(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌に発表した原稿をそのまま掲載しています。)
「第11回近代オリンピアードを祝し、ベルリン・オリンピックの開会を宣言する」
ドイツ首相アドルフ・ヒトラーによる、余計な修飾語の一切ない簡潔な開会宣言で、1936年ベルリン五輪の幕は開けた。
しかし、ヒトラーは当初、ベルリン五輪開催にきわめて懐疑的だった。その証拠に1932年、まだドイツの野党党首に過ぎなかったヒトラーは、「オリンピックはユダヤ主義に汚れた芝居であり、国家社会主義が支配するドイツでは“上演”できないだろう」と、政権獲得後の中止さえ匂わせる発言をしていた。しかし、翌33年にナチスが政権を獲得すると、最大の側近だったゲッベルス宣伝大臣の入れ知恵もあって、ナチズムの宣伝のためオリンピックを政治的に利用することを考え始めた。
このような経過をたどって開催されることになった1936年ベルリン大会は、極端な人種差別・民族抹殺政策をとる独裁国家によって、政治的に最大限利用された大会として、五輪史上に大きな汚点を残すことになる。
世界的な軍国主義・ファシズムの嵐の中で、朝鮮半島は1910年以来、日本の植民地支配の下にあった。天皇への忠誠と日本人への同化を強制され、言葉や氏名まで奪われていく屈辱と苦難の中で、2人の朝鮮半島出身のマラソンランナーがベルリンの地を疾風のように駆け抜け、朝鮮半島の人々に勇気と希望を与えた。しかし、その希望は、植民地支配の現実の中で、脆くも打ち砕かれ、消えていった。
私たちは侵略者としての日本の歴史に区切りをつける意味からも、植民地支配の責任を明確にしなければならない。戦争の歴史を知らない若い世代のためにも、「日帝支配36年」が朝鮮半島とその人々に与えた苦しみを伝えることは平和運動に関わる者にとっての義務である。今回は、ベルリンの地を駆け抜けたマラソンランナーの姿を通じて、歴史の真実を見ていく。(以下、文中敬称略)
●「私が走らなければ損をするのは彼らですからね」
朝鮮半島出身の孫基禎は、当時の日本と朝鮮半島で間違いなくトップを走る選手だった。だが、朝鮮半島の人々に当時、自分たちの国はなかった。孫もまた「日本代表」としてベルリンに来ていた。孫は、自分の出身を伝えるため、サインをするときは必ずハングルで自分の名前を書こうと決めた。日本選手団の役員はそのことに不満を持ち、「なぜそんな難しい字を書きたがるのだ」と何度も孫を詰問した。孫は「優勝できるかもしれないのでサインの練習をしているのです」と答え、サインを求められると、朝鮮半島の地図とともに気軽にハングルを添えたサインをして「KOREAの孫基禎です」と自己紹介した。練習の時も、極力、日の丸のついたトレーニングウェアを着ないようにした。着ない理由を問われると「ユニフォームがもったいない。家宝として取っておくのです」と答えるのだった。
「日本代表」としてベルリンに滞在していた同じ朝鮮半島出身の他の選手は、そうした孫の態度を心配した。中には「そんなことをしているとレースに出してもらえなくなるぞ」と“忠告”する者もいたが、孫は「いいですよ。私が走らなければ損をするのは彼らですからね」とあくまで平然としていた。
朝鮮半島出身の2人、孫と南昇龍は予選での圧倒的な記録によって選出されており、その実力に疑問はなかったが、日本選手団の役員たちは、マラソン日本代表3人のうち2人まで朝鮮半島出身であることに不満を抱いていた。懲りない役員たちは、ベルリン到着後、もう一度代表選考のための予選をやり直そうと言い始め、30kmを走る選考会が提案された。だが、そこでも孫が1位、南が2位となり、役員たちもこの結果を受け入れざるを得なかった。
ベルリンに向け送り出される直前、朝鮮半島出身の選手の激励会がソウル(当時は京城と呼ばれた)で開催された。他の競技に出場する選手と合わせ、計7人が「日本代表である前に朝鮮青年としての意気を天下に知らしめてくるように」と同胞たちに激励された。
1936年8月9日、ベルリンではいよいよマラソン競技の号砲が鳴る日が来た。前評判の高かったアルゼンチンのザバラは30kmを過ぎた地点で転倒し脱落、トップに立った孫はそのままオリンピックスタジアムのゴールを駆け抜けた。南も3位に入り、朝鮮半島出身の2人の実力は余すところなく証明された。
●屈辱の儀式
孫と南は表彰台に上がった。朝鮮半島出身の2人の他には、2位入賞のイギリス代表選手が立っている。実は、孫はそれまで、オリンピックに表彰式という儀式があり、そこで優勝した選手の出身国の国旗が掲げられ、国歌が演奏されるということを知らなかった。孫の優勝を称え、会場には君が代が流れ始めた。それと同時に、スルスルと上がり始めた国旗は、日の丸だった。
「果たして私が日本の国民なのか、だとすれば、日本人の朝鮮同胞たちに対する虐待はいったい何を意味するのだ。私はつまるところ日本人ではあり得ないのだ。日本人にはなれないのだ。私自身もまた日本人のために走ったとは思わない。私自身のため、そして圧政に呻吟する同胞たちのために走ったというのが本心だ。しかしあの日章旗、君が代はいったい何を意味し何を象徴するのだ」と孫は考えた。そして「これからは二度と日章旗の下では走るまい」と決心したのである。
●同胞たちの歓喜、そして「日の丸消し去り事件」へ
2人の勝利を何より喜んだのは朝鮮半島の人々だった。日本による弾圧と朝鮮人蔑視を跳ね返す2人の活躍を誰よりも喜び、祝福した。そんな中、ベルリンの日本選手村では2人の祝勝会が準備されたが、孫と南はそれには参加しなかった。2人はベルリン在住の韓国人・安鳳根から招待を受けていたのである。安鳳根は、韓国統監府初代統監・伊藤博文を暗殺した韓国独立闘争の英雄・安重根のいとこに当たる人物だった。2人は、同胞からの祝福を受け、改めて勝利を喜び合った。
朝鮮半島の新聞「東亜日報」(現在も韓国の新聞として存在する)は、孫の優勝を写真入りで報じたが、掲載された紙面の写真からは、孫が着るユニフォームの胸の部分に付けられていたはずの日の丸が消え、空白となっていた。これは、東亜日報のスポーツ担当記者によるもので、事実を知った朝鮮総督府は激怒した。東亜日報は日本の警察による強制捜査を受け、写真を加工した記者の他、社会部長、運動部長が拘束される事態となった。その後、東亜日報は停刊処分を受け、社内の「危険人物」の追放を条件にようやく復刊を許された。
当時、東亜日報には系列の雑誌「新家庭」があった。同誌は孫の下半身だけの写真をグラビアとして掲載し「世界制覇のこの健脚!」というキャプションをつけた。「新家庭」編集部にも刑事が捜査に来たが、編集部は「孫選手が世界を制覇したのは心臓ではない。彼の鉄のような両脚である。画報的効果を生かすために脚だけを拡大して掲載した」と反論した。また「使用した写真は孫の高校時代のものである」(=もともとユニフォームに日の丸はついていない)とも説明した。刑事が編集部内を捜索した結果、この事実が裏付けられたため、「新家庭」は関係者の逮捕や処分を免れた。
●「日本人が監視している」
「公式祝勝会」を無断で欠席し、安鳳根と会っていたとして、孫と南に対する日本選手団役員の扱いは次第に冷たくなっていった。その後、シンガポールに滞在していた2人は、東亜日報を巡る事件の発生を受け、小さなメモを渡された。「注意せよ、日本人が監視している。本国で事件が発生、君たちを監視するようにとの電文が選手団に入っている」と、そこには書かれていた。日本は、植民地支配に反抗する朝鮮半島の人たちを徹底的に監視し迫害した。金メダリストさえ、それは例外ではなかったのだ。
●約半世紀の時を経て
1984年、ロサンゼルス五輪。ソ連のアフガニスタン侵攻を受け、前回、1980年のモスクワ五輪を西側がボイコットしたことに対する「報復」として東側がボイコットした寂しいスタジアムの中で、孫は初めて韓国代表として走ることになった。選手としてではなく、聖火ランナーのひとりとして1kmを走った孫は、10万人の大観衆の中、初めて「ソン・ギジョン、KOREA」と名前・出身国を紹介された。日本語読みの「ソン・キテイ」から朝鮮語読みの「ソン・ギジョン」へ、「日本代表」からKOREAへ。孫基禎は、長かった「日帝支配」からこのとき初めて解放されたのである。
●今こそ過去の清算と差別解消を
日韓併合100年の今年は、戦争責任を曖昧にしてきた日本政府に謝罪と補償をさせる絶好の機会である。しかし、日本政府は政権交代などなかったかのように、高校教育無償化制度から朝鮮学校を除外して恥じることなく、新たな差別を繰り返している。圧倒的な成績で金メダルを獲得しながら、「日本代表」として表彰台で君が代を聞かなければならなかった屈辱を孫基禎が経験してから70年。今なお朝鮮学校が「各種学校」であるために、生徒たちは多くのスポーツ大会に参加できないでいる。「在日特権を許さない市民の会」などという薄汚い根性の日本人が、朝鮮学校へ押しかけ、大音量で威圧的な街宣を繰り返している。女子生徒のチマ・チョゴリが引き裂かれる事件も後を絶たない。
「在特会」など右翼の主張を真に受けている若い人に、筆者は、日の丸・君が代にはこのような歴史があることを伝えたいと思う。朝鮮半島の人たちばかりではない。日本人もまた多くが日の丸に寄せ書きをして「武運長久」を祈り、「靖国でまた会おう」と言い残して、無謀な戦争に突撃していった。日の丸・君が代を国旗・国家として受け入れることは、筆者にはできない。
侵略と植民地支配の謝罪は、被害者に言われたからするというものではない。加害者である日本人みずからがなすべき義務だ。筆者は、戦後補償問題は日本と日本人ひとりひとりの問題であることを、この機に改めて訴えたい。
<参考文献>
「オリンピックの政治学」(池井優・著、丸善ライブラリー、1992年)