goo blog サービス終了のお知らせ 

 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■花婿キリストとともにある喜び マルコ⑭ / 岩井基雄

2016年11月18日 | Weblog
2016/11/18放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。先月はイエスが「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」と答えられたことから、キリストの愛は自分の弱さや穢れを認める人々にこそ豊かに注がれていくということを学びました。

 パリサイ人たちはイエスの弟子たちが断食をしないのを見て、キリストにこう言いました。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないですか?」 断食とは肉体的苦痛を通して神への熱心な祈りと悔い改めを表現するものです。パリサイ人には週2回の断食の習慣があり、バプテスマのヨハネの弟子たちもそれを行なっていました。しかしいつの間にかその習慣は形式的なものになり、神様への愛ではなく自分の義を表すために用いられていくようになっていたのです。

 それを御存知だったイエス・キリストは、彼らの偽善を指摘し、更に豊かな真理へと彼らを導かれ、こう語られました。
 「「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
     新約聖書 マルコの福音書2章19節、20節

 キリストはご自身を花婿に喩え、自分と共にいる弟子たちの喜びを花婿に付き添う友のそれに喩えたのです。救い主の到来は大いなる喜びを伴い、断食する気持ちになれないほどの感謝に満たされていくのです。イエス・キリストがこの地上から取りされ十字架へと向かうときにこそ、弟子たちは自分の罪を示され、その罪を悔い改め、神に近づくというのです。どんな状況の中にあっても私たちは共にいてくださる主イエス・キリストによって豊かな喜びに満たされます。さらにキリストの十字架は私たちの罪を示し、それを認める者をキリストの花嫁として大いなる祝福へと導いてくださるのです。あなたのためにもイエス・キリストはこの地上に来られました。あなたも自分の罪を心から認め、癒しと救いを与える救い主イエス・キリストを心に迎え、喜びと祝福に満ちる人生を歩み出しませんか? 神はあなたと共におられるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.11.18放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■あなたは正しい人だ / 福井 誠

2016年11月17日 | Weblog
2016/11/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あなたは正しい人だ」です。それでは第一サムエル記29章6節から読んでみましょう。
  そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。

 ダビデはここで窮地に立たされていますね。彼と彼の部下は戦争に駆り出されるのですが、戦う相手は同胞のイスラエルでした。敵国ペリシテ軍の一部隊として戦列に並ぶ羽目になってしまったのです。そして参集した将軍たちはダビデを見るやいなや、「こいつは『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と、かつて称えられた敵国の将ではないか。一緒に戦列に加えるべきではない。」と言い出しました。ペリシテの王アキシュはダビデを全く信頼していますが、そのアキシュに仕える将軍たちは全くダビデを信用していません。結局ダビデはその戦列から外されて窮地から救われることになるのです。

 しかしこのエピソードを読む時に、いろいろと複雑な問題を感じるのは私ばかりではないでしょう、ペリシテの王アキシュは言いました。「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。」と。しかし現実はそうではなかったですね。そして戦列から外された時に、ダビデはアキシュに自らの誠実を主張しています。明らかにアキシュを騙しているのに、嘘を言い、張ったりをかましたのです。倫理的な目でこのエピソードを読むなら、そこにはダビデのどす黒い心を思わざるを得ません。とうとうダビデもまた社会の不条理の中で毒されてしまった、汚れてしまった、と思わざるを得ませんね。

 けれども更に重要なのは、そんなダビデを神は見捨てなかったことです。神はここでダビデを窮地から救っていますし、この後もダビデに約束した通りダビデをイスラエルの王として回復させられるのです。正しい人間ではなく罪深い人間に寄り添いながら人生を導き正してくださる主がおられることを、ぜひ知っていただきたいと思います

(PBA制作「世の光」2016.11.17放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■向きを変えて / 板倉邦雄

2016年11月16日 | Weblog
2016/11/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「向きを変えて」という題でお話ししましょう。

「人生は繰り返すことはできない。しかしやり直すことはできる。」ということばがありますねえ。神の人モーセの執成し・仲介によりましてイスラエルの人々は神の赦しを得て、向きを変えて再出発を許されてたのです。ま、それにしても主なる神様のイスラエルの人々に対する慈しみ深さ、慈悲を感じるのは私だけでしょうか。

 それは神の人モーセのことばの中に見ることができるからです。
 「わたし(※神)は生きている。わたしの栄光は全世界に満ちている。わたしの栄光をイスラエルの人々は見た。わたしがエジプトの地と荒野で行なった数々のしるし・奇跡を見ながらわたしを十度も試みて、わたしの声に聞き従わなかった。彼らはわたしが先祖に約束した地を見ることはないだろう。また、わたしをあなどった人々も約束の地を見ないであろう。但し、わたしのしもカレブは違った心を持っていてわたしに完全に従ったので、わたしは彼が探索に言ってきた地に彼を導き入れるであろう。カレブの子孫はその地を所有するに至るであろう。」(民数記 14章21節~24節参照)

 そういえば探索隊の殆どの人々がモーセに悪い報告をして人々の心をくじいてしまい、落胆させてしまいました。しかしカレブだけはモーセの前で、「私たちはすぐに上って攻め取りましょう。私たちは必ず勝つことができます。」(民数記 13章30節参照)と進言しましたねえ。

 そして主なる神様は指導者モーセにこう言われました。
 「谷には巨人や先住民たちが城壁の町に住んでいるから、あなたがたは明日、向きを変えて紅海の道を荒野に進みなさい。」(民数記 14章25節参照)

 本来ならばエジプト脱出に際し、数々の主なる神様の救出と恵みを味わいながら十度も神様に挑戦し、あなどった人々は即座にこの場で打ち滅ぼされても文句は言えなかったのです。しかし神の人モーセの執成しによりまして罪を赦され、荒野の40年の旅路を許していただきました。私たちの荒野の人生も同じです。私たちと共にいて執成しの祈りをしてくださる人、何よりも主なる神様と共に向きを変えて再出発いたしましょう
 
  (PBA制作「世の光」2016.11.16放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■起きて、床を取り上げて歩け -7 / 大嶋重徳

2016年11月15日 | Weblog
2016/11/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。


 聖書には38年間ベテスダの池で寝たきりの人が癒された出来事が記されています。イエス・キリストは彼に、38年間寝たきりであった彼の布団を畳むように語られ、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ 5章8節)と言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われた「起きて」というギリシャ語は、他の聖書では「復活する」という意味で用いられる重要なことばです。イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われた時の「建て直す」ということばが「起きて」ということばと同じです。つまり「起きよ」と言われた時、「復活せよ」という意味が含まれていました。イエス様は38年間寝たきりの彼に向かって「起きなさい」と言われた時、ご自分の十字架と復活を指し示しながら、「死んだままでいてはいけない。起きなさい。」と言われたのです。

 十字架とはすべて人間の罪をイエス・キリストが背負われ、その罪の報いとしての裁きの死をイエス・キリストが身代わりに背負われたことです。そして死んだだけでは終わらずに、イエス様は復活をされました。復活とは私たちにとって意味することは、イエス・キリストを救い主として受け入れる者にとって、共によみがえられたキリストは永遠にいてくださるということです。(参照 ローマ 4章25節、ローマ 8章3-4節、1コリント 15章3-5節、1ペテロ 3章18節 、1ヨハネ 4章10節)

 イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪のために死んでくださいました。それは、あなたがそのまま罪に死んでしまってはいけない、というためにです。

 イエス様は墓の中から復活をされました。それは、「あなたはその罪の布団を畳みなさい。いつまでもそこにてはいけない。立ち上がって歩き出しなさい。」と言うためでした。

 そしてイエス様は十字架と復活を指さしながら、今朝私たちにも言われます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。 弱さのまま開き直ったり、罪のまま開き直ったりするのではなく、その罪から起き上がりなさい。」 

 イエス様は十字架で死んだままではありません。墓の中から起き上がる方なのです。そして私たちをもまた死んだままには終わらせない。よみがえらせ新しく生きていくことのできる人生を与えてくださるのです。そして私たちに語りかけられるのです。「私と共に新しく歩き始めようではないか。復活の新しいいのちに生きよう。」と。このイエス様の招きに従って、あなたの身体を起こし、神と共に新しく生きていく人生へと踏み出していただきたいと思います

  ( PBA制作「世の光」2016.12.6放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■聖霊に満たされなさい / 関根弘興

2016年11月14日 | Weblog
2016/11/14放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今日も聖書のことばを最初に紹介しましょう。新約聖書エペソ人への手紙5章18節
  「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 クリスチャンになったらお酒が飲めなくなると誤解している人が時々いますが、聖書は「酒を飲むな」とは言っていません。イエス・キリストは水をぶどう酒に変えたくらいですからねえ。またパウロは「少量のぶどう酒は健康のために良い」とも書いています。しかし箴言の31章という所には、「酒を飲むことは王のすることではない。酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者の裁きを曲げるといけないから。」 このように書かれています。つまり酒を飲むと冷静で適切な判断力を失うから指導者は酒を飲んで酔っぱらってはいけない、という訳ですね。

 また今日の箇所ではパウロは「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と言っています。「放蕩」ということばはギリシャ語ではアソーティアということばが使われています。これは「救う」とか「生かす」という意味のことばに打ち消しの「ア」が付いたことばで、「救われない」とか「生かされない」という意味なんですね。つまり、あなたが幾ら酒で憂さを晴らそうとしても所詮アソーティア、つまり、救われませんよ、ということなんです。

 パウロが活躍した時代も今の時代も同じようにいろんな困難や苦しみが人生には襲ってきます。しかしだからといって何か問題や苦難がある時に、酒に酔って憂さ晴らしをするような一時しのぎの生き方は賢い生き方ではない、必要なのは御霊に満たされることだ、とパウロは教えたんです。御霊とは聖霊のことです。

 では聖霊に満たされるとはどういうことでしょう。聖書にはイエス・キリストを救い主として信じるとき、一人ひとりの内に聖霊なる神様が住んでくださるのだ、と約束しています。聖霊は父なる神、子なるイエス・キリストと同じ本質をもった方です。ですから聖霊に満たされるとは、神様の愛とイエス・キリストの恵みを深く味わう生涯とされていくということなんですね。神様がどんな時にも共にてくださることを知る生涯となっていくのです。私たちの人生には自分ではどうすることもできない悲しみや苦しみを経験します。だからこそ聖霊の助けと慰めを得ながら歩んで行く者となっていきましょう

(PBA制作「世の光」2016.11.14放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■身の潔白を主張するヨブ / 羽鳥頼和

2016年11月12日 | Weblog
2016/11/12放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は旧約聖書のヨブ記31章からお話しします。

 ヨブ記の主人公であるヨブは大きな苦難に遭いました。そんなヨブの所に3人の友人がやってきました。友人たちはヨブを慰め励ますためにやってきました。ところが友人たちとの語らいは議論になってしまいました。友人たちはヨブに、自分の罪を認めろ、と強く言いました。しかしヨブは最後まで、自分は潔白だ、と主張します。「私は情欲を持って女性を見たことはない。嘘をついたことがない。浮気も不倫もしていない。人への偏見、差別をしなかった。貧しい人、困っている人たちを見捨てたりしたことはなかった。お金をあてにしたり偶像に頼るようなことはしたことはない。人を憎んで呪ったり嫌いな人の不幸を喜んだりすることもしなかった。」 ヨブはこのように言いました。本当にそうだったのでしょうか。

 ヨブ記の初めで神はヨブのことを「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」(ヨブ記 1章8節)と言っています。本当にヨブは正しい人、立派な良い人だったのです。

 さて、ヨブのような正しい人にパウロという人がいます。パウロは聖書をよく読み、そこに書かれている神の教えを忠実に守っていた人でした。パウロは行いにおいては非の打ちどころのない完璧な人でした。ヨブと同じです。

 しかしそんなパウロが自分のことをこのように言っています。
 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ 7章24節)

 パウロは聖書を読めば読むほど、自分が罪人であることを認めざるを得ませんでした。そのパウロが「すべての人は生まれながらにして神の裁きを受けなければならない存在だ」(参照 ローマ 3章23節、エペソ 2章3節)と言っています。人は生まれながらにして罪人です。ですからヨブもパウロも罪人です。そんなパウロはイエス・キリストを信じることによって罪を赦されて救われました。ヨブも神に救いを求めました。どんなに立派な人も生まれながらに罪人です。そしてそんな罪人を救うことができるのはイエス・キリストただお一人です。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください

 (PBA制作「世の光」 2016.11.12放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ヤコブへの神の祝福 / 岩井基雄

2016年11月11日 | Weblog
2016/11/11放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 月の第二週の金曜日に学んできたヤコブの人生もいよいよ最後になりました。
 今日はヤコブの人生の最後の、神からの祝福の場面です。

 「ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。」(創世記 35章9節)と聖書にあります。パダン・アラムとは母リベカの故郷であり、おじラバンが住んでいた場所です。故郷を離れたヤコブはその地で取り扱われましたが、神様は約束の地カナンに戻ってきたヤコブを改めて祝福するのです。それはヤコブだけではなく神の民イスラエル全体の祝福という意味をも持っていました。
 聖書はこう語っています。
 「神は彼に仰せられた。
  『あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。』
  それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。
  神はまた彼に仰せられた。
  『わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。』

    旧約聖書 創世記35章9節から11節

 双子の兄エサウをも父イサクをも押しのけて自分だけの祝福を奪ってきたヤコブでした。「押しのける」という意味を持つヤコブは御使いと戦う中で砕かれ、「神の勝利」という意味を持つ「イスラエル」という新しい名前を与えられました。そしてその名前は神様の民にも与えられ、神の祝福を受け取っていきます。その名の通り、神様ご自身が民のために戦い、勝利を取ってくださるからです。またこの神様の祝福のメッセージは王の誕生をも預言します。「一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。」 問題を抱えていたヤコブは神様の恵みによって取り扱われ続け、彼を通して王の誕生が預言されます。それはダビデ王を指し示し、ダビデの子孫、真の王である救い主イエス・キリスト誕生の預言でもありました。欠けの多い愚かな者にも神様は恵みと祝福を豊かに与えてくださいます。神様の恵みとあわれみと真実と祝福はあなたにも注がれています。あなたも神様の祝福を心から受け取って、力強く人生の歩みを進めていきませんか? 神様はあなたを祝福するだけでなく、あなたを通して周りの方々に豊かな祝福を注いてくださるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.11.11放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ひどくわなないた / 福井 誠

2016年11月10日 | Weblog
2016/11/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「ひどくわなないた」です。それでは第一サムエル記28章5節から読んでみましょう。
 「 サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた。

 ダビデが自分の先行きを悲観して、もはや諦めを持って敵の陣地に逃れていった頃、その一方で、ダビデを追跡していたサウルもまた行き詰まりを経験していました。不思議なものですね。ダビデもサウルもお互いに追い詰められているのです。

 サウルはペリシテ人に囲まれ、この戦いに勝利できるかどうかあやしいきわめて危機的な状況に立たされています。ダビデを追うどころではない。ダビデは、神のどんでん返しなどもう無理だ、主よいつまでですか、と人生諦めの境地にいたというのに、サウルに神の手が下るのは目と鼻の先の出来事であったのですね。人間は本当に先を見通せないからこそ判断を誤り、道を迷ってしまうことがよく理解されます。

 ともあれ、追い詰められたサウルにも、もはや助言や励ましを与える者はいませんでした。そこでサウルは自分が忌み嫌い追放していた霊媒や口寄せに頼ることを考えつくのです。そしてサウルは霊媒の力を借りて死の世界からかつてのイスラエルの指導者サムエルを呼び出し、その危機にあって導きを得ようとしました。

 しかし実の所サウルは答えを知らなかった訳ではないのでしょう。すでにすべきことが分かっていたはずなのですが、それが自分の思う通りのことではなかったので他の答えを探し続けていたのですね。実にリアルに人間の性(さが)が描かれていますね。ですから霊媒に頼って期待通りの答えを得られなかったサウルは絶望の中に落とされていきます。霊媒に呼び出されたサムエルが語ったことばはサウルを驚愕させるものでした。サウルはペリシテへの敗北のみならず死をも宣告されたのです。サウルに神の答えがなかったのは、もはや神が十分語っており、これ以上語るべきことはなかったということでした。

 今日、神は聖書を通して十分にご自身の御心を語っておられます。神を探し求めるのではなくて聖書に神の御心を聞くことが求られているのです。

(PBA制作「世の光」2016.11.10放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■破れ口に立って / 板倉邦雄

2016年11月09日 | Weblog
2016/11/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「破れ口に立って」という題でお話ししましょう。

人々の破れ口に立って神様に執成しの祈りをした人物は神の人モーセでした。

 さて主なる神様は、落胆の沼に落ちてエジプトに帰ろうと言い出したイスラエルの人々に対し、とうとう堪忍袋の尾が切れてしまいました。主なる神様はモーセに言いました。
 「この民衆はいつまでわたしをあなどるのか。わたしが様々なしるしを彼らに行なったではないか。紅海の海を渡らせたではないか。飲めない水を飲める水にしてあげた。天からいのちの水を毎日与えた。十のことばをシナイ山で与えたではないか。わたしの力と恵みを目撃したのに彼らはいつまでわたしを信じないのか。わたしは恐ろしい伝染病をもって彼らを打ち滅ぼそう。」(民数記14章11節、12節参照)

 その時モーセは彼らの破れ口に立って主なる神様に申し上げたのです。
 「今もしあなたがこの民衆を一人残らず殺されるならば、そんなあなたのことを聞いた他国民たちは語って言うでしょう。『主という名の神はご自分が与えると誓った地にこの民衆を導き入れることができなかったため彼らを荒野で殺してしまったのだ。』 どうかそんなことを言わせないでください。どうぞあなたが約束されたように、いま主よ、大いなる力を現してください。あなたがかつて私に言われました。『主であるわたしは怒ることが遅く、慈しみに富み、罪咎を赦す者。しかし罰すべき者は決してゆるさず、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼす者である。』 どうぞあなたの大いなる慈しみによって、エジプトからこのかた今に至るまでこの民衆を赦されたように、この民衆の罪を赦してください。」(民数記14章13節~19節参照)

 主なる神様はモーセに答えられました。
 「わたしはあなたのことばの通り、彼らを赦そう。」(民数記14章20節参照)
 
 神の人モーセの必死の執成しの祈りによって人々は赦していただきました。人々の破れ口に立って神様の前で執成しの祈りを捧げたからです。

 モーセから1400年後、神の独り子イエス・キリストは私たちの破れ口に立って十字架の上で私たちのために祈ってくださいました。
 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」           ルカの福音書23章34節 (口語訳聖書)

  (PBA制作「世の光」2016.11.9放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■起きて、床を取り上げて歩け -6 / 大嶋重徳

2016年11月08日 | Weblog
2016/11/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書には38年間、ベテスダの池で寝たきりの人が癒された出来事が記されています。イエス・キリストは彼に、38年間寝たきりの布団をたたむように語られ、「もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ福音書 5章14節参照)と言われました。
 

 蛙を40度ぐらいに温めたお湯にポチャンと入れると、蛙は、熱っ熱っ!というような慌てたリアクションで飛び跳ねて出て来るそうです。しかし冷たい水の中で蛙を入れて、それから少しずつ温めていくと、別に何の問題もなく気持ち良さそうにスィーッと泳ぎながら、ある温度を過ぎるとプカッとお腹を見せて浮き始め、そしてそのまま死ぬと言います。罪とはこういうものなのだと思います。罪とは決して居心地が悪いわけではありません。罪を犯すとは虚しいことですと言われることがありますが、罪を犯している最中はドキドキして面白いのです。むしろ孤独な心に優しくて甘い。しかし確実に私たちを滅ぼしていくのです。良くなりたいと思わせず、変わりたいと思わせない。生きていながら生きている意味を見失わせ、いつの間にか死に向かっていくような人生にしてしまうのです。

 聖書は罪をこう記します。
 「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ 7章19節、20節)

 変わりたいと願ってもできない。かえってしたくない悪を行なってしまう。自分自身の深い所の根っこの所の、自分ではどうにもならない思い。自分が自分でコントロールできない。本来こうありたいと願うところから外れてしまっている行為の数々。

 38年間、寝たきりの彼にイエス様は、「起きて布団を取り上げて歩きなさい」と言われたように、今日もあなたに語られます。「あなたがずっと入り込んでいたあの罪の布団から起きてきなさい。その布団を畳みなさい。」と。「やめようと思ってもやめられない誘惑から出てきなさい。溜まってくるストレスを吐き出す手段として孤独を感じると潜り込んでしまうあなたのその罪の布団から体を起こしなさい。そして私と共に歩いていく人生へと踏み出そうではないか。」 

 私たちは朝ごとに、この主からのことばを聞きながら、新しくされた人生を歩き出したいと思います

  ( PBA制作「世の光」2016.11.1放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする