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さよなら0系新幹線

2008-12-01 21:18:05 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
やはり、鉄道ブログとしては、今日はこの話題しかないだろう。

初代新幹線「0系」、最後のおつとめ…44年の歴史に幕(読売新聞)

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 高度成長時代の象徴として登場し、走り続けてきた初代新幹線「0系」が30日、定期運転を終え、44年の歴史に幕を下ろした。

 ラストランは岡山発の博多行き「こだま659号」(6両)。博多駅には最終列車の雄姿を見ようと約1000人がホームに集まり、「団子鼻」の愛称で親しまれた夢の超特急との別れを惜しんだ。

 0系は東京オリンピック直前の1964年10月1日にデビュー。「ひかり」として最高時速220キロで走り、特急で片道6時間半かかった東京-新大阪間を約4時間で結んだ。75年3月に博多まで延伸すると、東京-博多間を約7時間で運行、九州と本州をつなぐ大動脈の役割を担った。

 その後、500系やN700系など新型車両の登場に伴って出番は減少。最高時速300キロの「のぞみ」が4時間50分で東京-博多間を走る現在は、山陽新幹線で運行する「こだま」だけとなっていた。

 6、13、14日、新大阪-博多間で臨時の「さよなら運転」が行われるが、全席完売しているという。
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初代新幹線「0系」引退…44年の定期運転に幕(スポーツ報知)

 1964年にデビューし、「夢の超特急」と呼ばれた初代新幹線「0系」が30日、こだま659号として定期運転を終え、44年の歴史に幕を下ろした。最終列車が出た岡山駅には約2000人、終点の博多駅には約1000人の鉄道ファンらが詰め掛けた。

 早朝から248席の自由席を求めファンが殺到、約100人が警備に当たった岡山駅。午後2時51分の発車に先立つセレモニーでは、運転士と車掌に花束が手渡され、JR西日本の岡山支社長らがテープカット。駅長の合図で最終列車がゆっくり動きだすと、「いつか帰ってきてね」と大きな拍手がわいた。

 約3時間半かけて、定時より2分遅れの午後6時23分、博多駅に到着。停止した瞬間、ファンらが「お疲れさま」と拍手で労をねぎらった。終了式典後、博多総合車両所へ回送。ホームの人たちは手を振って最後の雄姿を見送った。

 0系は東京五輪開幕9日前の64年10月1日、東海道新幹線の開業とともに登場した。白地に青のラインと丸みのある先端部分が特徴。最高時速は当時世界一の210キロを誇り、高度経済成長期の象徴となった。

 東京―新大阪間を3時間十分で結んだが、老朽化などから新型車両への世代交代が進み、近年はJR西が山陽区間(新大阪―博多)の「こだま」として運行していた。

 JR西によると、最終列車の指定152席は10月30日午前10時の発売開始後わずか数秒で完売した。12月6、13、14日には、臨時の「ひかり」で「さよなら運転」を行う。

 ◆0系新幹線 1964年に「ひかり」「こだま」として登場。東京―新大阪を当初4時間、その後は3時間10分で結び、在来特急による6時間半を大幅に短縮した。フランスのTGVなど欧州の高速鉄道にも影響を与えたとされる。国鉄末期の86年までに3216両が製造された。99年に東海道区間から引退した。2007年、日本機械学会が機械技術の歴史的遺産「機械遺産」に認定した。
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「世界のシンカンセン」0系にもついにお別れの時が来た。
私が初めて新幹線に乗ったのは、親戚の結婚式で岡山に行った5歳(くらい)の頃だったと思う。まだ博多開業して間もない頃だった。あのときは、うれしくて車内で少しもじっとしていることができなかった。飛ぶように流れる景色、カーブを切るたびに傾く工場地帯…超特急に乗った夢の瞬間だった。

次に乗ったのは、時代がずっと下って1985年、中学校の修学旅行で京都に行った時である。旅行社(確かJTBだった)から配られたパンフレットには「(山陽新幹線)全区間の51%がトンネル」と記載されており、その事実に驚かされた。
車内で友達とワイワイ騒いでいたこともあり、残念ながら車内の様子は覚えていない。

0系の功績は、いかに強調してもしすぎることはない。当時、欧米諸国では「鉄道なんて斜陽産業」と言われ、鉄道はモータリゼーションの中で滅び行く産業とされていたし、敗戦国・日本が新幹線の開発に取り組み始めてからも、世界は「敗戦国が10年程度でそんな高速鉄道を実現できるわけがない」と冷ややかに眺めていたという。国内からでさえ、新幹線を理解できない人々から様々な批判の声が上がっていた。

『…どの工区も突貫工事で進められた。5年という短い工期を設定せざるを得なかった理由は東京オリンピックだけではなかった。ことが長びくのは不利だった。この計画は常に批判にさらされており、実際に走らなければその威力を理解できない人々が、政界や、財界や、言論界にいて何かと口うるさく、一刻も早く現物を見せる必要があったのである』(『日本鉄道物語』橋本克彦・著、講談社文庫)

新幹線計画は、いわば四面楚歌の状態だった。しかし、実際に開通してみると、従来の常識を覆した。鉄道の経営・技術の両面でパラダイムチェンジを引き起こし、それは新たな時代の幕開けとなった。

日本最大の鉄道ファン親睦団体である「鉄道友の会」が、毎年、その年登場の最優秀車両に贈る「ブルーリボン賞」。ローレル賞など他の賞が選考で授与されるのに対し、ブルーリボン賞は全会員参加の投票で決定されるため、鉄道車両に贈られる賞としては最も高い権威を誇るが、そのブルーリボン賞史上、最高得票(約7割)を記録した栄光は、半世紀近く経つ現在も全く色褪せることはない。

ありがとう、0系。さようなら0系。
私も日本国民も、いや世界中の鉄道関係者は、0系が築き上げた栄光を決して忘れることはないであろう。

ところで余談だが、0系新幹線引退のニュースは当然ながら一般商業メディア(新聞・テレビ等)でも大々的に取り上げられた。私の見るところ、その中でも光っていたのがNHKだと思う。他の放送局、新聞がこぞって博多駅や新大阪駅で取材していたのに対し、朝のニュース「おはよう日本」では、なんと博多南駅で取材していたのだ。

博多南とはなかなか考えたな、と思った。どうやらNHK以外の各メディアは考えが及ばなかったようだ。確かに、0系を使った「こだま638号」は博多南始発だから、ここに拠点を構えれば他社に邪魔されることもなく好みのアングルで撮影もできる。おまけに博多総合車両所だから、0系以外の車両まで眺められる。きっと、NHK局内に鉄分の濃い職員がいて、アドバイスをしたのだろうという気がする。

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