お寺さんぽ Ver.03

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天下の名姑「吉野太夫」 (京都・常照寺)

2006年10月18日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都北区、寂光山常照寺(じゃっこうざん・じょうしょうじ)ゆかりの寛永三名妓、天下随一の太夫と謳われた二代目「吉野太夫」について。


さて、いきなりですが、よく耳にする「太夫(たゆう)」ってなんなんでしょう?
 → 官許の遊女のうち、最高位(松の位)にある者への呼びかけ。またはその名の一部に用いる。
有名な「江戸吉原」など、江戸幕府が許可していた遊郭・遊女に授けられる、最高位の称号なんだって。
なんと、従五位ほどの教養だそうです。
こりゃー半端モンではありませんね。

さて、太夫の事前知識がついたところで、この「吉野太夫」さんのお話。
慶長十一年(1606)
江戸時代初期頃ですね。ちなみに、「関ヶ原合戦」が慶長五年(1600)のことです。
西国の武士・松田氏の娘として誕生します。
本名は「徳子」でした。
幼い頃に父を亡くした徳子は、京都嶋原(六条付近)の花街へ預けられます。
この「嶋原」は非常に文化度の高い花街で、嶋原の太夫は体を売らなかったようなのです。

さて、預けられた徳子は雑女の頃より凄まじいほどの美貌で目立ち、なんと十四歳の若さで太夫になっています。
嘘か本当か、この頃明国(中国)からラブレターが届いたとかなんとか。
…まるで芸能人ですよ。
スゴイいですね。
また、凄いのは美貌だけでなく、和歌、連歌、俳句は無論のこと、書、茶湯、囲碁、双六、琴、琵琶…などなど諸芸に優れ、全てが達人と言われるほどだったのです。
ドラクエ風に書くと「あそびにん レベル99」という感じでしょう。
まさに「才色兼備な女性」だったのですよ。
うっわー、会ってみたいですねー。

徳子こと「吉野太夫」は二十六歳頃、年下の夫で豪商の灰屋紹益(はいや・じょうえき)に身請されました。
紹益くんは京町衆では代表的な文化人で、やはり和歌や茶湯などに精通していたようです。
そのあたりで気が合ったのかもしれませんね。

当初は親の許しを得られず、紹益くんは吉野太夫の手を取って駆け落ちしました。
しかし、ひょんな偶然でその世話になった父は吉野太夫の立ち振る舞いに感服し、結局二人を許したそうです。
(※当然ながら、世話になった時は息子の相手とは知らない)
そりゃー、従五位に匹敵する最高位の称号持ってますから。
伊達ではありません。
まぁ、許すことになるでしょうよ。ええ。

そんなこんなで妻として幸せな日々を過ごした吉野太夫ですが、「佳人薄命」の言葉通り三十八歳の若さで没しています。

悲しみのあまり、紹益くんは吉野太夫の灰を飲み干し、
都をば花なき里となしにけり 吉野の死出の山にうつして
と詠んだそうです。

……あのぉ、灰なんて飲んだら体に悪いと思いますよ、紹益くん。
と言うか、飲んだらゲホゲホなって歌詠む余裕はないのではないかと…。
龍角散みたいなもんでしょ?たぶん。

さて、常照寺との関係ですが、吉野太夫はこちらの開祖である「日乾上人」に帰依していたんですね。
境内には、太夫が寄進した朱塗りの山門「吉野門」があります。
さらに、墓地には「吉野太夫」と夫「灰屋紹益」の墓もあります。
こちらには、今でも歌舞伎俳優や芸能人などが訪れているそうです。
毎年四月の第三日曜には「吉野太夫花供養」が行われているんだって。

…ちなみに、ひでるさんコチラへ行った時は十月でしたが、なんだかイベントやってましたよー。
撮影できる雰囲気でなかったので写真ありませんが、「吉野太夫」に扮した方がなんか飲んでたりなんだりしました。(←なんだりってなんだ)
大注目の「吉野太夫」役の方については…………………………発言控えさせて頂きます(笑)



[住所] 常照寺 京都市北区鷹峰北鷹峰町四五 

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⇒ 常照寺 (京都)


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※小説がありましたので、興味ある方はどうぞ。
 ひでるさんは知識ありませんでしたが…かなり有名な人ですか?!


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