お寺さんぽ Ver.03

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天王山を占領する「中川清秀」 (中国大返し・山崎合戦)5

2008年11月13日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りしております。
時代の覇者「織田信長」の死後にあった、それぞれの人間模様をとくとご覧くださいませ。


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
 本能寺に宿泊していた「織田信長」は突如兵を反転させた「明智光秀」の急襲を受け、四十九年の人生を終えました。
六月三日
 羽柴の陣へ誤って入った伝令によって、悲報に接す。
六月四日
 高松城は開城、毛利氏と和睦締結。
六月五日
 高松陣を撤収。
六月六日
「中国大返し」を開始。
六月七日
 姫路城へ入城。
六月八日
 姫路城にて休息・部隊編成。
六月九日
 羽柴勢、姫路城を出陣。
六月十日
「羽柴秀吉」は兵庫付近までその姿を見せていたのでした…。


■六月十一日 「秀吉、摂津尼ヶ崎に到着」
二日間走っていた秀吉がついに摂津尼ヶ崎まで到着した頃、光秀はあいまいな態度を続ける「筒井順慶」を諦めて、ついに洞ヶ峠から撤退しております。
下鳥羽まで戻ってここを本陣と定め、「淀城」を修復するなどして守備を固めるのでした。

光秀としては、羽柴勢を何としてでも山崎の隘路(あいろ:狭く険しい道ね)に誘いこみ、そこで殲滅したかったのです。
その地は西国から京都へ入る際の関門。
京都方面へ入る際には必ず通らなければいけないという、重要拠点なのでした。
(※ちなみに現在も東海道線、新幹線ほか高速道路などが集中している交通の要所なのです)


■六月十二日  「秀吉、摂津富田に陣を置く」
光秀の誤算が続く中、逆に京へと向かう羽柴勢には次々と参加者が集まり、総勢四万という大軍になっておりました。

余談ですが、「高松城」の攻撃軍は二万五千という規模でした。
若干数は守備隊として残していたと思われますから、約半数ほどの兵数が秀吉に呼応した部隊だと想像されます。

摂津富田に陣を置いた秀吉はここで軍議をし、全軍の配置を決定。
翌日に山崎へ結集
…という、軍令を出したのです。

秀吉勢の先方「中川清秀」は先んじて、午後には標高二七〇メートルの天王山を占拠しております。
現在でも勝負事にて引用されることの多い「天王山」ですが、ここは双方が決戦地として選んだ山崎の地を一望できる要所であり、優位に導いた原因とされているのです。
まぁ、圧倒的な兵力差があったんですけど、ここを押さえられてしまったことは明智勢にとって実に痛かったのでした。

続いて「高山重友」隊が山崎の集落を占拠。
先の天王山、および山崎の地では明智勢と小競り合いがあったようですが、ここを死守しております。

総大将である秀吉の本陣は山裾後方の宝積寺に置かれました。
弟「羽柴秀長」、「黒田官兵衛」、「神子田正治(みこだ・まさはる)」らは天王山へ布陣しております。

対する明智勢は一万七千という兵を洛南の山崎へ配置。
修復した淀城を再左翼として自身は「勝龍寺城」へ入り、ここを本陣としました。
右翼には、山の手に「並河易家」「松田政近」、円明寺に「伊勢(与三郎)貞興」、「御牧(三左衛門)景重」、「諏訪飛騨守」らを配し、迎撃体勢を整えたのでした。

⇒ つづく。
  次回は「押され続けた明智光秀」(6/6)

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※天王山と言ったら…やっぱり野球でしょう。
 こんなんはどうですか?