繰り返すことが祈りではないんですねえ。神様は御自身を聖書を通して私たちに示してくださり、私たちをご自分との信頼関係の中に招き入れてくださっています。神様は私たちを愛し、私たちの最善を願い、私たちの必要をよく御存知です。ですから私たちは同じことばを繰り返さなくても、呪文を唱える必要もありません。神様との信頼関係の中で、神様に自由に祈り、願い、感謝を捧げるのです。祈りは神様と自分との差し向かいの語らいの場です。あなたも今いるその場所で祈ってみませんか?

 (PBA制作「世の光」2017.2.6放送でのお話しより)

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