2012/10/15放送
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。新約聖書ヨハネ福音書の冒頭のことばを何回かに分けてお話しています。このように記されています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1章1節)
そして4節には「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1章4節、5節)
ヨハネはイエス・キリストこそ神のことばであり、この方によって世界は造られたのだ(ヨハネ1章3節参照)と記したんですね。と言うことはイエス・キリストの内には知恵と知識との宝がすべて隠されていると言うことでもある訳です(コロサイ2章3節参照)。ですからこの方を信頼して生きることは最も安心な歩みなんだということを前回お話ししました。そして今日はイエス・キリストこそいのちそのものであって人の光となってくださるお方だというお話をしたいと思うんです。
さて命とは一体何でしょう。命とはこの心臓の鼓動がある間の肉体のいのち、息が続くまでの状態を普通は考えますね。でも「イエス・キリストにいのちがあった」と言うとき、イエス・キリストは創造の初めからおられる方なんですから、そのいのちは決して絶える事のないいのちであるはずです。そしてヨハネはこのいのちのことを「人の光となるものだ」と言い換えています。つまりこのいのち、これは私たちの人生に欠くことのできない光となるのだと言うわけですね。
少し考えてみてください。光は一体何をもたらすでしょう。もちろん暗闇を消し去って行きます。同じようにイエス・キリストは私たちの暗闇を消し去るお方だという訳ですね。そして光は隠れたものを明らかにして行きます。汚い部屋も照明をつけなければ分りません。しかし照明をつけるとその屋の姿が現されてきます。ですからイエス・キリストを信じ生きるとき、自らの心が照らされることになるわけです。それは時には自分の醜さというものを知ることになるかもしれません。きたなさを思わされるかもしれませんね。でも照らされることは必ず救いに繋がっていくのです。そしてどんな暗闇の中にあっても光があれば行くべき道が分ります。光は私たちの道を照らす導きの光でもあるからです。
そしてヨハネははっきりとこう記しました。
「やみはこれに打ち勝たなかった。」と。これは勝利宣言です。どんな暗闇が襲ってもキリストの光を、いのちを消し去ることはできません。そして今この光は闇の中に輝いているのです。イエス・キリストのいのちは、光は、今も輝いています。そしてこのイエス・キリストを救い主として受け入れる一人ひとりの心にこの光は消えることがありません。光は闇の中に輝いているんです。
(PBA制作「世の光」2012.10.15放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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このサイトは URL名として
http://yonohikari.biblica.info が使えます。
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世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの東海地方での放送に協力してくださるキリスト教会・キリスト者の皆様の献金は、
郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会 まで
お問い合わせは、
電話 052-762-2196 (自由ケ丘キリスト教会内) 東海福音放送協力会 へ
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。新約聖書ヨハネ福音書の冒頭のことばを何回かに分けてお話しています。このように記されています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1章1節)
そして4節には「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1章4節、5節)
ヨハネはイエス・キリストこそ神のことばであり、この方によって世界は造られたのだ(ヨハネ1章3節参照)と記したんですね。と言うことはイエス・キリストの内には知恵と知識との宝がすべて隠されていると言うことでもある訳です(コロサイ2章3節参照)。ですからこの方を信頼して生きることは最も安心な歩みなんだということを前回お話ししました。そして今日はイエス・キリストこそいのちそのものであって人の光となってくださるお方だというお話をしたいと思うんです。
さて命とは一体何でしょう。命とはこの心臓の鼓動がある間の肉体のいのち、息が続くまでの状態を普通は考えますね。でも「イエス・キリストにいのちがあった」と言うとき、イエス・キリストは創造の初めからおられる方なんですから、そのいのちは決して絶える事のないいのちであるはずです。そしてヨハネはこのいのちのことを「人の光となるものだ」と言い換えています。つまりこのいのち、これは私たちの人生に欠くことのできない光となるのだと言うわけですね。
少し考えてみてください。光は一体何をもたらすでしょう。もちろん暗闇を消し去って行きます。同じようにイエス・キリストは私たちの暗闇を消し去るお方だという訳ですね。そして光は隠れたものを明らかにして行きます。汚い部屋も照明をつけなければ分りません。しかし照明をつけるとその屋の姿が現されてきます。ですからイエス・キリストを信じ生きるとき、自らの心が照らされることになるわけです。それは時には自分の醜さというものを知ることになるかもしれません。きたなさを思わされるかもしれませんね。でも照らされることは必ず救いに繋がっていくのです。そしてどんな暗闇の中にあっても光があれば行くべき道が分ります。光は私たちの道を照らす導きの光でもあるからです。
そしてヨハネははっきりとこう記しました。
「やみはこれに打ち勝たなかった。」と。これは勝利宣言です。どんな暗闇が襲ってもキリストの光を、いのちを消し去ることはできません。そして今この光は闇の中に輝いているのです。イエス・キリストのいのちは、光は、今も輝いています。そしてこのイエス・キリストを救い主として受け入れる一人ひとりの心にこの光は消えることがありません。光は闇の中に輝いているんです。
(PBA制作「世の光」2012.10.15放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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このサイトは URL名として
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お問い合わせは、
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