童話「ボケの住む町」を更新しましたが、なぜ「いじめ」をテーマに書いたのかお話したいと思います。
数年前になりますが、教会学校で父母との個人面談でショッキングなことを聞きました。
小学2年生の男の子が、上級生に口のききかたが生意気だと取り囲まれて、脅されたというのです。その男の子は恐怖のためしばらく学校へ行けなかったそうです。
中学でのできごとならそれほど驚きませんが、小学校で実際に起きたことです。
また、小3の男の子のお母さんからは、テニス教室で同じ学年の男の子から、何もしていないのにすれ違いざまにひどい言葉、傷つける言葉を毎回のように言われているのだと聞きました。その男の子は、母親にいつもひどい言葉でどなりつけられているそうです。
わたしは、虐待は連鎖するのか?という問題について去年調べました。色々な例を調べているうちに、子供を虐待する親は、親自身が子供の頃虐待されていたというケースの多いことに気づきました。もちろん、虐待を受けた子供がみんな虐待をするようになるわけではありません。でも、たしかに連鎖は起こっているのです。
言葉によるいじめ、暴力によるいじめも連鎖が起こります。親から子へだけではなく、子供から子供へ。子供から動物へ……。
強いストレスを受け、そのはけ口を自分の子供に向けてしまうことは、私自身も経験があります。自分のかかえている問題が解決できなくて、子供に当たり散らしてしまったことがありました。
「弱い者に対して接するその態度があなたの本当の姿です」と、礼拝のメッセージで聞いたとき、自分が恥ずかしくなりました。目上の人や友人には腹の立つことがあっても文句もいわず、ニコニコしているのに、自分の子供には自分の醜い思いを押さえることができず、ぶつけてしまっていたのでした。
親も子供もストレスをかかえている者が多い現代です。虐待やいじめの連鎖をどうしたら断ち切ることができるでしょう……。
ボケが拓也の代わりにかみつかれたというのは、キリストがわたしたちの身代わりにむち打たれ、十字架につけられたことを意味します。
イエス・キリストは言われました。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。(ルカ6:27)」
キリストの愛の行為を行うことによって虐待やいじめの連鎖は断ち切られます。断ち切るものは、愛しかないのでは?……。
虐待、いじめの連鎖ではなく、愛の連鎖が起きていったらいいなあと願いつつ書きました。