人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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【鉄ちゃんのつぶや記 第37号】私の原点・日比谷線事故

2009-03-13 23:34:28 | 鉄道・公共交通/安全問題
 2000年3月8日、営団地下鉄(現・東京地下鉄)日比谷線・中目黒駅で起きた脱線事故から早いもので9年経った。例年、この事故に関するマスコミ報道はきわめて冷淡なものだったが、どういうわけか今年は例年よりも扱いが良かったような気がする。慰霊祭では、死亡した5人の乗客の遺族の他、東京地下鉄の梅崎寿社長も献花。「9年が経ちましたが、心から申し訳なく思っており、改めておわびするとともに亡くなられた方にご冥福をお祈りします」と追悼の辞を述べたという。

 9年前の「あの日」…2000年3月8日の出来事を、私は今も忘れない。横浜勤務で、大船に住んでいた当時の私は、その日、高田馬場で仕事を命じられ、同じ仕事を言い渡された同僚と2人で高田馬場へ向かうことになっていた。大船から横浜までJRで行き、横浜から東急東横線に乗り換える。渋谷まで東横線で行き、JR山手線で高田馬場へ…というルートで行こうと前日から打ち合わせていた。

 ところが、いつもは集合時間より早めに来ている同僚から、その日に限って少し遅れると電話があった。「横浜、渋谷で2回も乗り換えしていたら時間ヤバいよ。乗り換え回数を減らした方が早くなりそうだから、少し遠回りになってもJRにしない?」と同僚からルート変更の提案があったので、私は承諾し、大船から品川までJRで直行、そのまま山手線に乗り換え高田馬場に着いた。

 途中、午前9時15分頃だっただろうか。品川で東海道線から山手線に乗り換えようとしたとき、駅のアナウンスが「地下鉄日比谷線が爆発事故で運転見合わせ」を告げた。同僚と「爆発? あり得ないよな。誰かのいたずらだろう」と言い合いながら、私たちは山手線に乗り換えたのだった。

 午後3時過ぎ、高田馬場で仕事を終えた私は、残務がある同僚より一足先に帰ろうと高田馬場駅に着いた。このとき、駅の張り紙で日比谷線がまだ不通のまま、復旧のめども立っていないことを知った。事あるごとに復旧が遅いJR東日本と違い、いつもはすぐ復旧するはずの営団地下鉄が、運転見合わせから6時間経っても再開のめどすら立たないとは、よほどの重大事態だと思った。やがて、日比谷線で脱線事故が起き、乗客が亡くなっていることを電光表示のニュースで知ったとき、私は全身が震えるのを感じた。今朝、もし当初の予定通り東横線に乗っていたら、まさに事故が起きた午前9時頃、現場の中目黒を通過するタイミングだったからだ。

 同僚の遅刻が、結果的には私たちの命を助けてくれたのだと、そのとき知った。亡くなった5人の乗客と、助かった私たちの間に存在していたのは、ほんの少しの場所と時間の違いだけだった。同僚が遅刻してこなければ、私たちと5人が入れ替わっていた可能性は高かった。このとき私は、運命の非情さ、冷酷さを思わずにいられなかった。

 運輸省(当時)の調査によって、この事故の原因が、急カーブでの横圧による脱線だったことが突き止められた。中目黒は、日比谷線と東急東横線が合流する地点にあり、地下を走っている日比谷線が地上に躍り出てくるところである。ここには、通常運転方式の鉄道としては限界値に近い35パーミル(1000分の35)の急勾配があり、しかもその急勾配区間に半径160メートルの急カーブがあった。

 160メートルが鉄道線路の半径としていかに小さいか。それは、2005年に脱線転覆事故が起きたJR福知山線の事故現場のカーブが半径300メートルだったことを付け加えておけば十分だろう。福知山線のカーブのほぼ半分の半径だ。しかもこのカーブが、35パーミルの登り勾配の途中に位置しているのである。誤解を恐れず言えば、ちょっとしたジェットコースターのようなものである。

 脱線防止のための護輪軌条(いわゆるガードレール)はなかった。営団は、半径140メートル以下のカーブには護輪軌条を設けなければならないという社内規定を制定してはいたが、この社内規定はアリバイ作りと断定してもいいほどの酷いものだった。なぜなら、そもそも当時、鉄道施設・設備の基準だった運輸省令「普通鉄道構造規則」が、鉄道の曲線の最小半径を160メートルとし、それより小さい半径を認めていなかったからである。つまり、この時点での営団の規定は「護輪軌条はどこにも設置しなくてよい」というのと事実上同じことであり、全くの無意味だった。

 この場所では、1965年、1992年にも事故が起きており「魔のカーブ」と言われていた。しかも、電車の左右の車輪にかかる重量(輪重比)が最大で30%以上も偏っているという危険な状態がありながら放置され続けていた。輪重比の極端な偏りに危険を感じた現場から、会社上層部に対し、実態解明のための輪重計設置を要求する声が公然と上がっていたが、会社は無視した。1941年の創立以来、(踏切とホーム転落を除けば)一度も死亡事故を起こしていなかった帝都高速度交通営団の輝かしい歴史とは裏腹に、「魔のカーブ」はいつ犠牲者が出てもおかしくない危険な状態だったのだ。

 事故後、営団は現場に護輪軌条を設置するとともに、運転速度を落とす措置を取った。運転速度を落とせば、遠心力に起因する横圧は減少するから、脱線の危険性も大きく減る。だが、これはあくまでも対症療法的な措置に過ぎないのであって、このような危険な状態を放置していた営団の責任は、きわめて重い。

 9年前のあの日、同僚の遅刻によって私たちは偶然、命を救われた。なんの取り柄もないのに生き残った私は凄惨な現場のすぐそばにいた。私と引き替えるように散っていった5つの貴い命。みずからが持っている鉄道の知識を安全向上のために使おうと決意したのは、このときだった。

 日比谷線事故は、鉄道の安全向上に取り組む私にとって「原点」となった事故である。あれから9年…乗客が死亡する鉄道事故は不幸にして3件発生している(京福電鉄列車正面衝突事故、尼崎脱線事故、羽越線事故)。鉄道その他、公共交通の安全を求める私の活動は、これからも続く。

(2009/3/13・黒鉄 好)

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さようなら九州ブルートレイン

2009-03-13 22:24:04 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
鉄道ブログとして、やはり今日はこの話題しかないだろう。

東京発ブルートレイン「はやぶさ・富士」最終日(レスポンス)

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3月14日のダイヤ改正で姿を消すブルートレイン、寝台特急「はやぶさ・富士」(東京 - 熊本・大分)。13日の東京駅9・10番線ホームは、同列車の最後の出発シーンを見届けようとする3000人以上のファンで埋め尽くされた。

最後まで残った東京 - 九州間ブルートレイン「はやぶさ・富士」の乗車率は、JR九州によれば、ここ数ヶ月は惜別ファンの記念乗車などによって乗車率100%という数字を出してきたものの、2007年度の平均では約20%。1989年時と比べるとおよそ4分の1まで減少したという。

東京から九州まで行く夜行の公共交通といえば、1990年に登場の、新宿と博多を結ぶ西鉄高速バス「はかた号」があげられるが、こちらの乗車率は常に概ね好調のよう。東京 - 博多間の通常期料金で比べると、同列車で約2万3000円、同バスで約1万5000円。似ているルート・所要時間でおよそ8000円の開きがある。

また、夜を徹して関西方面へ向かう公共交通のひとつとして、ウィラートラベルのツアーバスに目を向けると、同社の全路線全便の昨年の平均乗車率は90%超。今後の目標として95%超を掲げているという話もある。

ブルートレインという公共交通が時代に取り残された存在となってしまったことが、乗車率だけを見てもわかる。そして高速バスは今後、高速道路大幅値下げによるマイカー利用増加という事態に対応する局面にさしかかっている。

《レスポンス 大野雅人》
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九州ブルートレインについては、もう当ブログも「廃止やむなし」の姿勢なので、あれこれ言うつもりはない。北海道夜行が今でも盛況なのは、津軽海峡を車で渡れないため(フェリーという手段はあるが)車との競合がないという特殊事情がある。「日本海」の場合は、他に選択肢がないという事情で仕方なく選んでいる人がほとんどだろう。

寝台列車を「夜の時間を有効利用するための列車」と位置づける時代は、とうの昔に終わった。今後はカシオペアやトワイライトエクスプレスのように、移動手段ではなく「乗ること自体の付加価値」を見いだすような「商品」としての売り出し方でないと維持は困難だと思う。

九州寝台特急のいつか全廃される運命は、実は国鉄分割民営化のときにすでに決まっていた。利益のために鉄道を動かそうなどと考える連中が、こんな非効率なものをいつまでも放置しておくわけがないからだ。鉄道ファン仲間の中には「民営化なんてしたら夜行は10年持たないのではないか」という人もいた。JR化直後にバブル経済という恩恵があったとはいえ、利益第一の「私企業」の下で、よく20年間も持ったなぁと、私はむしろ思っている。

廃止の原因は乗客減と車両老朽化が原因とマスコミは書いている。確かにそれも原因には違いないが、九州夜行廃止には他の原因も潜んでいる。最も大きい要因が、2008年から始まった東北本線の東京乗り入れ工事で、東北、高崎、常磐線の列車が東京に乗り入れるようになったら、品川の車両留置スペースが確保できなくなるためだ。これに、JR東海での機関車運転士の養成中止、九州地区での機関車交換作業の廃止による効率化などの事情も絡んでいる。はっきり言ってしまえば、関係4社(JR東日本・東海・西日本・九州)のうち、九州ブルトレを現状のまま残してもいいと思っていたのはJR西日本くらいだろう。その西日本にしたって、九州ブルトレは「残してもいいけどなくてもいい」程度の認識だったのではないか。

九州ブルトレの時代はこれでいよいよ終わった。だが名残惜しいとか、残念だとかいう感情は不思議に湧いてこない。完全燃焼し尽くし、定年退職する人を送別会で送り出すイメージに近い。昨年の0系新幹線引退のときと同じである。

九州ブルトレの引退にあたり、当ブログが「去りゆくあなたに贈る言葉」は「長い間お疲れさまでした」のひとことだけでいい。

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