お寺さんぽ Ver.03

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押され続けた「明智光秀」 (中国大返し・山崎合戦)6

2008年11月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りしてきましたが、本日が最終回です。
時代の覇者「織田信長」の死後にあった、それぞれの人間模様をとくとご覧くださいませ。


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
 本能寺に宿泊していた「織田信長」は突如兵を反転させた「明智光秀」の急襲を受け、四十九年の人生を終えました。
六月三日
 羽柴の陣へ誤って入った伝令によって、悲報に接す。
六月四日
 高松城は開城、毛利氏と和睦締結。
六月五日
 高松陣を撤収。
六月六日
「中国大返し」を開始。
六月七日
 姫路城へ入城。
六月八日
 姫路城にて休息・部隊編成。
六月九日
 姫路城を出陣。
六月十日
 兵庫付近に到着。
六月十一日
 摂津・尼ヶ崎に到着。
六月十二日
「羽柴秀吉」は摂津富田にて軍議を開き、決戦の地・山崎を目指すのでした…。


■六月十三日 「秀吉、山崎合戦に挑む」
高松城から引き返してきた秀吉以下羽柴勢には、「中川清秀」「高山重友」「池田恒興」などの摂津勢、「丹羽長秀」「織田信孝」という四国討伐軍が加わっていました。
その総勢は四万。

先鋒「中川清秀」は天王山を、「高山重友」は山崎の集落をいち早く占領。
一方、明智勢は一万七千程度で、重要拠点を占拠された上に兵力もほぼ三分の一程度という、非常に不利な状況だったのです。

さて、この日は、朝方より雨が降っていたそうです。
降りしきる大雨の中、「明智光秀」は中桂川を渡って本陣を御坊塚(※勝竜寺城の南西)まで進め、東上する羽柴勢に備えたのです。

もともとは共同作戦も行ったことのある、同僚同士の対決…。
お互いに警戒して動かず、午前中はそのまま過ぎました。
結局、戦いが始まったのは、午後四時ごろ(申の刻)と言われています。


明智勢は山の手に陣する「並河易家」「松田政近」ら先鋒勢が比較的手薄であった天王山東の「中川清秀」を攻撃。
これが合戦の合図となりました。

勝竜寺城の側面に位置する敵を払うと共に、あわよくば天王山の奪回を目指したのかもしれません。
しかし、山頂に位置していた「羽柴秀長」、「黒田孝高」隊らの奮戦によって、先鋒勢は撃退されてしまうのです。

一方、秀吉勢の右翼「加藤光泰」隊が「津田重久(与三郎)」隊を撃破。
明智勢の主力である「斎藤利三」隊は「池田恒興」「木村隼人」「中村一氏」「加藤光泰」らによって包囲され敗走。
(※後に近江堅田で捕縛されて、斬首となります)
「伊勢貞興」、「御牧景重」らは乱戦の中で討死。

圧倒的な兵力差に追い詰められた明智勢は中央突破を試みますが、左右に展開された秀吉勢によって側面を突かれて足並みを乱し、また中央でも「高山重友」、「堀秀政」に阻まれてどうにも進めず、先鋒勢の敗走からたちまち総崩れとなってしまうのです。

本陣にあった光秀は先陣の大敗北に出撃を決意しますが、家臣「北田則家」に諫められて勝竜寺城へ撤退。

こうして、わずか二時間たらずの合戦に圧倒され続けた光秀は、ここで全てを失ってしまうのでした。
しかし両軍ともに三千という死者を出すほどの激戦で、敗れたとはいえ兵力差の割に明智勢はかなり頑張っていたのです。

勢いにのった羽柴勢は、続いて明智勢の本陣である「勝竜寺城」を包囲。
堅城ではない「勝竜寺城」での攻防を不利と悟った光秀は、城を捨てることを決意し、夜半のうちに脱出しました。
まだ包囲網も完成する前であったんですが、明智勢は文字通り算を乱して敗走するのです。

なお、光秀は本拠である近江「坂本城」を目指していましたが、全軍に撤退先の伝達は不徹底だったことから「亀山城」を目指した部隊もあり、これが双方の兵力を激減させる要因となってしまうのです。
また、まとまっての撤退は目立つため、数人単位で行動したことが仇となってしまいました。

桂川を渡って大亀山を過ぎ、山科まで辿り着いた光秀一行。
…がその途中、小栗栖の竹藪から突き出された農民の竹槍によって脇腹をえぐられ、それがために絶命してしまうのです
「明智光秀」の誕生年は不確かですが、おそらく五十四歳くらいであったようでした。
なお、小栗栖(京都市伏見区)の藪は「明智藪」と呼ばれております。

…その後。
六月十四日には後詰のため安土城から急遽出兵した「明智秀満」を「堀秀政」が打出の浜(大津市)で迎え撃って撃破。
坂本城に追い込んでおります。
さすが名人。

続く六月十五日。
秀満は城内にあった名刀や茶の湯の財宝・名物を秀政へキチンと引き渡し、城に火を放って自刃。


”三日天下”と言われていますが、光秀の天下は実際には十一日にて潰えたのでした。






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※もし、秀吉が駆け付けることできなかったなら…
 やっぱ、他の誰かに討たれていたでしょうかねぇ。
「柴田」か「徳川」かな。