♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して66年の
「世の光」を文字で 

■ちょっと分かりにくい用語(41) なだめの供え物/岩井基雄

2015年04月17日 | Weblog
2015/4/17放送
 
 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。先月は「贖い」につい学びましたが、今日ももそれと関わりの深い「なだめの供え物」ということについて学んでみましょう。

 「なだめる」という表現は、「機嫌をとる、怒りを静める」という意味を持っていますね。「神をなだめる」という表現は腑に落ちないという方がいらっしゃいます。愛である神様がなぜ怒るのでしょうか。神様の機嫌をとる必要などあるのでしょうか。確かに聖書には神の怒りが表わされていますが、それは人の罪に対する聖なる怒りです。人を深く愛する神ゆえの悲しみとも言える怒りです。私たちでさえ悪への怒りを持ちますよね。

 聖書にはこう記されています。
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 新約聖書 ヨハネ第一の手紙4章10節

 人が犯した罪と過ちに対して聖なる怒りと悲しみを現された神に対し、イエス・キリストがご自分をなだめとして差し出されたというのです。しかしその背後にあるのは神ご自身の愛でした。それは神の怒りに対して、神がそして神の御子がなだめとなられるという愛だったのです。神様の愛はご自身の怒りよりも大きく、私たちに救いの道を開かれたのです。

 実はこの「なだめの供え物」ということばはギリシャ語ではヒラステーリオンということばで、本来は「贖いの蓋」を意味しています。この贖いの蓋は旧約聖書に記されている神の臨在を表す契約の箱の上に置かれた純金で出来た蓋でした。民の罪を赦すためにこの贖いの蓋の上と前にいけにえの動物の血が幾度も注がれたのです。しかし神の御子であるイエス・キリストの贖いはただ一度だけで十分でした。キリストがただ一度なだめの供え物となってくださり、あなたのすべての罪が赦され、いのちと救いを受ける道が開かれたのです。

 聖書のことば

 「この方こそ、私たちの罪のための ― ― 私 たちの罪だけでなく、世全体のための―― な だめの供え物です。」 新約聖書 ヨハネ第一の手紙2章2節

 あなたの罪の赦しのためのキリストの愛をあなたも受け取り、いのち溢れる歩みへと進み出しませんか? 

(PBA制作「世の光」2015.4.17放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******