世の光の時間です。 お元気でしょうか? 村上宣道です。
昨日はイースターでしたねえ。 復活祭、どのように過ごされましたでしょうか。
えー、ある方はですねえ、「ま、クリスマスはいいんだけども復活祭というのはねえ・・・。 キリストの教えとか聖書の教えとかはいいんだけど、あの復活とかいうことさえ言わなきゃねえ。」というふうなことをおっしゃる方がない訳でもないんですねえ。
でも、もしもキリスト教から復活を除いてしまったならば、10の内の1が抜けてあとの9つが残るというようなものではなくって、この復活を除いたら何もかにもなくなってしまうと同じなんですね。
それは聖書に書いてある通りにキリストは死なれて、聖書に書いてある通りにキリストはよみがえられた。 それは私の罪のために、ということですけれども、もしもキリストの復活がなかったならば、その聖書に書いてあることもみんなデタラメになっちゃう訳ですね。 もしもキリストの復活がなかったなら、せっかく罪のために十字架に架かって死んでくださったとしても、ただ死んだ者で終わりであって、私たちの人生に新しい何の変化も起きてこないということになります。 永遠に対する何の保証もそこには起きてこないということになるんですねえ。
コリントの第一の手紙の15章という所には、「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは」(3節)、それは聖書に従って私たちの罪のために死んで葬られて、そして三日目によみがえったということ、これが最も大切なことだ。これがなくなったらキリスト教でなくなってしまうということなんですね。 「もしもキリストの復活がなかったのなら」ってコリントの第一の手紙の15章にありますが、「私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(14節) 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(17節)
キリストが墓の中に葬られたままだったら私たちの罪もそのまま葬られたまま。 つまり、そのまま罪の中に残っているだけにしか過ぎないという。 でもキリストはよみがえってくださったことによって私たちの人生も新しくよみがえることができるのだ、私たちの人生にも復活が起こるのだ、そしてあの絶望という墓を蹴破ってキリストがよみがえられたように、私たちの人生には絶望ということはないのだ、ということを明らかにし、やがて本当の希望、それはキリストが復活されたように私たちも復活することができる、永遠に生きることができる、ということの保証。 まさに復活こそ私たちの信仰の本質だということをぜひ知っていただきたいと思うんですね。
( PBA制作「世の光」2009.4.13放送でのお話しより)
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