お寺さんぽ Ver.03

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家中を抑える「小早川隆景」 (中国大返し・山崎合戦)2

2008年11月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りさせていただきます。
時代の覇者「織田信長」の死後にあった、それぞれの人間模様をとくとご覧くださいませ。


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
本能寺に宿泊していた「織田信長」は突如兵を反転させた「明智光秀」の急襲を受け、四十九年の人生を終えました。
六月三日
その悲報に接した「羽柴秀吉」は、急ぎ対峙している毛利氏との和睦を目指すのです…。


■六月四日 「秀吉、毛利氏と同盟を締結する」
秀吉勢からは「森高政」が人質として毛利氏へ。
一方、毛利氏からは「小早川秀包」が人質として送られました。
正午過ぎ、小舟に乗った「清水宗治」は城兵の命と引き替えに自害。
高松城はここに陥落したのです。

なお、毛利氏が紀州雑賀衆の伝令によって「信長死亡」の報に接したのは、この直後だと言われております。
(※あるいは六日とか言われている様子)

騙された毛利氏の家臣には”撤退する羽柴勢の追撃を主張”した者もいたそうですが、
誓紙の血痕も乾かぬうちにこれを破るのは武士の恥
…と、後の五大老「小早川隆景(※写真右)」が反対。

約定を順守した結果、後年になって秀吉に深く感謝されることとなるのです。
なお、兄「吉川元春(※写真左)」はこの事に腹を立てて大の秀吉嫌いとなり、隠居していたりします。
なんだか可愛らしい行動ですね。

一説によると、この頃に「明智光秀」は朝廷「正親町天皇」より、”征夷大将軍を宣下を伝達された”と言われております。
もしそれが本当なら、一時的とは言え光秀は正真正銘の天下人となっていたのです。


■六月五日 「秀吉、撤収作業を開始する」
京を押さえた明智勢は、さっそく畿内制圧に動き出しておりました。
留守となっていた秀吉の本拠「長浜城」は、光秀に呼応した「京極高次」が攻略。
なお、秀吉の正妻「おね」は素早く「大吉寺」に身を寄せていたため、無事でした。
(※ちなみに、「平治の乱」の際に若き「源頼朝」が身を寄せたのも大吉寺)
さらに、「丹羽長秀」の居城であった「佐和山城」は若狭武田氏「武田元明」が攻略。
これが四日から五日のあたり。

そう、京極氏は元四職の一つ、武田氏は若狭守護ということで、光秀の誘いに対して積極的に応じたのは、没落していた名門家なんですねー。
こんな所は、「大阪の陣」での豊臣家を彷彿とさせます。

さて、近江「瀬田城」の「山岡景隆」「山岡景友」らは光秀からの誘いを拒否し、逆に瀬田橋を落とすなどして明智勢の進路を阻止しております。
(※さらに弟「山岡景佐」は、「徳川家康」の退路を確保するなど、この一族は各方面にて活躍しておりました)
光秀は落とされていた瀬田橋を修復してこれを渡り、信長の居城「安土城」へと入城。
この時点で、近江はほぼ明智勢によって平定されておりました。

ちなみに、安土城の留守を守っていた「蒲生賢秀(がもう・かたひで)」は、二日…だから本能寺が襲われたその日のうちに悲報に接し、信長の妻子らを伴って自らの居城日野城へ移し籠城。
(※なお、彼の嫡男「蒲生氏郷」の妻は信長の娘「冬姫」です)

こちらにも光秀からの誘いがありましたが、蒲生親子は拒絶して籠城を続けるのでした。
結果的にはしっかり守り切り、有事での適切な判断を皆から称賛されることとなります。

一方、秀吉は高松陣の撤収作業に追われておりました。
摂津は茨城城主「中川清秀」から届いた書面に対し、
信長親子は光秀の謀反を切り抜け、無事に近江の膳所ヶ崎までたどり着いた。今後も油断なく備えてほしい
…というような返事を出しているのです。
さすがは秀吉。
こうした情報戦(虚報)を仕掛け、戸惑う摂津付近武将らの叛意を押さえるという、したたかで用意周到な面を見せています。
彼らも、どちらかで信長が生きてる(かもしれない)という情報を聞けば、そう簡単に明智勢へ協力する訳にはいかなくなるのです。
事実、「中川清秀」「高山右近」といった摂津の各将は、秀吉に味方して活躍するのでした。

また、四国出撃の準備をしていた織田家家老「丹羽長秀」と信長三男「織田信孝」は大阪玉造にて報に接しております。
(※正確な日付はよく分かんなかったの)
そちらの部隊に参加していた光秀の女婿、大溝城「津田信澄」は”縁者である”ということで内通を疑われ、五日大阪城にて信孝より襲撃・自刃に追い込まれております。

ちなみに彼は信長の弟「織田信行(信勝)」の嫡男でして、「一段の逸物」と称されるほどの人物だったと伝わっています。
一説には、行く手を阻止するべく大阪京橋へ出陣した信澄に尻ごみをする信孝を、長秀が「自分から討たれに出てきたようなもの」と、叱咤激励をしたと伝えられていますが…詳細は不明なようでした。

⇒ つづく。
  次回は「走る羽柴秀吉」(3/6)

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※知りませんでした、こんなんやってたんですね。
 しかし、”神に愛されなかった”とはなんだかひでェなぁ。