百聞百見

ふじもと百男の政治活動日記

島守の塔、県庁壕

2012年08月15日 05時43分06秒 | インポート

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 わが自民党議員団政調理事会が7月中旬に行った沖縄県の政務調査におけるエピソード、「波上宮境内の明治天皇像」、「白梅の塔と県立第二高等女学校跡地」をこのブログで報告したが、今日は「島守の塔、県庁壕」での体験を報告したい。

 「島守の塔」は摩文仁の丘にあり、島田叡沖縄県知事と県庁職員三百余名の戦没者の御霊を祀る碑だ。私たちがこの地を訪れたのは、島田知事がわが兵庫県の出身であり、そうした縁で兵庫県と沖縄県友愛運動県民の会が昭和51年に発足し友愛に基づいた交流が行われて今年は40周年になることや、島田知事の遺骨捜索活動が話題になっていることなどがあった。島田知事は昭和20年1月沖縄県知事として着任し、米軍の猛攻のなか、県民の命を守ろうと最後までその責任を果たし、6月26日に最期を遂げたとされている。島田知事は、沖縄県民から今も「島守」とよばれて慕われている。

 私たちは那覇市真地の高台にある墓地にある県庁壕とよばれる防空壕を訪れた。昭和20年4月に県内の市町村長会議が行われた壕だ。島田知事、荒井警察部長が約3ヶ月この壕内で執務したため県庁壕と呼ばれている。沖縄独特の墓の間の狭い道を行くと、一段低くなったところに壕の入口があった。人一人がやっと通れる穴だ。ヘルメット、長靴に履き替えて壕に入る。中は真っ暗で湿気がひどい。しかし、自然の壕内には広い空間もあり、通路となっている穴を行くと、横に掘られた小さな部屋のような空間があった。その狭い空間に机、ベッドをこしらえて島田知事は約3ヶ月執務し生活したのだった。思わず手を合わせて冥福を祈る。

 地元の郷土史家から丁寧な説明をしていただいた。置かれた時代、そして状況が違うとはいえ、私たちは一時間もその壕内にいることさえできない状況だった。壕から外へ出ると真夏の青い空と白い雲、そしてまぶしい光があった。島田知事の最期の地はわかっていないようだ。その遺骨捜索が行われている。


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