Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

舞台~岐路に立つ

2004-08-05 23:38:00 | インポート
猫さん今晩は。台風が駆け抜け、再び猛暑の気配ですがお変わりないでしょうか?
今月は「特集日記」などと大それた事を考えてしまいました。しかし始めた以上はもう後悔の仕様がないでしょう。
きちんとした文章にする為にはやはり、自分の足で見聞調査をする必要がありますね。ネットと言う近代兵器があってもです。
岐阜・・・中部地方の主要都市で、一番好きな街です。名古屋の都心から自動車で約40分、JRの快速電車なら僅か約20分で到達できます。愛知県北西部の一宮を過ぎ、岐阜との県境、木曽川の少し長い橋を渡ると間もなく、岐阜城の聳える金華山が目に飛び込んで参ります。列車、自動車共に車窓から見る事ができ「いよいよ来たな」と実感できる光景です。
JR東海岐阜、名古屋鉄道新岐阜の両駅はごく近所、ここから有名な繁華街「柳ヶ瀬」までは徒歩でも参れます。新岐阜駅を出るとすぐ、岐阜市内線の電車の姿を見る事ができます。
今は暑さで大変ですが、長良川沿いなど魅力的な散策コースが多い街でもあります。
車道は決して広くなく、交通渋滞が起こり易い難点はありますが。
その走り易いとは言えない表通りが、岐阜市内線の舞台です。本当に渋滞の様は見ていても気が滅入りますが、形こそ違え、電車の定時運転を難しくするこの街の交通混雑は案外昔からあったのかも知れません。*(山)*
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沿革~岐路に立つ

2004-08-05 22:49:00 | インポート
岐阜の路面電車、岐阜市内線は1909=明治42年に開業しました。
旧鉄道省、戦後の日本国有鉄道を経て現在はJR東海の岐阜駅から、現在の岐阜市役所傍の今小町と言う所までが初開通しています。
その2年後の1911=同44年には現在残る新岐阜と徹明町~忠節間(旧忠節支線)、岐阜東郊の美濃までの美濃町線が同時に開通、当時は美濃電気鉄道と言う会社が運営していました。
岐阜西方への揖斐線は、岐北軽便鉄道と言う会社により、1914=大正3年に忠節~美濃北方間が初開通、今の終点、大野町の黒野までは1926=同15年に開通しています。同じ年、黒野から有名な寺院のある谷汲まで、当時の谷汲鉄道により路線が通じています。更に1928=昭和3年黒野から先、揖斐川町の本揖斐まで延伸、その後1930=同5年に各社とも経営上の事情と思われる理由で名古屋鉄道に吸収統合されています。これが現在の岐阜市内線、美濃町線、そして揖斐線の原型となりました。
戦時中の空襲ではかなりの損害を被った様ですが、戦後復興を果たし、自家用車普及=モータリゼーションが勃興する1965=昭和40年頃までがこれら線区の全盛期でした。
1967=同42年に市内線と揖斐線の直通運転を開始、1970=同45年には、市内線の混雑を避け、美濃町線の電車を新岐阜駅へ直通させる連絡線、田神線も開通しています。
残念ながら、その後は現在に至るまで、利用者減による縮小の歴史が続きます。まず1988=昭和63年に市内線の本線と言われた徹明町~長良橋北間が廃止。次いで1999=平成11年春には美濃町線新関~美濃間が姿を消し(この時、新たな終点が長良川鉄道関駅に設けられています
)、その後の2001=同13年に揖斐線の黒野以西と谷汲線全線の廃止はまだ記憶に新しい所でしょう。
そして残る線区、かつて忠節支線と呼ばれた岐阜市内線の現存区間と揖斐線、美濃町線そして田神線も、今や存廃の問題に直面しているのです。(8/3記)*(SOS)*



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