コナサン、ミンバンワ!2014=平成26年4月も、拙ブログを宜しくお願い致します。
先月末、開花した今季の当地の桜も既に見頃を過ぎ、明日よりは散る様を多く見る事となろう。「無常」と言う言葉の様に、季節は移ろい、桜前線も同じ所に留まるはずはなく、北を目指して移動して行く事だろう。それが真実であると言う様に。今季の当地の見頃はこれまでよりも短かった感じがするも、それも現実の事として受け入れるべきなのだろう。
さて、真実と言えば、昨年来各方面で虚偽の事共が多く生じた印象が強い。一流と言われるホテルや飲食店、食品を扱う店舗などでの産地虚偽表示に始まり、今年に入っては、視聴覚障害を抱えるとされたある作曲家が、別の作曲家に依頼した作品を恰も自身の作であるかの様に、結果として偽ったとされる事案。更に、政府系行政法人の理化学研究所の若手研究員が関わったとされる、新型細胞生成についての研究過程や資料などの虚偽疑惑など、前東京都知事や野党々首の巨額政治資金疑惑などが霞んで見える程の頻度である。最大の事案は、理化学研究所のそれだろうが、渦中の若手研究員は、不正などが許されない研究ノートの作成管理に相当の杜撰さがあったのは事実なるも、一人個人だけでなく、組織が関わった疑いが強く、又、その組織内、あるいは同研究所以外のケースにしても、個人同士などの所謂「馴れ合い」の構図があったのではないだろうか。又、当該するそれそれが、功利を焦った所もあろう。これらの問題の解明の為にも、当事者の各位は、刑事責任を問われるか否かに関わらず、我々国民市民の前に、真実を語る道義的義務を負っている様に感じるのは、俺一人ではあるまい。
さて、虚偽疑惑ばかりが続くと幻滅や失望に繋がり易いのが常の所だが、そうばかりでもない。自らの道を信じ、その多くが「真実一路」だった方もある。意外にもそれは、芸能人であった。司会者 タモリさんである。
本名を、森田一義さんと仰る。1945=昭和20年8月、福岡県ご出身。高校在学中より吹奏楽部にてトランペット演奏と司会をこなし、中退を余儀なくされた大学時代には、モダン・ジャズ研究会に所属、現在の縦横無尽に亘るご活動の原型が作られた様だ。1970年代に入った20代後半の頃、サキソホン奏者 渡辺貞夫さんの九州公演に同行の大学の同級生に面会された折の帰途、同じ宿に泊まり、部屋で談笑していたピアノ奏者 山下洋輔さんのグループの会話に合流、ここでのメンバー達との盛り上がったやりとりに山下さんが感動、当時は本名の森田姓だけを名乗って解散するも、この時の事が縁で再会、以後山下さんのグループ他との交流が続き、東京進出のきっかけとなる。
前述の事が縁で上京したタモリさんの(当時は先鋭的な)パフォーマンスの評判が、間もなく人気漫画家 故・赤塚不二夫さんの耳に入り、芸風や方向性の見極めを図った同氏は、ご自身のTV番組にタモリさんの起用を決意。番組まで日数があり、一旦帰省を望んだタモリさんを、何とご自宅に長期滞在する許可を付与した上で押し留めたのだと言う。下手をすれば、大きな間違いの元であり、当時いかに赤塚さんがタモリさんに全幅の信頼を寄せ、その才能を高く評価されていた事の証左と言うべきだろう。赤塚さんの先見性には、改めて脱帽させられる思いがするのも事実である。
この出演を無事に果たしたタモリさんの物語は、勿論ここで終わりではなかった。赤塚さんや山下さんらの引きで、芸能界本格デビューの運びとなる。1975=昭和50年終盤辺りより、夜間のTV番組をメインに露出度を上げて行く。又、前後してラジオ番組もご担当になり、「オールナイト・ニッポン」の同氏の担当日は、当時俺も楽しみにしていたものだ。この頃から放送作家 高平哲郎さんらTV族との交流も増えた様だ。
1980=昭和55年辺りに、一つ大きな転機があったと言えよう。高平さん同様、喜劇系に強い番組制作者 故・横沢 彪(よこざわ・たけし)さんらの奨めで昼間の帯番組への進出をも果たす。つい先日、終幕を迎えた人気番組「笑っていいとも」シリーズの発進。そのメイン司会に抜擢され、初期不調を見事乗り越え、31年半、8000回を超える長きに亘る番組司会を完遂するに至る。
放送ご出演初期の頃は、確かに先鋭的で際どいご言動も多く、どちらかと言えば深夜系の印象だったが、「笑っていいとも」シリーズの司会時は、その夜型カラーを早くから消し、状況に応じた臨機応変な番組の進め方のできる方だった様に思う。昼間の方は、途中からではあったが、子供達に見せても良いレベルをクリアしていたし、夜の方も、徐々に本来の知性が光るものに変わって行ったのではないだろうか。「変わらずにいる為には、変わって行かなければならない」事を、タモリさんはTV活動の中で、見事に実践されていた様に思う。だからこそ、小学生時代の事故による、片眼失明の悲運を乗り越え、TVの巨人への階段を上って行けたのではないだろうか。又若き日、吹奏楽と共に、日本武道を嗜まれた事も、同氏のその後の人格造りに寄与した所もあろうかと心得る。
もう一つは、人々との繋がりを大切にする姿勢。見る者を楽しませる一方で、一度築いた人脈を決して疎かにせず、常に手入れを怠らない真摯さが見て取れる。上辺では不勉強を装いながら、深い所ではちゃんとしっかり学んでいる。これらは、我々が本当は学ばなければならない事共の様な気がしてならないのである。だからこそ、同氏司会の番組は、長寿を誇るものが多いのだろう。「笑っていいとも」シリーズで共演したSMAPの各位や、モデル兼任タレント ローラさんらが「番組そのものが家族の様だった」と述懐されるのを聞いたものだ。
先年、赤塚さんがご逝去となった折、弔辞を詠まれたタモリさんは「家族以上の恩人」と称え、自らも赤塚さんの作品であるとされ、同氏の死を悼まれた。決して恩を忘れる事のない、尊い人としての姿勢を改めて学んだ気がしている所。「笑っていいとも」シリーズが終わり、喪失感に陥る、所謂「タモロス現象」も生じているやに聞くが、その威光は潰えてはいない。他の看板番組「ミュージック・ステーション」と「タモリ倶楽部」は少なくとも当分は継続されるし、司会者のみならず、俳優や音楽評論家など、複数の顔もお持ちだ。来年はいよいよ古希、そしてTV活動40周年の、大きな節目をお迎えになる同氏、「笑っていいとも」シリーズの司会進行完遂を心より称え、厚く一礼を申すと共に、これからのご活動のつつがなきを祈り、引き続き見守って進ぜる事としたい。